<シリーズ>教会からのメッセージ

2019年9月15日

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書544節)。

 

 自分に好意を抱く人を「隣人」として愛することは容易なことです。しかし、「敵」を愛することは容易ではありません。子どもがケンカをした時、「みんなと仲良くしなさい」と叱るのは簡単かもしれませんが、自分自身が「敵」とする人々と仲良くすることは容易ではありません。

 最近はニュースやインターネットなどで、他国に疑いを抱かせ、差別を陽動するような情報が増えています。人間は他者と線を引き「敵」と定め、みんなで貶めることで安心を得ることがあります。特に自然災害や不穏なニュースなどでみんなが不安に襲われた時、不安の裏返しとして、極端な悪いかたちでの共感が現れます。

 192391日、関東大震災が起きました。混乱の中でデマが広がり、朝鮮人の方々が暴徒化し、盗みを働いているという誤った情報が人々を不安に陥れました。結果多くの朝鮮人、また朝鮮人であると疑われた方々が日本人の手によって虐殺されました。この出来事から100年近くがたちましたが、残念ながら今も日本の中の歪んだナショナリズムや差別意識は当時と変わらず色濃く残っています。最近では、関東大震災後に日本人による「虐殺」はなく、それらはすべて正当防衛であったと主張する人も出てきています。人種で人を切り分けて、罪のない人を殺した上に、未だにデマを広げようとする動きがあります。

 イエス様は仲間だけではなく、様々な隔ての壁を超えてすべての隣人を愛するようにと言われます。その隣人とは自分が敵対し、憎しみを憶える人をも含みます。罪を繰り返す私たち人間を諦めることなく、イエス様は大切な教えを語ってくださいました。長い不況が続き、個人主義が蔓延し、多くの人々が不安に包まれたこの時代にあってこそ、このイエス様の教えを私たちは真摯に聞いていきたいと思います。(奥村献)

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2019年9月8日

 

「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」

      (ヨハネによる福音書58節)。

 

ベトザタの池のところに、38年間も病気で苦しんでいる人が横たわっていました。はじめは、「きっと治る、元気になって家へ帰ろう」と思って、池へやって来たのだと思います。水が動いた時、池の中に入ると、治るのです。でもその人は、自分では池の中に入ることが出来ず、また誰もその人を池の中に入れてくれなかったのです。そして、病気が治らないまま、長い年月が経ってしまっていました。「誰も助けてくれない。もう病気の治ることなどないかも知れない」そう考えていたのかも知れません。

イエス様はその人に、「良くなりたいか」と声をかけます。その人は答えられず、「池の中に入れてくれる人がいないのです」と訴えました。自分にも人にも失望して、「もうそういう機会は、与えられそうにないのです」と言っているのでしょう。このように、環境や状況というものが、わたしたちの思いや願い、意欲などを変えて行ってしまうことを思います。

事柄をわたしたちに置きかえてみれば、「学校が」、「仕事が」、「時間が」、「健康が」と、環境・状況の困難さを答えるわたしたちの姿がそこにあります。この問題が解決すれば、わたしの本当の生き方ができるようになる、そう考えている、わたしたちの挫折があります。

イエス様は、そんなわたしたちに「そのような答えをして、しゃがみこんでしまわないで、起き上がりなさい」と言われます。

主の日礼拝が、「起き上がりなさい」と言われるイエス様の言葉と出会う時となるように、礼拝に仕えたいと思います。(小川宏嗣) 

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2019年9月1日

 

私が教会に来るきっかけになったのは、私が汀幼稚園の卒業生だったことです。

中学生までは欠かさず教会に来ていましたが、高校の時は全く教会に来ていませんでした。また教会に来ることはないと思っていました。けれど、ある時、道端でばったり教会の人と会って、「最近教会来ないけどどうしたの?もう教会来ないの?」と言われました。この人との出会いがまた教会に行くきっかけを作ってくれました。私は教会のことを忘れていました。けれど、教会の人は私のことを忘れずに覚えていてくれました。そのことがとても嬉しかったです。

それから私は休まずに教会に出席するようになりました。礼拝に出席して、聖書を開くことが多くなっていき、自分の知識だけではわからないことや、青年会の学びだけでは分からない聖書のことを、よりくわしく知っていきたいと思うようになりました。そこで、牧師先生に相談し、信仰クラスで学ぶことになりました。またわくわくカフェに参加することによってより教会が身近に感じるようになりました。

最初は、牧師先生との1対1の学びは、バブテスマを受ける人だけが学ぶものだと思っていましたが、「学ぶだけでもいいよ」と言われたので、学びたいと思いました。信仰クラスの学びをするようになり、イエス様のことをより身近に感じるようになり、私を支えてくれる存在になっていき、イエス様のことを信じたいと思いました。

私は、一度教会を離れイエス様のことを全く考えることを忘れてしまった罪人です。けれども、イエス様は私のことを忘れてはいませんでした。また私を見捨てることなく受け入れてくださいました。これまで、イエス様が私を愛してくださっていることがわかりませんでしたが、学ぶうちにイエス様が私を愛してくださっていることがわかるようになっていき、私はバプテスマを受けようと決心しました。

私はイエス様を救い主と信じてこれからも歩んでいきます。またイエス様の喜ばれることをしていきたいし、教会を休むことなく礼拝に出席していきたいと思います。

最後に、私が小学校卒業の時に、出会った聖書の言葉を紹介して信仰告白を終わります。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカによる福音書631節)。       

             (A.H『信仰告白』2019825

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2019年8月25日 

「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

(マルコによる福音書153739節)。

 

わたしたちのまわりでは、自分の意見を述べる時など、「みんなが言っているから」というような言い方が、よくされています。ひどい場合には、それが自分ひとりの意見であったりします。それは人間の狡さなのでしょう。

同じようなことですが、「みんなも見ていた」というようなことが言われます。「わたしは見ていた」とは言わないのです。

何もしないで、ただ十字架のイエス・キリストの姿を見ていて、「エリヤ来て、何かするかもしれないから、見ていよう」(マルコ15:36)と言った人は、そのような人たちだったのだと思います。そういう人たちのことを見物人と言います。

しかし、見物人とならないで、「このイエス様は、神の子としか考えられない」ということを、百人隊長は言いました。自分ひとりの言葉として言ったのです。このようなことを信仰告白と言います。

わたしたちは、百人隊長のように言うことができないかも知れません。でも、このような信仰告白をする人になってほしい、というのが、わたしたち教会の祈りです。

どうか、教会で、教会学校で、祈祷会で、イエス様のお話を聞くだけで終わらないで、そのイエス様に従って、信仰の旅をする人になって下さい。

                        (小川宏嗣)

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2019年8月18日

 

 「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。...『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』...」(ルカによる福音書4章16~24節)

 

 見い出そうとすること、求めようとすることに困難な人々が、安息日に、礼拝堂で、イエス様の話を聞いていることが知らされます。

 しかし、その時、イエス様のことを「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)とナザレに住んでいる人は言ったのです。イエス様の育ったところなので、知っている人も多かったのでしょう。「わたしたちのよく知っていた子だ」。彼らは驚きのうちに言うのです。礼拝を献げるところで、このような戸惑いが起こったという事でしょう。

 イエス様が十字架の上にあった時にも、「待て、エリヤが降ろしに来るかどうか見ていよう」(マルコ15:36)と人々は立っていました。しるしを求めたという事でしょうか。人は誤解しようと待ち構えているのです。復活の光に照らして見なければ、イエス様は見えなかったということでしょうか。

 復活という出来事とは信仰経験です。納得できるような説明、しるしを求める限り、わたしたちもまた、あのナザレの人々のように、イエス様にヨセフの面影を探すことになるのではないでしょうか。

 イエス様は、わたしたちに、信仰によってご自身を見ることを求められるのです。このイエス様の求めを、人との交わりにおいても、信仰によって互いを見ることとして、受け止めたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年8月11日

 

「それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちはむなしいことを語り

欺きの幻を見ているので、わたしはお前たちに立ち向かう、と主なる神は言われる。…平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい『それは、はがれ落ちる』と。…」

(エゼキエル書13章8~16節)

 

生活が豊かになり、自分の事ばかり中心に考えるようになると、平和を作りだすことを忘れて、何もしなくてもこのような平和な状況がいつまでも続いて行くように思われがちです。そこに、平和を「欺きの幻」としていまうことが」起こるのです。

 「はがれ落ちる欺きの幻」(エゼキエル13:11)とエゼキエルは言います。偽りの平和が語られていたということです。それが、当時、エルサレムに預言するイスラエルの預言者たちの姿でした。

 「偽り」という文字は、「人の為」と書きます。わたしたちが、「人のため」というとき、更にもっと大きく、「国の為」という時、実はそこに偽りがあるのではないでしょうか。その偽りに気づきたいのです。

そのような偽り、欺きの幻をわたしたちに気づかせてくれるのは、エゼキエルのような預言者的行い、生き方をとおしてです。

 イエス・キリストは、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)と言われました。平和を作りだすことの第一歩は、自分の罪を認め、告白し、悔い改めていくことです。

 神の子の喜びの日を信じて、欺きの幻ではなく、イエス様の言葉を歩みたいと思います。   (小川宏嗣)

2019年8月4日

 

「何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。…主は喜ばれるだろうか…人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書668節)。

 

思い出すと悲しいこと、思い出して自分が嫌になること、そういうことは、誰にもあることだと思います。預言者ミカは、神様の喜ぶことを考えた時、多くの喜ばれないことを思い出し、「ああ、これではいけない」と自分に語っているように思われます。

そこで、神様は何を喜ばれ、何を求められるのだろうかとミカは考えます。そしそれは、「へりくだって神と共に歩むことである」と気づきます。神様の前にへりくだるということは、自分にとって都合のいいところだけを聖書の言葉にしない、ということでしょう。そして、聖書の言葉を「ここのところは、誰々さんに読ませてやりたい。反省するだろう」というように読まないということだと思います。聖書の言葉は、みな神様がわたしに語って下さる言葉なのだという思いを持つことだと考えます。

神様が見えるかたちで一緒に歩いて下さるわけではありませんから、神様と共に歩むということは、「何かにつけて、神様のことを思う」ということです。どんな時にも神様のことを考えるということです。

神様もどんな時にも、わたしたちのことを思い考えて下さいます。このことが「神と共に歩む」ということなのです。嬉しいことがあった時、辛い時、嫌なことのある時、何かにつけて神様のことを思うこと、このことを神様が求めておられるということなのです。(小川宏嗣)

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2019年7月28日

「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(マルコによる福音書440節)。

 

わたしは19歳から21歳まで漁船で漁師をしていました。船というのは積荷を積まないと走らないということがあります。風が強い場合には、船の積荷を加減して走らせるのです。この積荷が聖書のいう重荷です。教会もイエス様と一緒にわたしたちのそれぞれ持っている重荷を積んで走って行く。船はよく言われるように教会であると考えると、わたしたちもイエス様と一緒に船に乗って人生の沖に出て行く。一人ひとりが自分の重荷と一緒に船に乗っている。そうして走らせている。その船にはイエス様が乗っておられる。これが教会という船であるということを思います。

重荷ということを考える時に、わたしたちも色んな重荷を負っています。そして人の重荷は気づかず、それゆえに、それぞれ負っている重荷は孤独であるということも思います。しかし、重荷を降ろした船、積荷がない船は波のまま風のままです。小さな風に翻弄されてしまいます。

わたしはそれぞれ負っている重荷を、そんなに単純におろせるのだろうかと思います。わたしは重荷というのは、おろせないのではと思います。だから、重荷をおろしてイエス様のところに行くということは、そう簡単に出来ないと考えます。しかし、その重荷があるからイエス様と乗るわたしたちの船は走って行くのです。

 

重荷を負うことは、孤独なことですが、イエス様が一緒に船に乗っているということにいつも気づいていたいと思います。そして、これからもイエス様と一緒に、教会の皆さんと一緒にこの船に乗って行きたいと思います。                         (小川宏嗣)

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2019年7月21日

 

「…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい…」

(マタイによる福音書628節)。

 

イエス様は、「野の花をごらんなさい、そして野の花はどうして育つか考えてみなさい」と言われましたが、それは、どうして野の花が咲いているのか、どこに、どのようにして育っているのか、わたしの人生の野原で考えなさいということだと思います。

教育に影響を与えた人に、マリア・モンテッソリーという人がいます。モンテッソリー教育は日本でも取り入れられています。

モンテッソリーが学生時代、ある日の夕方、ローマの町の家路を辿っていると、そこに子どもを背負った母親が物乞いをして、道端を通って行く人に声をかけています。モンテッソリーが通ると、やはり手を伸ばして、「お嬢さんお恵みを」と言って手をさし出します。モンテッソリーはその時、その母親ではなくて、母親に背負われている子どもの方に目を留めます。子どもは一枚の色折り紙を手に持っていて、それをずっとくい入るように見ているのです。モンテッソリーはその姿を見て、どんなに自分の周りが暗く絶望的で変わらないとしても、そしてこの小さな子どもにとって、自分の環境を変えることができないとしても、この子に一枚の折り紙を与えるならば、この子の世界は明るく輝き、この子の世界は命を持ち、この子の世界は将来を持ち、広がっていくのだということを気づきます。モンテッソリーの感受性が心深く受け止めてそのように見たということでしょう。わたしたちもそのような経験を大切にしたいと思います。

わたしたちの野の花はどこに咲いているのでしょうか。わたしは、やはりそれは教会の中に咲いているように思います。教会そのものが野の花でありたいと祈っています。(小川宏嗣)

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2019年7月14日

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。

けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネによる福音書69節)。

 

叱っても、説得しても人を変えることは出来ません。人を変えるということは、イエス・キリストがしたように、自分を十字架につけることによってのみ出来得ることではないでしょうか。

ある日、イエス様のお話しが終わって、人々が帰り仕度に気がつくと、もう夕やみが迫って来ていました。夕食の準備をしなければならない時間となったのです。「どうしようか。誰も食べ物なんて持ってやしない」。弟子たちは困惑してしまいます。その時、ひとりの少年が、五つのパンとさかな二匹をイエス様に差し出したのです。

それを見て、何もないと思っていた弟子のひとりが、「あの包みの中に、確か何か残っていたはずだ」そう思い出して取りに行きます。「ああ、そんなのでいいのなら」他の弟子たちも同じことをし始めます。そこに集まっていた人々は、皆、ゴソゴソやるのです。すると、パンは籠の中に溢れるほどに集まってしまう。まさか、誰も持っていなかったはずなのに。

これが自分を十字架につけて人を変えるということではないでしょうか。

そして、こういう聖書の読み方は、イエス・キリストの奇蹟を否定するということになるのでしょうか。そうではないと思います。奇蹟は頭で信じるものではなく、生活で信じることなのです。イエス・キリストの言葉に従う生活が奇蹟を起こすのです。

イエス様の言葉を生活の中で信じていきたいのです。(小川宏嗣)

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2019年7月7日

 

そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく、七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。…』」(マタイによる福音書18章21~22節)。

 

中学生の頃、教会で次のようなお話を聞きました。「ペテロがイエス様に向かって、『人をゆるす時に何度までゆるしたらいいか』ということをたずねた時に、イエス様が『七度を七十倍までゆすしなさい』と言われたけれど、その意味は、自分の経験から、イエス様は『ゆるしぐぜがつくように』というように話されたのだと思う」と、そんなお話でした。

 

わたしはその後、神学校で聖書のことを学ぶようになりましたので、イエス様が言われた「七度」というのは「完全数」であるとか、いろいろな理屈めいたことを知るようになりました。しかし、教会で聞いた、「七十倍ゆるしなさいというのは、ゆるしぐぜがつくように」とのお話は、それからいろいろな経験をしてきて、本当にそうだなと思うことです。

 

聖書というのは、もちろん専門的に学ぶことも必要です。けれども、自分の経験とか、人との出会いとか、そういうことから学び、そしてそれを証しすることもどんなに大切かということを思います。教会はそのことを教えてくれるところなのです。(小川宏嗣)

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2019年6月30日   

 

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、きょうだいたちを力づけてやりなさい」

                   (ルカによる福音書2232節)。

 

大切な特別礼拝にお招きいただき、感謝します。中條智子(ちゅうじょう ともこ)と申します。福岡市南区の長住バプテスト教会で、夫もともに牧師をさせていただいています。

生まれ育ったのは福井県です。実家はキリスト教とは縁のない家庭でしたが、たまたま入れられた幼稚園が教会付属幼稚園でした(今は学校法人になっています)。月曜日の朝は、ふだんは入ることのない、椅子がたくさんある部屋(礼拝堂だと思います)で、園長先生からお話を聞く時間がありました。紙しばいも見せてもらったと思います。おぼろげながら、日本の昔ばなしとはまったく違う登場人物の服装や名まえやストーリーに、不思議さを感じた記憶があります。そういえば、手渡される聖書には、その日の個所に、折り紙を細く切ったしおりが入っていました。先生たちが一冊一冊開いては、挟んでくださったのでしょう。新約のみの聖書とはいえ、おとなが使うのと同じものでしたから、読めるわけもないのですが、「きょうは、紫色のしおりのところです」と言われて聖書を開き、「わたしはぶどうの木」というお話をきいたことは憶えています。卒園するときは、それぞれが、いろいろな色のしおりがたくさんになった聖書をもらいました。

その後は、公立の学校だったこともあり、キリスト教に触れる機会はほとんどなくなりました。そんな私が、社会人となって教会に通うようになり、キリスト者となり、神学校で学んで牧師となるとは、自分自身も含めてだれも想像していなかったことでした。それとも、あのころ幼稚園の先生たちは、園児たちの中からキリスト者がでるようにと、祈っておられたのでしょうか。

 

(中條智子・長住バプテスト教会牧師)

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2019年6月23日

 

主のみ名を心から讃美します。

去る5月は、天皇の代替わりによる改元が行われました。天皇の神格化ともとれる礼賛と改元フィーバーの様子がメディアで一斉に報じられた1ヶ月でした。問題は何一つ解決されないまま置き去りにされ、新しい時代が到来したかのような気分のみが持ち上げられ、前を向かされているようです。

人の心も時間も偶像に支配され、国民主権、信教の自由、政教分離が侵され、日本全体が一つの方向へと乗せられていく恐ろしさ。沖縄の人びとが平和を求め、状況を変えようとあげる声に目を覚まさせられ、祈りを共にしていきたいと思います。

今年は623日の主日が「沖縄(命どぅ宝)の日」です。622日~25日まで行われる沖縄学習ツアーが守られますようにあわせてお祈りくださいますようお願いいたします。

(日本バプテスト女性連合 623「沖縄(命どぅ宝)の日」推進委員会)

 

~*~*~ 祈り便 第49信 ~*~*~

<一年を通しての祈り>

・沖縄の平和は私たちの平和です。沖縄の人びとの声に耳を傾け、真実を見ていくことができますように。

・沖縄の地に立てられている教会の福音宣教を覚えて。

<時々刻々の祈り>

・沖縄の人びとは選挙のたびに「戦争につながる基地はいらない!」と民意を表明し続けています。今日も座り込みで平和を訴える人びとに、日本全体が真剣に向き合う流れが起こりますように。

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2019年6月16日

「…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイによる福音書62829節)。

先週、汀幼稚園の園児の皆さんが素敵なお花をもって、牧師の住まいを訪ねてくださいました。来てくださったのが、年少のことり組さんでしたので、こどもたちが天使のようでかわいらしかったのです。お花をいただくととても嬉しい気持ちになります。その日は、幼稚園の「花の日礼拝」で、園児たちが持ち寄ったお花をもって、地域の方々を訪問したのです。

教会のお隣の園庭では、幼な子が先生方の近くに寄ってお話ししている姿を毎日見ることができます。こどもたちのあげる声、動きまわる姿、わたしは時々、それらの一つひとつのふるまいが、花のように見える時があります。「そうだ、ここに神の国があるのだ」(マタイ18:14)と幼な子を祝福するイエス様の声が聞こえてくるようです。

イエス様の好きだった花は、イスラエルの野に咲く、アネモネの花であったと言われています。イエス様は、「野の花をごらんなさい」と言われました。

人は、かけはなれた人とではなく、身近なところで比べやすい人とのものさしをもって、優劣をきそい、比較し、優越感や劣等感、高慢、嫉妬といったものを抱えこんでしまいます。「視点を変えて、野の花を見てごらん。野の花は野の花として咲き続けている。それでいいのだよ」とイエス様は言われているようです。

 

小さな花も神様の愛をたくさん受けて咲いて、わたしたちを癒してくれるように、わたしたちも神様からいただいた愛を、隣人に、地域の方々にお届けしたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年6月9日

2018年の春に西南学院大学に入学し、2年目を迎えました。福岡教会の皆さんに暖かく迎えられ、お祈りとお支えに励まされながら歩みを進めています。福岡の中心地にあり、長く深い歴史を持つ教会で研修をさせていただくということで、とても緊張していましたが、その緊張を皆さんが様々なかたちで解きほぐしてくださり、豊かな学びと信仰生活の時を与えられています。

神学生の学びは、自教会はもちろん推薦教会や全国の諸教会・伝道所の皆さんの祈りとお支えにより成り立っています。神学部の教授も、神学生一人一人を憶えつつ、学問を教えるということ以上の様々な牧会的なケアをしてくださいます。様々なかたちで支えてくださっているお一人お一人に、またそのお一人お一人の中に生きて働いてくださる神様に心から感謝致します。

全生活においてよく学び、遣わされたそれぞれの場でひたすら神様にお支えすることこそが、私たち神学生に託された皆様からの思いをお返しすることだと思っています。神学生はそれぞれに将来への不安や恐れの中にありますが、互いに励ましあい、祈り合いつつ日々の歩みを進めています。

 

本日は「ひたすら走ること」と題してお話をさせていただきます。これはフィリピの信徒への手紙3章14節からの言葉ですが、パウロはどのような意味でこれを語ったのでしょうか。毎日、一生懸命歩んでおられる皆さんは「もう走ってます!」と言いたくなるかもしれません。フィリピの信徒への手紙はパウロが獄中で書いた手紙です。大変な困難の中にあったパウロが、様々な問題を抱えていたフィリピの信徒たちへ特別な思いをもって書きました。パウロが自分自身、苦しみの中にありながら、フィリピの信徒に伝えたかったイエス・キリストの福音とはどのようなものであったのでしょうか。皆さんと共に考えたいと思います。(西南学院大学 神学生 奥村献) 

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2019年5月26日

 

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

(ガラテヤの信徒への手紙52223節)。

 

「人が天国に持っていけるのは人柄だけだと思う…医師をとしてずっとやって来て…人というのは、二通りあって、自分のことばかり話す人と、人のことを話す人と、その二通りしかないのではと思う…そして人柄は個性であり、個性は大事だと言われるけれども、個性というのはしばしば私たちの欠点ではないか…」(故伊藤邦幸 元JOCSネパール派遣医師)。

個性を大事にと言われます。こどもにとって個性が大事だと言われる時、それが大きくなった時に欠点にならないような、そういう意味合いも含めて個性が大事だということを思います。わたしたちは個性としての欠点というものを持っています。欠点、穴だらけの自分ということを思います。

そういうわたしたち、穴だらけの人間が、人と人との言葉を通わせていくということがどんなに困難なことでしょうか。しかし、そういう欠点を持っているわたしたち、穴だらけのようなわたしたちのところに神様は風を送って下さいます。フルートという楽器のように、穴だらけであっても、中を風が通るといい音が出るのです。

 

わたしたちは罪の問題を抱えて、罪の穴だらけの体を持っている者ですが、そういうわたしたちの中を風が吹き抜けていって、よい音を出して下さって、人と人とを結び付けていく心の言葉を与えて下さる。そういう風を信じたいと思います。そういう風の経験、聖霊がわたしたちのうちに働くことを信じたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年5月19日

 

「わたしの愛する者たちよ、そういうわけだからいつも従順であったように、わたしが一緒にいるだけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ人への手紙213節)。使徒パウロがピリピ教会の人々に対して、獄中から、捕らわれの身でありながら、手紙を送っている一節です。

愛というものは、悲しいものだということを思います。それは、愛というものは本来は報いられないものだ、そこに悲しいものがあるのだと思うからです。

たとえば、親がこどもを一生懸命に育てて行く。しかし、こどもは離れて行ってしまう。自分たちの思ったようには育って行かない。愛の思いが深ければ深いほど愛が悲しみを持ってくる。そういうことがあります。人を愛していく。しかし、その愛というものが受け入れられない。愛することは悲しいものだということは、わたしたちの経験することです。

「愛する者たちよ」というパウロの呼びかけには、そういう思いが込められています。単なる仲間の人たち、普段、わたしたちの思いを理解している人たち、というわけではありません。わたしを裏切るかもしれない。わたし自身が愛せなくなるかもしれない。愛というものはそういう悲しいものを含んでいる。しかし、愛するあなた方に言いたい。「わたしはいつも一緒にいるわけではなく、これからいなくなってしまうのだから、どうか、このことを分かってほしい」と、獄中から、捕らわれの身でありながら書いているのです。あなたが存在して生きている、それだけでわたしは慰められ、勇気づけられ、励まされている。そうパウロはピリピの人々を励ましています。

 

このような人と人との関わる世界を大切にしたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年5月12日

 

創世記11章に『バベルの塔』の物語があります。人間が神様のところまで高く達しようと考えて、煉瓦を積み上げて行く。段々と煉瓦は積み上がったけれども、言葉が通じなくなって人々はみな、それぞれ散らされて行ったと記されています。

この出来事について、次のような逸話があります。「煉瓦を高く積んでいくわけだから、段々と高くなって行くと、足を滑らせて下に落ちる人も出て来る。また落ちるだけではなくて、命を失う人も出て来る。そうすると、それを見た人々は誰かが代わって登ってくればいい、そう考えた。ところが煉瓦が落ちると、せっかくここまで煉瓦を運んで来たのに、何てもったいないことをしたのかと怒りすらもった。人よりも煉瓦を大事にするようになってしまったので、人々の言葉が通じなくなって、そのバベルの塔を作っていくということは出来なくなり、人々はバベルの塔からみな降りて、散らされて行ったのだ。」(マックス・ピカート)という逸話です。

人よりも煉瓦、命よりも物を愛することによって、人は堕落し、そして言葉を失って、それぞれが散らされて行くということを思います。この逸話は、わたしたちは今、お互いの心が通じず、言葉が通わない、病んだ時代を生きているのだと警告しているようです。

ですから、言葉が通じ合うためにはどうしたらいいのでしょうか。わたしたちは物を愛することを止めて、人を愛そうではありませんか。そのために聖書の言葉に立ち帰って、神様の言葉をいただいて、人と人との心を通わせ、一つになって心が通じ合って行く、そういう世界を求めて行こうではありませんか。                   (小川宏嗣

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2019年5月5日

 

「ところが他の種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書13章8節)

 

 

福岡バプテスト教会の会員であり、恩師である故天野有先生(西南学院大学神学部教授)が昨年10月に神様のもとに召されてから6か月以上が過ぎました。

 

 天野先生は、カール・バルトというドイツの神学者がとても好きで、その人の神学の研究を一生懸命しておられました。正直に言いますが、天野先生のお話というのは、とても難しいお話でした。難しいのですけれども、天野先生はとにかく一生懸命でしたので、わたしたち学生も一生懸命お話を聞いたのです。

 わたしは、「真剣」ということはとても大切なことだと思います。分からなくても、一生懸命その人が真剣に生きていたり、その人のいう事や行いを見て、その人が大事にしていることに気がつくのではないでしょうか。きっと、天野先生はそういうお話をすることの中に、神様からいただいた愛を持っておられたのだと思います。

 以前、ある幼稚園の園長先生が、「子どもにとって幸せなのは、良い大人に出会うことだと思いますよ」とお話し下さったことがあります。本当にそうだと思います。わたしも、天野先生の出会いを通してそのことを実感しているからです。

 一番幸せなことは良い大人に出会うこと、それを聖書の言葉で言うと、そこに大切な「良い土地」があるということだと思います。良い土地というのは、こどもにとって良い大人に出会うことなのです。今の若い世代の人たち、特にこどもたちの前に、わたしたちも真剣に生きる大人の一人でありたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年4月28日

旧約聖書の中に「ノアの物語」があります(創世記69章)。

ノアという人は大変信仰深い人で、神様の言葉に従って生活をしていました。ところが、その信仰深いノアがある日、酒を飲んで、裸になって醜態をさらし、ひっくり返って眠ってしまいます。するとハムという一人の息子が、二人の兄弟の所に出かけて行って、そのことを告げ口します。その話を聞いて二人の兄弟、セムとヤファトは、父が裸になってひっくり返って眠っている、その姿を見ないようにして、着物を後ろ向きになってかけてあげた、裸を見なかったというのです(創世記9:23)。

 

わたしたちは誰でも見られたくない欠点というものがあります。過ちを犯すこともありますし、自分の裸もさらけ出したくないということがあります。ところがそれを嘲ったり、告げ口をしたりすることが現実にあります。立派な人だと言われているけれども、あの人だって分かったもんではない、そういう言い方をされます。裏側がありますよ、そういう評価をする。人の裸を笑うということがあります。

 

 

わたしはノアの物語を読む時に、後ろ向きで着物をかけてあげたセム、ヤファトのように生きたいなということを思います。後ろ向きで、裸を見ないで、着物をかけてあげられるように、そういう人生を送れないものだろうか、そのように考えています。(小川宏嗣)

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2019年4月14日

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書1436節)。

 

イエス様はゲッセマネで、「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36)と祈りましたが、その時、イエス様の目には涙があふれていたように思われてなりません。「この杯は飲みたくない」と、涙をもって祈るイエス様を、わたしは想像するのです。

それは、わたしもまた、「この杯は飲みたくないな」と思いつつ、涙を流しながら飲みくだすような、この世の事柄を抱えているからです。

人は誰でも、付き合いたくない人間関係があり、やりたくない仕事があり、逃げ出したくなるような生活があるのだと思います。耐えがたい病もあります。どれも飲めない杯です。しかし、その杯を、神様のご意志のままにと、イエス様は祈りました。

新約聖書の中に、イエス様の十字架を「無理に」負わされたキレネ人シモンという人が出てきます(マルコ15:21)。わたしたちには、イエス様の十字架を負う、というような言い方でしか説明できないような経験があります。キレネ人シモンもまた、飲めない杯を、涙を流しながら飲んで、イエス様の十字架を負ったのではないでしょうか。もし、負いきれないような苦しみをもつことがあったら、「イエス様の十字架を負う」こともあるのだ、とこのキレネ人シモンのことを思い出してほしいのです。

 

しかし、十字架の向うには、必ず、神様のからの復活の出来事が約束されていることを信じて、お祈りしています。(小川宏嗣)

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2019年4月7日

 

「互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。」(使徒言行録216節)。

 

本日は2019年度最初の主日礼拝を神様に献げます。新しい教会生活の始まりです。教会生活の真実とは、教会で神様に与えられた交わりの中で、真実を確かめ合って、それから分かれて、それぞれが自分の場に戻って行く。或いは、本当の自分になって出発して行く。それが教会生活であると思います。

「交わりというのは、あなたもイエス・キリストによって罪がゆるされているということを確かめ合っていくことだ」(浅野順一)という言葉があります。教会の交わりとは、ただ「元気ですか?」ということを確かめ合うことを超えて、あなたもイエス様によって罪がゆるされているということを、本当に深いところで確かめあっていく。そこに教会生活の真実あるのだということを思います。

 

わたしたち教会の今年度の歩みはどのようなものになるのでしょうか。一見、平凡に見え、単純に見えるようなことの中に、真実とか、誠実さがあるのではと思います。

 

わたし自身、今年度も教会の働きを続けることができることは喜びです。そのことの背後には、これまで、わたしを導いてくださった方、信仰の先輩の方々、或いは、今、ご一緒に、この教会を支えて歩んでいる方、その一人ひとりの存在が、わたしに新しい力を与えてくださっていることを忘れないでいたいと思います。そして、今年度も教会の皆さんとご一緒に教会の働きを誠実にして行きたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年3月31日

 

…上着を奪い取る者には、下着も拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。」(ルカによる福音書629節)。

 

過日、汀幼稚園の卒園式が当礼拝堂で行われました。36名の卒園生の立派で豊かに成長した姿に心から感動しました。こどもたちは幼稚園で、基本的なこと、基礎的なことをたくさんに身につけたと思います。けれども小学校・中学校・高校に進むにつれて、それらのことは見えなくなっていきます。しかし見えないだけで、身体に肌着のようにぴったりとついているのだと思います。しかしわたしたちは、人がどんな肌着を身につけているかではなく、どんな上着を着ているかで評価してしまいます。

イエス様は、「上着を欲して奪いとりたいと考えている者は、下着をも欲するのだから、拒まないで、これが下着ですよ、といってあげるようにしなさい」と教えました。上着というのは、世の地位、名誉、富のたとえです。下着とは愛や信仰の意味です。それは、世の地位や富を欲して奪いとろうとさえする人間、しかしそういう人間でもそれなりに愛や信仰も欲しているのだ、だから、下着の方は拒まないで差し出してあげなさい、という意味なのです。

よごれた下着しか持ちえない人間。下着すらない人間は多い。上着ばかりを追いかけている。わたしたちの姿でしょう。イエス様はそんなわたしたちに、この下着を身につけるようにと言いたいのです。

 

 

愛をわけあたえることができるように、祈ることができるように、そういう下着を身につけるように、この4月に新しい出発をする一人ひとりに神様の導きを祈りたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年3月24日

 

ある年のとても暑い夏のこと。10歳の少女が学校から帰ってきました。「お母さん、お友達と泳ぎにいってもいい?」でもお母さんは留守でした。実はお母さんから川に泳ぎにいってはいけないと言われていたのですが、友だちに誘われた少女は、約束を破って川に泳ぎに行ったのです。川でボチャン、ボチャンとふざけていたら、突然ストンと河口の渦の穴に落ち込んでしまいました。川が海とぶつかるところには渦が沢山巻くのです。渦の穴は深く、上から見たらおかっぱの頭が渦の中でくるくる回っていました。◆少女はその中で怖い目にあっていました。廻りから黒い毛むくじゃらの腕や緑色の腕が何本も出てきて自分を捕まえようと迫ってくるのです。たすけて~、怖いよーと叫んでも、誰も助けに来ません。いつの間にか意識を失っていた少女は突然目を覚ましました。砂浜に寝かされていました。誰かが助けてくれたのです。◆この少し前、おじさんが釣りにやってきて、川で子供らがワーワー叫んでいるのが聞こえました。おじさんが駆け寄ると、川の渦の穴の中に子供の黒い髪の毛が見えました。急いで近づき、その子の頭を引っ張り上げたのでした。◆おじさんは、しばらくして気がついた少女を、自転車の後ろに乗せて、その子の家に送っていきました。お母さんは留守だったので、隣のおばちゃんが出てきて、事情を聞きお礼を言いました。◆それから何日かして、元気になった少女は、お母さんと助けてくれた人にお礼を言おうと、住所と名前が書かれた紙を頼りにおじさんの家を探しました。けれどもそこは空き地で家はありませんでした。近くの人に尋ねてもその人を知る人はいませんでした。◆その後少女は、ずっといつもその出来事を考えていました。そしてわかったのです。あれは神様が助けてくださったのだと。あの時命を落とさなかったのは、今この世界でその少女にする事、なすべき事が沢山あるのだと理解したのです。◆その少女はおとなになりました。そしていつも、しなければならないこと、すべきこと、したほうがいいことは何かとずっと考えているのです。(江副史子)

・・・主のことを来るべき世に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。詩編2231

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2019年3月17日

 

「イエスさまと同じ時代に生きていればなあ。」

イエスさまが一緒にいてくれて何もかも説明してくれるし、何をすればいいかを教えてくれるだろう。さらに、不思議な業や癒しを徴として目の当たりにすることもできる。それなら、まことの神さまを信じることは、ずっとたやすいに違いない。福音書を読むとき、時々そのように思ってしまう自分がいます。また、それは、イエスさまの教えを聞いても、なかなかその意味を理解すること、悟ることのできない群集や弟子たちを軽んじている時でもあります。

 弟子たちから引き離されてしまうことを強く感じる中で、イエスさまは弟子たちに語ります。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と。「わたしの掟」とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)」というものです。自分は愛されたことがない。だから、他者も自分も愛することができない。そのような現実が拡がっている中で、イエスさまは、父なる神さまの決して絶えることのない愛を示し続けられました。イエスさまは、世にあって苦しみ、悩む人々の傍らに生きられました。そのイエスさまが約束されています。父にお願いして、別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてもらうようにしようと。

 

 別の弁護者、真理の霊、つまり、聖霊は、私たちを互いに新たに結び合わせます。イエスさまの生涯とその教えを思い起こし、それらを通して示された神さまの深い愛を悟るのは、聖霊の働きによるものです。神さまは、すべての(今を生き、かつてを生き、これからを生きようとしている)人々を愛しておられる。聖霊の助けによって、そこから現実を見渡すとき、世界がそれまでとは違った色合いを帯びて見えて来るのに気づくでしょう。    (元川 信治)

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2019年3月10日

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。」 

   マタイによる福音書1128節)

昔、教会学校で、「クリストホロス伝説」という話を聞いたことがあります。

簡単に紹介すると、クリストホロスという人は、若い時に大変放縦な生活をしていました。晩年になって、そういう自分を反省して悔い改め、それから修道者の生き方をしていこうと決心して、川のほとりに庵を作り、川を渡れないで困っている人がいると、案内をしてあげていました。そこへ、ある日、小さなこどもがやって来て、クリストホロスに、「おじいさん向う岸へ渡してください」と頼むわけです。クリストホロスは小さなあどけないこどもを見て、ニコニコしながら抱きあげて肩車にして、川を渡っていきます。

ところが、中程まで来た時に、急に川の流れが速くなり、水かさが増していきます。クリストホロスは、今にも、流されそうになります。押し流されて沈んでしまいそうになります。その時、自分が背負って肩車にしていたこどもがだんだんと重くなって、その重荷が身にかかって流されないのです。クリストホロスはやっと川を渡り終えて岸に着き、こどもを肩からおろしてやりながら、「あなたはいったいどなたですか」とたずねると、そのこどもがイエス様の姿に消えて行った。そういうクリストホロス伝説です。

 

わたしたちも楽しい教会、楽しかった教会生活ということを覚えていると思いますが、楽しく聞いた聖書の言葉、平穏な生活の中でイエス様との出会い、教会生活、それらのことが、自分が流されそうになるような人生の経験の中で重さになるのです。そして、その重さが自分を留めておいてくれる、支えてくれるのです。クリストホロス伝説はそれを教えてくれています。キリストを背負う者として歩みを取り戻したいと思います。        (小川宏嗣)

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2019年3月3日 

 

わたしたちは、嫌なことがあったり、人に話してもわかってもらえないだろうと思うような時には、黙ってしまうことがあります。話すことが嫌になったり、黙ってしまいます。悲しいこと、驚くようなことに出会って、声が出なくなることもあります。心とつながっているからです。

人から何度も注意されたり、叱られたりすると、話を聞くのが嫌になります。それで他の事をかんがえたりしていると、話が聞こえないという事があるでしょう。或いは、何かに熱中していて、周りの声も聞こえないということもあります。

人の嬉しそうな話を聞くのが辛くて、離れて声を避けるという経験をした人もいるでしょう。或いは、わたしは聞きたかったのに、話してくれなかったという寂しさを味わった人もいることでしょう。このように、話すことが出来ず、人の声が聞こえないということを、わたしたちも心の経験として持っているのです。

聖書に、イエス様のところへ連れて来られたある人は、「耳が聞こえず下の回らない人」(ルカ7:31~37)であったとあります。大変な苦しみにあったのです。イエスは、その人が、話ができるように、聞くことができるようにと癒したとあります。どんなに嬉しかったことでしょう。

わたしたちの周りには、苦しいことや辛いこと、悲しいことがあって、聞きたくないこと、が話したいこと、その反対に、聞きたいこと、話したいことがたくさんあります。そういうわたしたちをイエスは招いてくださいます。わたしたちには、わたしたちの話を聞いてもらえるところがあるのです。それは「祈り」です。安心して、たとえ口ごもることがあっても声を出して、神と話が 出来るところ、「祈り」へとイエスはわたしたちを招いてくれるのです。そこでは神の言葉も聞くことができるのです。(小川宏嗣)

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2019年2月24日

 

「何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書668節)。

 

ある小学校の教師をしている方から次の話を聞きました。「こどもに、『お母さんの喜ぶことは何か』と尋ねてみようと考えるなら、改めて聞くまでもない。それは『学校の成績がよくなること』と殆んどのこどもが答えるだろうから」というものです。こどもたちは、『勉強』という言葉の前に、あらゆることがゆるされてしまうということを、よく知っているのです。

最もよきささげ物とされる一歳の子牛をささげるなら、神は喜ばれるだろかと、聖書は問うています。そのような問いは、では幼児をささげ物とするならば、神は喜ばれるだろうかという問いにきわまっていくものだと、更に語ります。旧約聖書の時代、幼児供犠がなされていたのです。

より高価な犠牲を払うことにおいて、より大きな幸せを得ることができると期待をもって、それを喜びとしていないでしょうか。わたしが喜びとするところのものは、神も喜ぶところのものだとすることは、偶像信仰です。神はそのようなことを求めもせず、喜びもしないと聖書は語ります。

わたしたちは、こどもたちと、どんな時も「神を思う」ことを覚えていたいと思います。神の喜ばれるものを、こどもたちと一緒に、気づきたいのです。

 

(小川宏嗣)

 

2019年2月17日

 

「…愛がなければ、無に等しい。…愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」 

(コリントの信徒への手紙一1318節)。

 

(先週より)私たちは平和には愛が欠かせないのではと思い、コリント信徒への手紙一1318節を読みました。ここで書かれている愛は「自分の利益を求めず真実を喜ぶ」とあります。神様が唯一の息子イエス様を地上に送ってくださり、私たち罪人の為に十字架にかかり復活されました。私たちは善人の為に手を差し伸べることすらためらうのに神様は罪人の私たちに救いを与えてくださいました。私たちが平和を作るためにできることはこの神様の愛を伝えて実践していくことだと思いました。この中で私たちは拒絶されたり、悲しんだり、傷ついたりしますが絶望することはないと考えました。なぜなら私たちは私たちの働きや結果に希望を置かず、神様の約束に希望を見出せるからです。

イエス様が地上に来て伝えられた愛は私たち人間の中に存在する罪が欲するものと敵対し、この愛を信じ生きていくことで世界から憎まれることもあります。このことはイエス様が「剣をもたらすために来た」と言われた理由の一つではないかと考えました。

最後に人間と神様が考える平和は決して別のものではないと思いました。単に神様の愛と平和は私たちの想像を遥かに超える素晴らしいものだということです。私たちがこの世界で見る全ての出来事は良し悪しに関わらず神様の計画の一部分であり、それらは全て神様が描く平和へと繋がることを私たちは期待しながら前に進めるのではないでしょうか。

 

私たち青年会は単に話し合うだけではなく、身近な家族や友人に対して愛をもって接していくことから始めたいです(「127日青年会報告②」

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2019年2月10日

 

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために

来たからである…」   

 (マタイによる福音書103435節)

 

今回の青年会はM.Sさんがリードし参加者で一緒に考え意見を交換しました。聖書の箇所はマタイによる福音書10章34節~39節で、テーマは「平和とは何か?」でした。

Sさんは「神様は平和を望んでおられると思うが、なぜこの聖書の箇所には『平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ』(マタイ10:34)と書いてあるのか疑問に思いました。そこで人間と神様が思う平和は違うのではないか」と思ったそうです。

まず初めに、平和をどのように定義するか話し合い、平和とは争いがなく人々全員が互いに助け合って生きていくものではないかと考えました。日本では現在戦争がなく平和と言われていますが、日常生活を見てみると身近の些細な争い、いじめ、あおり運転、自殺等が頻繁に発生していて、決して平和とは言えないのではないかと考えました。歴史を振り返ってみてもこの世界で争いはなくならないのではと考えました。

そこでなぜ争いが起きてしまうのかについて話し合いました。他人の考えや意見を受け入れられずに争ったり、自分に属さないものを欲して争うなど自分の利益を追求する中で争いが起こっています。もし自分の利益を追求せずに他人の為に尽くせば、完璧な平和は作れないが、平和な世界に近づけることができるかもしれないと話しました。…

             (※次週に続く「127日青年会報告①」

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 2019年2月3日

 

「イエスは出て言って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、

『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」

(ルカによる福音書52728節)。

 

先日、汀幼稚園の一人の園児が、「どうしてクリスマスにイエスさまは生まれたの?」と尋ねてくれました。わたしは、「神さま、どうしてもイエスさまを生れさせたかったんだよ!」そう答えたのですが、分かったような、分からないような幼な顔をしていました。

イエス・キリストの誕生に飼い葉桶が用いられたその理由を、聖書は、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:7)と記しています。

場所がなかった。場所を与えられなかった。迎え入れてはくれなかったということです。そのような誕生をしたイエス様の生涯は、人を受け入れて行く、殊に、いと小さき者を迎え入れて、共にいることのできる場所を与えてくださる、というものであったと思います。

新約聖書の中に、イエス様が、「収税所に座っていた」徴税人レビを招き、弟子とした出来事が書かれています(ルカ5:2732)。招かれたレビは食事を準備し、イエス様は食卓を共にされました。レビにとって、イエス様に招かれて食卓に連なるということは、それまで考えられないようなことではなかったか、そう思います。イエス様は、レビの人生に最も大切な場所を与えられたのです。イエスの食卓は、「わたしに従ってきなさい」という、イエス様の言葉を聞きとることの出来る場所です。イエス様がレビに声をかけ、一緒に食事をしたということは、本当に人を生かしていくことであり、救いの出来事だったのです。

 

わたしは、あの園児に、「わたしたちを救うためにお生まれになったんだよ」そう話したかったのです。(小川宏嗣)

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2019年1月27日

「イエスは言われた。『わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』…」(ヨハネによる福音書146節)。

わたしは外出先で、或いは旅先で、よく、道をたずねる、ということをしています。「人に道をたずねると、その人が本当に親切な人か、あるいは頭が悪い人か、よくわかる」(俳人・山頭火)という言葉を聞いたことがありますが、人に道をたずねると、それだけでその人柄がわかるということがあります。

また、道をたずねる、そのことによって目的地に迷わずに到着する、ということもあります。ところが、人を間違えると、とんでもない方へ行ってしまう、或いは回り道をしてしまう。そういうこともあります。どういう人に教えられるか、そういうことによって、道も目的地もずれてしまうということを思います。

弟子のトマスは、「どのような道を歩むのか分からない」(ヨハネ14:5)と言いましたが、これは自身の実存を問う言葉です。わたしたちも、「本当に歩むべき道を歩んでいるのか。本当に知るべき真理を知っているのか。本当の命を生きているのか」と、常に問い、問われているのではないでしょうか。

そのトマスに対して、イエス様は迫りをもって、「わたしこそが、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われました。

信仰の道とは、キリストが共に歩いてくださる道です。復活のイエス様が共に歩まれた「エマオの道」です(ルカ24:1335)。この道は人の言葉の道ではなく、神の言葉の道です。わたしたちが互いに聖書の言葉を話す時、心があたたかくなる道です。どなたもご一緒にこの道を歩んでみませんか。

                            (小川宏嗣)

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2019年1月20日

昨年末、西南神学部長の金丸英子先生より、「西南神学部の来年度の入学者は、2月の一般入試を残して、現在、1名である」という報告がありました(第104号「全国壮年会連合NEWS」巻頭言)。更に、「…『献身者が出ない。入学志願者が少ない』という状況は、他派の神学教育機関では常態化しています。それを聞くたびに『バプテストは頑張っているな』と思っていたところ、他人事ではなくなりました。これが単年度の『たまたま』なのか、それとも苦しい道程の始まりなのか、予測は立ちません。しかし、使命は変わることなく目の前にあります。福音宣教に生涯を献げる献身者の減少は、より広く、豊かに福音を届ける取り組みの縮小につながります。このことは、神学部教員には、主の御用に卒業生を送り出せない痛みと悲しみであり、同労の仲間が少なくなる淋しさでもあります。…しかし、いかなる『鎖』もつなぎとめることのできない、十字架と復活の主を伝える使命に呼び出された学生と共に学ぶ日々は、大きな喜び、深い恵み以外の何ものでもありません。諸教会の皆様には、これまでにも増して神学部を覚え、お祈り頂けますようお願いいたします。そして、『キリストの御名を伝える恵みと喜び』に、私たちとご一緒に与って参りましょう。」(同NEWS)ともありました。

 

 

この5年間、福岡バプテスト教会は、西南神学部の元川信治さん、杉本拓哉さんの2名を研修神学生として受け入れ共に歩みました。わたしたちが神学生の為に、神学校の為に真剣に祈り、伝道者養成の働きの為に真剣に献金を献げていくこと。何より、わたしの献身について本気で考え、真剣に祈っていくことが、今、まさに求められています。(小川宏嗣)

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2019年1月13日

 

聖書は、見えないものの中にある真実、ということを言っています。その見えないものの中にある真実の一つに、神の栄光も見えないということを語ります。たとえば、「わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたを覆うであろう」(出エジプト記3322節)という言葉です。

聖書の教えによれば、人間は神を見ることはできません(ヨハネ1:18)。同様に、神の栄光が通り過ぎる時に、わたしたちは岩の裂け目に入れられてしまって見ることができないのです。岩というのは、その上に教会が建てられていくところの土地であり、礼拝堂の築かれる場所でもあります。

岩の裂け目にわたしたちが入れられてしまう。神様が手で覆ってしまう。 神様が最もわたしたちに深くかかわろうとされる時には、岩の裂け目にわたしたちがいる時です。覆われて神様が見えない時に、神様の栄光というものが わたしたちに示されているのです。

この岩の裂け目とはイエス・キリストの十字架のことだと思います。岩の裂け目はわたしたちが何も見えなくなってしまう、神様も見えなくなってしまう、辛く、苦しく、悲しい状況のことです。人生における十字架は、人を絶望させたり、暗く見えなくさせようとします。しかし、その十字架を、イエス様の復活の光をもって照らすということが神の栄光です。自分が一番苦しんでいたあの十字架の時に、神様は復活の光をもってわたしを照らして下さった、 それを聖書は十字架と復活ということにおいて、わたしたちに示しています。

 

ですから、わたしたちが岩の裂け目にあるということは、その時、神様が 共にいて下さる、まさにその時に神の栄光にあずかっているということを聖書は伝えているのです。                 (小川宏嗣)

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2019年1月6日

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」 (フィリピの信徒への手紙213節)。

 

わたしたちのまわりにはお祈りができないという方がいると思います。自分は信仰をもっていても人前でお祈りができない、また、自分の心が今はとてもお祈りなどできるような状況ではないと思っている方もいると思います。お祈りを強制されてしている方もいるかもしれません。仕方なしにしている方もいるかもしれません。或いはお祈りをしなければと、戸惑っている方もいるかもしれません。そういうわたしたちの内側に働きかけて願いを起こさせ、実現させてくださる方、イエス・キリストの導き、聖霊の導き、そういうことを聖書は信じてほしいと言っています。

 

わたしたちに信仰があるとかないとか、或いはお祈りができるとかできないとかということの前に、取るに足らない者であっても、全くふさわしい者ではないかも知れないけれども、そういう者を用いて、願いを起こしてくださって、そして、よしとなさることを実現してくださる方の導きに従っていこうと思うこと、これがキリスト信仰です。

この導きを信じる、神様がわたしたちに働きかけてくださるということを信じようと思う、そういう思いを共に持つことができたら、この新しい一年の教会も、家庭も、学校も、職場も、信仰によって支えられた愛のある世界が創り出されていくのではないでしょうか。

                         (小川宏嗣)

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2018年12月30日

 

このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。

マルコによる福音書737節)。

「『この方のなさったことは、何もかもすばらしかった』とわれわれはこの年の終わりに、過ぎ去ったあらゆる『時』について語ろう。…われわれにとって困難であった日々、われわれを苦しめ、不安にした日々、また、われわれの中に苦しみの痕跡を残した日々は、われわれが今日、感謝しつつ、謙虚に、『この方のなさったことは、何もかもすばらしかった』と告白するようになるまで、過ぎ去らせてはならない。われわれはそれらの日々を、忘れるべきではなく、克服すべきなのである。このことは、感謝によって起こる。われわれは過ぎ去った日々の理解することのできない謎を解こうとして、苦しい思いわずらいの中に入り込むべきではなく、われわれに理解できないことはそのままにして、安心して、神の手にゆだねるべきなのである。…この方は、われわれを救った。この方は、いつもそこにおり、いつもわれわれのために働いてくれた。今、初めて、われわれは、正しく、われわれがその方から受けた多くの良いものについて考えることができるようになる。そして、今、初めてわれわれは、仕事のこと、日々の語り合いのこと、個人的な助けを与えられたこと、さまざまな大きな悪から守られ、かつ生命の危険から守られたことについて、感謝することができるのである。こうして、過ぎ去ったあらゆるものの中に、今、喜びが、すなわち『この方のなさったことは、何もかもすばらしかった』という喜びがわき上がるのである。

 

ボンヘッファー1日1章1230日 忘れるのではなく、克服すること』)

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2018年12月16日

 

「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。」

         (コリントの信徒への手紙一14節)。

今回の学びの聖書の箇所はコリント信徒への手紙一11節~9節迄で、題名にもあるように『感謝』をテーマとして学びました。

私たちが学んだことは、パウロは自分の成果や業績に驕ることはなく彼自身単に神の御心によって召されたことを信じているということです。このことは神の名を呼び求めるコリントの信者たち、また私たちにも同じことです。

神様の恵みは私たちの努力や富によって得られたものではなく、神様の無償の愛によって一方的に差し出されたものだと確かめました。パウロはコリントの人々がイエス様によって神様の恵みを受けたことに感謝の気持ちを表していて、兄弟姉妹への愛を感じることができました。彼は人々がイエス様の救いを受け入れ神様に従って生きていくことが他の何事よりも価値のあることだと信じていたに違いありません。私たちの感謝も人々が神様を受け入れ生まれ変わることに注がれるよう願います。

6節でパウロは「コリントの兄弟姉妹の間でイエス・キリストの証が確かなものとなった」と述べています。イエス様の愛を受け入れることで神様の言葉や知識を与えられ、真実の愛に溢れた生活を送ることがイエス様の証となっていると解釈しました。私たち一人一人の神様によって変えられた生活もまさに証だと思いました。最後にそれぞれが感謝していることを共有しました。

気づかず間に与えられ支えられているコミュニティーや私たちは大いなる神様の計画の真っ只中にいることを気づかされる瞬間など、私たちは神様の恵みを受けて生きていることを改めて感じ感謝しました。             (小川稜『青年会例会報告』11/25

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2018年12月9日

 

…キリストは、ロンドンのイーストエンド(※

 

ンドン市東部の沿岸沿い工業都市の労働者街

 

住む貧しい労働者の息子であり、飼い葉桶に生

 

まれられる。神は、人間の低さを恥じられるこ

 

とはない。

 

神は低さのただ中にやって来られ、人間が全

 

く期待していないところで奇跡を行なわれ

 

る。神は、低みに生きる人々の近くにおられ

 

る。神は失われた者、顧みられない者、身分

 

の低い者、排斥された者、弱い者、打ち砕か

 

れた者を愛される。人間が「失われた」と言うそのところで、  神は「見

 

つけられた」と語られる。人間が「裁かれた」と言うそのところで神は「然

 

り」と言われるのである。人間が無関心、あるいは傲慢な態度でそのまなざ

 

しをそらしてはばからないそのところで、神のまなざしは何ものにも比べ物

 

にならないような 愛の情熱をたたえている。人間が「軽蔑に値する」と語

 

るそのところで、神は「祝福にあずかる」と宣言される。私たちが人生の一

 

つの問題へと陥るところで、すなわち、私たちが自分自身の前で、また神の

 

前で、もはや自らを恥じるしかないところ、今や神が私たちのことを恥じい

 

られるに違いないと私たちが思うところ、更にこれ までの人生において

 

は、自分は神から遠く離れてしまった、と感じ取られるような ところ、ま

 

さにそういうところでこそ、神はこれまでありえなかったほどに私たちの

 

 そばにおられ、私たちの人生の中へと押し入って来ようとされ、私たちに

 

神の差し 迫りを感じさせようとなさる。これらの事によって私たちは、神

 

の愛の近さと恵みの奇跡を理解するべきである。…                

                       (.ボンヘッファー)

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2018年12月2日

 

「『わたしが飢えていた時、あなたは食べさせてくれた』(マタイ25:3540)とキリストが言われた時、パンや食べ物のことだけをさして言われたのではありません。愛されたい渇望をもさしておっしゃったのです。イエスは、自らこの孤独を味わわれました。イエスは、ご自分の民の中にこられたのに、民は彼を受け入れませんでした。それはイエスを傷つけ、今もイエスはずっと痛み続けておられるのです。あの時と同じ飢え、同じ孤独、だれからも受け入れられず、だれから愛されず、必要とされないという同じ痛みを。そういう状況にある人はだれでも、この孤独において、キリストに似ていると言えましょう。そしてこれこそが、最もつらいこと、ほんとうの飢えなのです」(半田基子訳『マザーテレサのことば』)。

 

本日より待降節(アドベント)に入ります。イエス様が誕生した時、遠く東の方の国から、星の導きに従ってイエス様に会いに来た、占星術の学者たちがいます。自分たちの国にいれば、学者として、名誉や地位も、そして豊かで平穏な生活も保障されて暮らすことが出来たでしょう。それなのに、占星術の学者たちは、なぜあえて旅人になったのでしょうか。それは、星を見ているということと、星の導きに従うということの違いではないかと思います。

わたしたちも、わたしだけに見える星の導きに従って、どこへ出かけて行くのでしょうか。そこで小さい者に出会い、その中にイエス様を発見して、旅人となって、ここに来てよかったという、永遠の命に触れるような、喜びを経験できるでしょうか。

 

小さい者の一人のために、誕生されたイエス様を、わたしたちの心にお迎えする待降節になりますようにお祈りします。(小川宏嗣)

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2018年11月25日

世界バプテスト祈祷週間(1125日~122日)は、アメリカ南部バプテスト連盟のロティ・ムーン宣教師を記念して始められました。

中国伝道に生涯を捧げ、世界宣教のためのクリスマス献金を提唱したロティ・ムーン宣教師を、アメリカ南部バプテスト連盟の女性たちが、永遠に記念したいと考えました。そこで、このクリスマス献金を『ロティ・ムーンクリスマス献金』と呼ぶことにしました。

ロティ・ムーンは今も世界宣教の働きが語られるところで生きています。彼女の献身の生涯の証しは、主のために献身する者には大きな励ましとチャレンジを与え続けています。

日本バプテスト連盟も、ロティ・ムーンの信仰を受けつぎ、1931年に、女性連合の源である婦人会同盟によって世界バプテスト祈祷週間が開始され、その後もバプテストの女性たちの中心的活動として継承されてきました。現在、わたしたち日本バプテスト連盟は2組の宣教師、2組の国際ワーカー、計6名を送り出しています。

わたしたち福岡バプテスト教会も、女性連合が祈りと幻をもって取り組んでいる世界宣教の働きのために献げます。同時に、日本バプテスト連盟の国内外における宣教活動のためにも献げます。(小川宏嗣)

 

◇インドネシア:野口日宇満宣教師・野口佳奈宣教師

◇カンボジア:嶋田和幸宣教師・嶋田薫宣教師

◇シンガポール:伊藤世里江牧師

          (アジア・ミッション・コーディネーター、

シンガポール国際日本語教会)

◇ルワンダ:佐々木和之氏(国際ミッション・ボランティア、

 

プロテスタント人文・社会学科大学教員)***********************************

 

 

2018年11月18日

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

    (ルカによる福音書18:1314)。

 

祈るために二人が神殿に上ります。一人はファリサイ人、自己満足の思いのうちに、もう一人の徴税人は嘆きをもって胸をうちながら、境内に入っていきます。イエス様が譬えたお話しです。

ファリサイ人の過ちは、どこにあったのでしょうか。誰もが、わたしのようになれるはずだと思っていることだと思います。わたしのようになれないのは、生活態度が悪い、努力が足りない、勉強しない、遊んでいるから、欲ばりだからというように、考えていたからだと思います。人に迷惑をかけるような人を、だらしなく見ていたのだと思います。わたしは、そういう人にならないで本当によかった、ということなのだろうと思います。

 

徴税人は、わたしだってファリサイ人に負けやしないと思ったでしょうか。ファリサイ人を批判したりしたでしょうか。そんな心を持っていませんでした。神様、わたしは過ちを犯しています。わたしをかえりみてください。そうお祈りしているのです。神様を必要としているのです。ここに礼拝の大切な心があります。自分を低くする者というのは、神様を、イエス様を必要としている者です、ということなのです。徴税人は遠く立っていますが、神様から遠く立っているのは、ファリサイ人の方なのです。「義とされて帰る」のは、この礼拝の真実にふれて、新しく生きるようにということなのです。(小川宏嗣)

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2018年11月11日

 

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」  (ピリピ人への手紙213節)

親がこどもを一生懸命育てていく。しかし、こどもは離れていってしまう。自分の思ったようには育っていかない。愛の思いが深ければ深いほど愛が悲しみを持って来るということがあります。人を愛していく。しかしその愛というものが受け入れられない。愛することは悲しいものだということは、わたしたちの経験するところです。

ある小学校の校長先生をしていた方から聞いたお話しですが、ある日の放課後、クラスを一つひとつ回っていたところ、あるクラスで一人の先生が泣いておられた。あなたはどうしてこんなに遅くまで帰らないでいるのですか、と声をかけたところ、その先生は、自分が担任をしているこどもの一人が、何度言い聞かせても嘘をつく、嘘をつくだけでなく教師に反抗する、逆らう、自分はどうしていいか分からなくなってしまった。そう言って涙を流してひとりクラスに残っていた事情を話された。その校長先生は、もしかしたら、これがキリスト教でいう、愛とか祈りとかいうものではないでしょうかと、話してくださいました。

 

あのこどもが救われなければわたしは救われない。あの人が苦しんでいるならわたしはとても生きられない。そういう関係のことを救い、愛というのだと思います。愛というものはなかなか報いられず、悲しいものであるのかもしれません。しかし、とるに足らない、ふさわしくない者を用いて、愛するという願いを起こしてくださり、そして、愛することを実現してくださる方の導きに従っていこうと思います。神様の導きを信じる、神様がわたしたちに働きかけてくださることを信じようと思います。         (小川宏嗣)

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2018年11月4日

 

「…あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのころのわざを行いなさい。…」

    (ヨハネ黙示録245節)。

 

「初めのころのわざに立ち戻りなさい」(黙示録2:5)。

今日このように語ることが、どうしても必要である。今日の教会を知っている人であれば、誰も<教会は何もしない>といった苦情を言おうとは思わないであろう。それどころか教会は、全く献身的に、しかも真剣に、限りなく多くのことをしているのである。しかし、われわれはみな、多くの第二、第三、第四のわざを行なってはいるが、「初めのころのわざ」は行っていないのではないか。まさにそれゆえ、教会は、決定的なことを全くしていないのではないか。われわれは祝日を守り、威厳を持ち、影響力を得ようと努力し、その結果、福音的な青少年教育に従事し、福祉事業や、貧民救済を行ない、無神論に対しても批判を続けている。-しかし、一番大切なこと、すなわち、あの初めのころのわざは行っていないのではないか。あの初めのころの情熱的な、燃えるような愛をもって、神を愛し、兄弟を愛していないのではないか。もしわれわれが、今も、初めのころのわざを行なっているなら、もっと様子が変わってくるに違いない。何かが起こってくるに違いない。もちろん、何かを起こすのは神である。しかしわれわれの側も、自分を神に奉仕する者とし、あの初めのころの愛をもって神を神とすべきである。おそらく、そのようにする時にのみ、「信じる者の群れは、心を一つにし、思いを一つにし、いっさいの者を共有していた…」(使徒4:3233)ということが、再び、本当のこととなるであろう。

 

D.ボンヘッファー『説教』1932116日)

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2018年10月28日

 

「さて、過ぎ越し祭の前のことである。イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

     (ヨハネによる福音書131節)。

 

イエスは正に過ぎ越し祭の日に神の子羊として十字架の上で血を流されようとしていました。イエスはその時がついに来たことを悟り、世にいる弟子たちを、この上なく愛し抜かれました。「この上なく」という表現を英語では、He loved them to the end.或いはHe loved them to the very end.「終わりの時まで」或いは「最後の最後まで」「十字架にかかって息を引きとるその最後の瞬間まで」というふうに読むことができます。

そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15:13)と語り、自らの命を十字架にかけられたのです。そのことによって私たちが私たちに対する神の最高の愛を知るようになるためでした。そして言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13:3435)。

 

 

人は誰かに愛されていることを実感する時、心が和み自分の周りの人々に対しても優しくなることができます。愛をもって接することができます。私たちは神様の最高の愛を知ったのですから、「どうか私に人を愛する心を与えて下さい。」と絶えず祈ってゆきたいものです。(諸岡邦子)

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2018年10月21日 

 

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時があり…」(伝道の書312節)。

 

「神への感謝、生まれて初めての入院、手術、そして抗がん剤治療、そうして神によってこのように生かされていることに感謝。今回の入院で示されたみ言葉が、『生まれるに時があり、死ぬるに時がある』である。

ともすれば人間は自分勝手な思い込みにより生活している。しかし、それは全て神が備えてくれている『時』があることを実感した。

 

わたしにどのくらいの時間が与えられているのか、わたしには分からない。神が備えてくれている『その時』まで、しっかり生きてゆきたい。

頻繁に見舞ってくれた牧師とわたしを覚えて祈りを捧げてくれる教会のみんなに感謝。・・・

妻への感謝、こうしてわたしは病と生涯を抱えながら、現役サラリーマンとして生きている。病と障害を抱えて生きることができるのは、妻のおかげだ。妻への感謝。毎日の献身的な看護に感謝。

結婚の約束の時、『健やかなる時も病める時も』と牧師が述べ、誓った。あの時はこんなことになるとは思ってもいなかった。・・・

職場のみんなへの感謝。病と障害を抱えて働く場を与えてくださる神に感謝。また助け支えてくれる職場のみんなに感謝。・・・」

 

(故南側重行『病と障害を抱えて生きる~大腸がんになった~』2017/10/19

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2018年10月14日

 

…ペトロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい…』」            

        (マタイによる福音書1821節)    

 

愛すること、愛されることが人間の救いであり、神様の御心や神様の求めを受け止めて生き、生かされることがキリスト者の道であることは確かです。

愛が救いであるとは、数えきれないほどの罪を犯してしまうわたしたちを

神様がゆるしてくださるということです。だから、神様に愛され、ゆるされた者は、またどんな罪をも犯す他人をゆるす愛を持つはずです。それが聖書の

福音です(マタイ18:2135)。

間違って他者を悪人と思い込み、憎むよりは、間違って人を善人であると

思う方がましではないでしょうか。たとえ、そのために裏切られることがあっても、人を裏切るよりは、裏切られた方がよいのではないでしょうか。騙されない賢さよりは、騙される愚かさの方が尊いのではないでしょうか。悪や過ちは、たとえ、それが本当のことであったとしも、それをとがめたて、責めたてることによって、いやされることはありません。

自分の目にある丸太には気づかず、他人の目のおが屑が気になり(マタイ7:15)、人からその自分の目の丸太を指摘されると不愉快になります。

イエス様の福音の本質は愛とゆるしです。わたしたちが求めるべきものはこの事だけです。愛とゆるしによってのみ、神様に対して生き(ガラテヤ2:19)、キリストを知り得るのです。            (小川宏嗣) 

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2018年10月7日

 

「『…心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』…『隣人を自分のように愛しなさい』この二つにまさる掟はほかにはない。」(マルコによる福音書123031節)。

 

イエス様は、互いに愛する事、それはつまり、隣人となる事、友となる事が救いである、と教えています。たとえ行く道を異にしても、たとえ意見の食い違いがあるとしても、たとえ反感や誤解のために裏切られる事があっても、愛するという事は、すべての悪に勝って余りあるものなのです。

それにしても、人間の愛は何ともろいものなのでしょうか。愛し、愛し合う事の尊さを知っていながら、行う事が出来ません。それが人間の惨めさです。しかし、愛せない、愛されない事を、悲しくつらいと思う心を持っています。どのようにしたら、愛し愛せるのかと問う前に、今、ひとりの人と共に苦しみ、泣く者と共に泣き、喜ぶ者と共に喜ぶ事を知っているのかという事が問うべきではないでしょうか。

 

「教会は今、少子高齢化が課題なのだから、伝道しなければ!」という事が声高に叫ばれますが、人がいない、お金がない事よりも、苦しんでいる人々に対して、関心が薄い、愛が乏しい事が問題なのです。ひとりの人が助けられれば、それでよいのです。

イエス・キリストがなぜ知られないのか、それは、キリスト者と呼ばれる者が、キリストを生きていないからです。キリストを生きるとは、友になる、隣人になる、互いに愛する事なのです。

                             (小川宏嗣)

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2018年9月30日

「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」

      (マタイによる福音書13章8節)

 

『トマト博士』の野澤重雄さんは、一粒のトマトの種から13,000個も実のなるトマトの巨木を育てました。準備したものは、大きな水槽の中に栄養分たっぷりの水と、温度と光の調節だけだそうです。

野澤さんは言います。「技術的には何の秘密もないし、難しいこともないのです。…結局一番大切なのは育てている人の心です。成長の初期段階でトマトに、いくらでも大きくなっていいんだ、という情報を与えてやりさえすれば、あとはトマトが自分で判断します。

トマトも〝心を持っています。だから…できるだけトマトと心を通わせ激励してやってください」と。

 イエス様は種蒔きの譬えの中で、「良い土地に落ちた種は必ず実を結ぶ。種の持つ力を信じよう」(マタイ138)と話してくれました。良い土地の事を考える時に、わたしは教会を思い起こします。「自分の事を褒めてくれた人、わたしの話を一生懸命聞いてくれた人、真剣に聖書の話をしてくれた人」との出会い。それがわたしにとっての教会のイメージです。だから、わたしにとって「良い土地」というのは「良い人と出会った」という事です。

 種蒔きには、無駄はありますし、時間もかかります。しかし、必ず実りを見る。そう信じて種を蒔く。だからそこには大きな喜びもあります。

 

イエス様は、いつもみ言葉を聞く人の中に実が実る事を信じて、神様の言葉を話していました。そのイエスに倣って、わたしたちも希望の種蒔きをして行こうと思います。                     (小川宏嗣)

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2018年9月23日

 

「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」

       (レビ記1932節)。

 

聖書は、神様を敬うのと同じ心をもって、高齢者を敬いなさいと教えています。

それは、「老いたる者には知恵があり、命の長い者には悟りがある」(ヨブ12:12)からです。

 

同時に、高齢者に対しては、「自らを制し、人をそしらず、良いことを教える者となるように」(テトス2:13)とも勧めています。数々の人生経験の中で得た、「苦難に耐える力、周囲の人々と和を保つ力、善悪を見極める力」(テトス2:2)を若い世代の人たちに伝え、教えていく事において、尊敬を受けるに相応しい存在となると伝えているからです。

 

わたしたちの教会にも、はつらつとした高齢の方々がおられます。長い間、教会生活を続け、常に神様に祈り、聖書を読み、讃美を献げ、自己を吟味しつつ、他者との交わりを喜びながら歩まれています。

そのはつらつさとは、まず神様に自分が受け入れられ、ゆるされ、愛されている事に感謝する事、そしてその喜びを周囲の人々と共有しようとする事から自然と得られるものだと思います。

そのお姿から、人を受け入れ、人をゆるし、人と共に楽しむ事は、全ての人が目標とすべき生き方なのだという事を、わたしたちは教えられています。

                             (小川宏嗣)

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2018年9月16日

 

『わたしがあなたがたを選んだ』

 

今年の「全国高校野球選手権記念大会」は第100回、テレビの前からなかなか離れることが出来なかった。何しろ全国3781校から選ばれた56校の選手たちが、一人一人全力を尽くした球宴。なかでも金足農業高校の寺田輝星投手の、直球、変化球を巧みに交えて打者を打ち取る美技に感動するばかり。素質、そして並々ならぬ努力、選び抜かれるとはこう言うことかと、感心するばかりであった。

学校ではクラス委員、会社では役職への昇進、社会では地域のお世話役など、その人が他の人より何かに優れているからこそ、認められ選ばれることになるのではないだろうか。

しかし、主イエスが最初に選んだ弟子は、ガリラヤ湖で網を打っていたペテロ、アンデレ、そして船の中で親と一緒に網の手入れをしていたヤコブ、ヨハネの4人の漁師であり、マタイは世間の人からさげすまれていた徴税人だった。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵あるものが多かったわけでなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけではありません(コリント信徒への手紙11章)」。

欠点だらけで、自分でもいやになるほど欠けた器、しかし私どもが神様から選ばれたのは、何も人より優れたところがあるからではない。主イエスが最後の晩餐の席で弟子たちに言われた、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)との言葉どおり、まさに神様によって一方的に選ばれているのだ。このことのすごさ、神様の愛の深さを、礼拝の度ごとに感謝とともに改めて確認したいものである。

                                                         (蓑原善和)

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2018年9月9日

「初めに、神は天地を創造された」

(創世記1章1節)

わたしたちが心の中で、こんな神様ならいいな、こんな形をしていて欲しいなと想像して、金属、木や石等で造ったもののことを偶像と言います。人間は、見える像に安心します。見えるものによって、心が動かされやすくなります。目立つもの、評判によっても心が動きます。そして何か頼れそうなものを求めます。それがお金であったり、学校や仕事であったりします。その頼れそうなものを、もっと強く求めるところに、神に代わるようなものができてしまうのです。

聖書は、このような、人によって造られたものは、辱められ、耐えられず、滅びていくと教えています(エレミヤ10:1415)。なぜなら人間は、比較しつつ信仰したり、比較しつつ愛するものだからです。そのような信仰、愛を信頼し得るでしょうか。偶像とは、神を比較しつつ信仰することなのです。人間に対しても同じです。わたしたちは人を比較しつつ愛するのです。比較しつつ愛する人間の愛を信じられるでしょうか。比較しつつ信仰する人間の信仰を信用できるでしょうか。

 

わたしたち教会の信仰は、わたしたちは、わたしたちを創られた神様を信じるというものです。これがわたしたちの大切な信仰です。人間が神を作り出すのではなくて、わたしたちを造られた神を信じるということです。わたしたちは、この神様を宣べ伝えていきます。          (小川宏嗣)

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2018年9月2日 

 

わたしは以前、「神様とわたしたちの間は、シーソーのようなもので、自分が偉くなると、神様が低くなって、見えなくなってしまう。『神様ごめんなさい』という気持ちになると、神様が高くなってよく見えるようになる」という話を聞きました。わたしはこの話を、自分の心の中に不満や妬みの思いが起こった時に思い出しました。

 

中学生の頃、誰がイエス様を十字架に付けたのかという事を考えるようになりました。わたしは祭司長ではないかと思いました。

イエス様が訴えられ、裁判にかけられたのは、祭司長たちの妬みなのだと思ったからです。それに、わたしも中学校で嫌いな先生や嫌いな友だちがいたのです。あの先生さえいなければ、あの友だちがいなければ、どんなに学校が楽しいかも知れないと思っていたのです。でも、ピラトも狡いと思いました。イエス様を十字架に付けたのはピラトかもしれないと思いました。

 

そんな時、ある人が、わたしもイエス様を十字架に付けた、と話してくれました。自分に都合の悪い事が起こってくると、ピラトや祭司長、長老、律法学者、群衆のようにイエスを様を十字架につけるような事をしてしまう。だから、わたしもイエス様を十字架につけたという事でした。その人は神様を見上げて考え、わたしは神様が低くなって、見えなくなっていたのです。

大切な事は、聖書の話をたくさん聞いて、心の中にしっかりと持っている事です。聖書の言葉によって、心も力を持つようになるからです。

                             (小川宏嗣)

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2018年8月26日

 

「…侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。…。こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分のこどもとして諭すためなのです。…そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者となりなさい。」(コリントの信徒への手紙一41216節)。

 

パウロは、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」(Ⅰコリント4:1213)と言いました。なぜでしょうか。それは、パウロが心の平和を生きているからだと思います。愛と柔和な心(同21)で生きているということでしょう。

 

わたしは小学生の頃に通っていた教会のある方のことを時々思い出すことがあります。その方は女性で、とても優しく、語弊があるかも知れませんが、その方のことを教会のお母さんのように思っていました。その方は、人のお話をあまりされませんでした。それは、教会の一人ひとりのことを本当に祈っていたから、話題にすることはなかったのです。

 

教会には、この心の平和をもった多くの教会のお母さんがいることを覚えます。あるいは、教会のお父さん、お兄さん、お姉さんもいて、そういう方々によって、教会の一人ひとりが支えられていることを思うのです。

キリスト・イエスに結ばれたわたしたちも、パウロに倣って心の平和に生きようではありませんか。(小川宏嗣) 

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2018年8月19日

 

聖書には、イエス様の「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」(マルコによる福音書440節)と、弟子を厳しく叱る言葉があります。わたしたちが聖書を読んで、イエス様に叱られるという経験することはとても大切だと思います。

しかし、イエス様は叱るだけではありません。イエス様が十字架に架かる前に、弟子のペトロにこう言いました。「しかしわたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカによる福音書2232節)。

「信仰がなくならないように祈る」。イエス様は叱るだけではありません。「なぜ、あなたは信仰がないのか」、そう言って叱るだけのイエス様だけではないのです。その叱ったイエス様が同じように、その信仰がなくならないように祈ってくださるのです。

わたしたちも病気、健康、あるいは結婚、試験、就職、子どものことなど、いろいろな問題で悩むことがあります。そういう時には比較的よく同情されたりします。しかし、こと信仰に関しては、自分の信仰を失いそうだと言って相談しても受け止めてもらえない、ということを経験したことがあると思います。

人は信仰のことを理解してくれないのです。けれども、人が信仰を失うような問題のために、イエス様は叱られるだけではなく、その信仰がなくならないように祈ってくださるのです。相談しても叱られるのが普通である世界にあって、祈って励ます世界、そのような在り方をイエスご自身が自ら示してくださったのです。ここにイエス様の愛があります。  (小川宏嗣)

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2018年8月12日

 

 平和はいかにして達成されるのか。政治的な条約の積み重ねによってか。いろいろな国に国際資本を投資することによってか。あるいは、平和の確保のためにあらゆる方面で平和的な再軍備をすることによってか。そうではない。これらのことによっては、平和は来ない。なぜならここでは、「平和」と「安全」とが混同されているからである。

 「安全」に至る道を通って、「平和」に至ることはできない。なぜなら平和は、そのためにあえて行動しなければならないものだからである。「平和」は「安全」の反対なのである。

 安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が再び戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。

 これに対して、平和とは、神の戒めにすべてをゆだね、安全を求めないということであり、信仰と服従によって諸国民の歴史を全能の神の手にゆだねることであり、諸国民の運命を自分に都合よく左右しようとは思わないことである。武器による戦いには、勝利はない。神と共になされる戦いのみが、勝利を収める。そのことによって十字架に行き着くことになっても、勝利はなおそ

こにある。

 それゆえ、もう一度、問おう。平和はいかにして達成されるのか。世界が聞き、聞かざるを得なくなるような。また、すべての民が喜ばざるを得なくなるような平和への呼びかけを誰がするのであろうか。・・・

        (ボンヘッファー『主のよき力に守られて~1日1章~』)

 

 2018年8月5日

 

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に創り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2章14~16節)

 

広島平和記念公園に次の詩の碑があります。

『ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながるにんげんをかえせ にんげんのにんげんのよにあるがぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ』

(峠三吉『人間をかえせ』原爆詩集)

 

戦争とは、一方が勝利して争いが終わったということはありません。 平和になったということではないのです。「戦争は終わっていない、未だ続いている」と、73年経った今も、戦争の苦しみの中で生きている人がいます。平和は何よりも、そこにゆるしと和解を必要とするのです。

イエス様は言います。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)。平和を作りだすためには、自分の心に平和を持っていなくてはなりません。そうでなければ、人に平和をあげることはできません。この平和は、イエス・キリストを信ずることによって与えられる平和です。ご自分を十字架に付けて、ゆるすこと、和解することを教えたイエス様に従って、作りだしていく平和。このことをしっかりと覚えたいと思います。 (小川宏嗣)

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2018年7月29日

 

「…ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。…」(マルコによる福音書104652節)。

目の見えないバルティマイが、イエス様が自分の町エリコにおいでになったと知った時、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10:47)と叫びました。彼は、目が見えるようになることを、どんなに願っていたか知れません(同51)。イエス様なら助けてくれると思ったのです。だから、どうしても会いたいと思ったのです。

しかし、周りにいた人々は、そのバルティマイを叱りつけました(同48)。静かにしなさい。黙りなさいというのです。でも、バルティマイは、なおも激しく叫ぶように、イエス様を呼び求めました。

人々はどうして叱ったのでしょうか。静かにじっとしていたら、イエス様を連れて来てくれたのでしょうか。静かにしてほしいのは、そこにいた人々の自分の気持ちの都合だったのです。自分の気持ちの方を優先させたのです。

こんなにうるさくするのなら、どこかに行ってほしいと考えます。そして、そのように考えることによって、イエス様とバルティマイを離れさせ、自分は静かにイエス様を見て、満足するという、過ちを犯してしまうのです。

 

わたしたちはどうでしょうか。教会はこのバルティマイの声を聞き取ることのできるところであってほしいと思います。(小川宏嗣)

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2018年7月22日

 

「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。…『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

 

(マタイによる福音書253540節)。

 

わたしは、恥ずかしい時、叱られた時、力を出しきれなかった時など、自分のことを小さく感じます。また、神様を思い、その愛を思う時に、自分の小ささを感じます。さらに孤独ということも人を小さくします。

「飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、着るものがなくて裸でいる人、病気の人、牢に捕らわれている人」とイエス様がたとえている人たちは、それぞれ孤独を背負って、小さい者となっている人たちです。

ひとりぼっちになった辛さは、誰もが経験していることと思います。さびしかったこと、辛かったことを思い起こして、家族のこと、友だちのこと、自分のことを考えると、小さい者という意味がよく分かるのではないでしょうか。イエス様が言う小さい者は、最も身近な、わたしのこととしての隣人のことであるのです。

 

この小さい者と言われる人、隣人のことを、今、ここに、イエス様がおられたらどうされるだろうか、と考えることがイエス様に従う第一歩となるのです。(小川宏嗣)

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2018年7月15日

 

「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである』」

   (ルカによる福音書19910節)。

 

聖書の中に、いちじく桑の木に登った徴税人ザアカイがイエス様と出会うというお話しがあります。もし、このいちじく桑がなかったら、ザアカイは、イエス様を見ることもなく、声をかけられることもありませんでした。いちじく桑の木に登るザアカイですが、そこに、いちじく桑を、その日のために育て、その場所に置いてくださったのは神様です。

わたしたちがイエス様と出会う時に登っている、いちじく桑の木とは何でしょうか。わたしたちは毎週日曜日に神様に礼拝を献げています。けれども、わたしたちがここに集っているこの場所に教会があるということは、そこにいちじく桑の木にたとえることのできるような、神様の導きがあることを思います。

イエス様はザアカイに、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19:5)と言いました。恐らく、ザアカイは、泊めるような準備など、何も出来ていなかったでしょう。でも、それでよいのです。イエス様と出会うこと、迎えるということは、何か、わたしたちが準備をして待つということではないのです。

神様の時の中で、「失われたものを捜して救うために」(同10)、いちじく桑の木は育てられ、その時を待っていたのです。待っているのは、常に神様です。その神様の時を、ザアカイはいただいたのです。(小川宏嗣)

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2018年7月8日

 

あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。

マタイによる福音書181213

人は努めている限り迷うものだ」(ゲーテという言葉があります。わたしたちは一生懸命努力したり、真剣になって生きようとして迷うということがあります。 だから、ゲーテの言葉は、迷うということは、とても大切な意味を持っている、ということを教えているのだと思います。

聖書の中で、イエス様は「迷い出た羊」のたとえ話をしています。迷いには、人生そのものが変わってしまうような深刻な迷いもあります。わたしたちは生活が貧しくなったり、仕事に失敗したり、学校に失敗したりして、人生の方向が変わってしまうということがあるのです。

しかし、イエス様が伝えているのは、たとえわたしたちが「迷い出た羊」となったとしても、神様は必ず捜し、見つけ出すということです。

聖書の中でいつも問題になっているのは、人間が神様を捜すということではなく、人間を捜すのは、常に、神様である、ということなのです。わたしたちは、ここに注目したいのです。

わたしたちは、迷い出た羊を理解すること、そして、命がけで捜し出す神様の御心を思うことを、聖書から読み取りたいのです。そして、迷うことを恐れないでいたいと思います。                 (小川宏嗣)

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2018年7月1日

 

「わたしは乏しいから、こう言うのではない。わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」

(ピリピ人への手紙4章11~13節)

 

わたしは、病気や手術の為に「お祈りしてください」と頼まれると、「はい、分かりました。きっとお治りになりますよ。大丈夫ですよ」、そういう気持ちで「大丈夫」という言葉を使っているように思います。

しかし、ある方が、この大丈夫ということについて次のように言っていました。「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫、そういう大丈夫なんですよ。」

わたしたちは神様を信頼するがゆえに、「病気を治してください、怪我を治してください」と必死に祈ります。そして同時に、どっちに転んでも大丈夫、神さまは悪いようにはなさらないという信頼、腹のすわった心構え、そういうものをもって祈りたいと思うのです。

 

わたしたちは、「キリストにおける大丈夫」を持っていたいと思います。「大丈夫、神様のなさることは、どっちに転んでも大丈夫」という、神様への信頼を支えにして、心を込めて、与えられている働きを全うしたいと思います。

                             (小川宏嗣)

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2018年6月24日

 

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書1224節)。

 

一粒の麦は、種として畑に蒔かれ、実となって収穫され、わたしたちはそれをパンとして食べることが出来ます。イエス・キリストは、地に落ちた一粒の麦でした。そして、ご自身をパンとして、わたしたちに差し出しました。

 

日本バプテスト連盟は、「戦争責任に関する信仰告白」(1988年)、「平和に関する信仰的宣言」(2002年)を発表しました。戦争責任・戦責告白とは、戦争に対して、教会が無理にこじつけて、戦争を理解し、また協力したことへの、反省と悔い改めです。

 

戦責告白は、わたしにとっては固いパンです。固いというのは、戦争の時代を生きた世代のキリスト者たちが、教会の真実を生きようとして、一粒の麦として地に落ち、その種からできた、悔い改めというパンであったからです。

だから、イエス様がパンとして差し出しているものは皆、決して、やわらかくはなく、また、やわらかくあってはならないのです。固いパンとして差し出されているものを食べなければ信仰の成長もありません。やわらかいものになれてしまっている、教会のわたしたちに、イエス様はパンを取り、言います。

 

「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26:26)。

 

この招きに応えられる者でありたいと思います。(小川宏嗣)

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2018年6月17日

 

「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(詩編961節)

 

わたしの愛唱讃美歌の一つは看護学校時代の校歌で『ちいさなかごに』(日本基督教団讃美歌第二編26)です(※「ちいさなかごに花を入れ、さびしい人にあげたなら、へやにかおり満ちあふれ、くらい胸もはれるでしょう。(おりかえし)あいのわざはちいさくても、かみのみ手がはたらいて、なやみのおおい世のひとをあかるくきよくするでしょう」)。

今ではこの歌を知らない人が多いでしょう。でも、わたしにとってこの歌は、古い歌ではなく、新しい歌です。古い歌とは神様のことが分からなくて、自分のことばかり考えていた歌ということです。そのような歌を歌うことをやめて、神様のことを考え、病床にある方々のことを考えて、歌うようになったということです。だから新しい歌なのです。

 

辛く、苦しいことがあり、自分の力ではどうすることもできない試練に囲まれることがあります。聖書はこのようなことを十字架という言い方で、わたしたちに教えます。しかし、その十字架の向こうに復活がある。神様からの力がある。そう信じるところに希望が生まれます。復活の希望です。この希望をもって歌う時、新しい歌となります。だから、新しい歌は、神を讃美する歌、感謝の歌、神の力をほめたたえるものとなるのです。新しい歌とは、喜びの讃美の歌なのです。苦難の向こうに復活のあることを信じて、新しい歌を歌う者となりましょう。(小川宏嗣)

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2018年6月10日

 

神は、アブラハムに約束をする際に、…『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす』と言われました。こうしてアブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです。

ヘブライ人への手紙61314

信仰の父と言われるアブラハムは、神様の約束をいただきました。それは、「恵みの祝福のうちに、多くの子孫、子どもたちを与えられる」という約束でした。約束というのは、それが実行されるのが遅くなると、心配になるものです。約束の時間に  遅れてくる人がいると気になります。短い時間でも、その約束の時間に遅れることがあると、気持ちが落ち着かなくなるのです。

でも、これは『神様の約束』なのだ。もう少し待ってみよう。我慢して待とう、   という気持ちをもって、根気強く、アブラハムは待ったのです。そして、たくさんの子どもたちを持つようになる、という神様の変わらない計画、その約束が実行され 実現されるという、神様の言葉が真実であることを経験しました。

アブラハムの現実に悩みや苦しみがなかったとは思えません。しかし、アブラハムの「根気よく待つ」という生き様に、信仰の成熟を見ることができると思います。  信仰に成長があるとすれば、この待つという出来事が信仰を成長させるのではない でしょうか。

わたしたちも神様の約束を受け継ぐよう招かれています。神様が礼拝においてわたしたちと出会ってくださり、わたしたちを用いてアブラハムのこども、信仰のこどもが与えられ続けて行くということを、希望の約束として覚えていたいと思います。 わたしたちも聖書の言葉に従って、根気よく信じて待つ者でありたいのです。

                          (小川宏嗣)

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2018年6月3日

 

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネによる福音書414節)。

 

わたしがこどもの頃、家の隣に井戸があり、時々、水を飲ませてもらいました。井戸の水は、夏は冷たく、冬は温かです。

イエス様の時代、ユダヤの国、乾燥して水を得にくい所では、井戸を持つことは、大変なことだったと思います。しかし、その水はかわく水であると、イエス様は言いました。かわく水とは、わたしたちがいつも使っている、生活に必要な、生命を守る水のことです。

では、かわかない水とは、どんな水なのでしょうか。イエス様は、それはわたしたちの内で泉となる水と言いました。泉は、井戸のように水を汲まなくても、水が湧き上がってくるので、かわかないのです。

 

わたしたちは毎主日、礼拝を献げています。礼拝で大切なことは、聖書の言葉をしっかりと覚えていくこと、聖書の言葉を心の内に蓄えていくことです。そうすると、わたしたちが疲れた時、悲しい時、聖書の言葉が力となって、弱くなった自分を支えてくれます。イエス様が話してくれた言葉が、わたしたちの心の中で大きな力になります。心の内に蓄えていた聖書の言葉が生きてきます。「わたしの内で泉となる」というのは、このことです。

礼拝とは、このかわかない水を飲むところ、聖書の言葉がわたしたちの内に泉となるところです。かわかない水というのは、イエス様のくださる言葉、神様の言葉、聖書の言葉です。(小川宏嗣)

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2018年5月27日

 

先週のNHK『鶴瓶の家族に乾杯』で紹介された熊本地震の被災地・西原村の“子どもの本の店「竹とんぼ」”に行ってきました。わたしは被災地のこの小さな本屋さんで、本当に出会うべきもの、知るべきものは何かについて改めて考えました。というのは、店主のお父様は日本で有名な「トルストイ」の翻訳家であり、ご二男も絵本の翻訳家として活躍している方でした。実は、わたしは、そのご二男が翻訳した『魚にのまれたヨナのおはなし』(作:ピーター・スピアー,:小宮由)という絵本を持っていたのです。

 

わたしにとってトルストイと言えば、『人は何で生きるか』です。神様は天使ミハィルに、神様と人間との関係を勉強させるために、彼を人間として地上に送ります。その際、三つの宿題(①人間の心の中にあるものは何か。②人間に知らされていないことは何か。③人間は何によって生きるのか)を出して、ミハィルに答えを捜させるのです。

ミハィルは一つ目、二つ目の答えは分かりました。でも、三つ目の『人は何で生きるか』は、なかなか分かりません。しかし最後には、「人間の心には、神様の愛があって、人はそれによって生きる」ことを知ったのです。

 

人間の心の中には、「理解されたい」「愛されたい」「愛したい」という深い望みがあります。わたしたちには、自分の近くに分かち合える人、一緒にいると安心できるような人が必要です。わたしはひとりでいると孤独で、激しい苦痛にさえも襲われます。その時、この苦痛を消し去ろうとしたりして心を頑なにします。生きることをあきらめたりします。自分は望まれていない、何も価値がないという感情は、わたしたちの心の中に必ずいつか生まれてくるものです。だから「神はわたしを愛している」というメッセージを聞くことが本当に大切です。  

                             (小川宏嗣)

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2018年5月20日

(先週の続き)

昨日まで私の横で生きていた夫が忽然と姿を消して影も形も無くなり、サラサラの灰の粉末になってしまったのです。温もりのあった彼の命も姿も形も無くなり、無になったのです。それはそのまま明日の私自身の姿なのだと、この時ほど強く深く自覚したことはありませんでした。しかしその当時、私の信仰は余りにも未熟で、私は「人の命は肉体の誕生で始まって肉体の死で終わり無となる」という枠組みの中でしか夫と自分自身の死をとらえることはできませんでした。故鈴木正久牧師も50年前、56歳の若さで死の床にあって自らの死と対峙している中で、「死とは無である」と言い切っています。

死とは何か、生とは何か。私は恥ずかしながら60歳を過ぎて初めて、自分の生と死と命をじっと見つめることになりました。すると当然、疑問が沸いてきます。死とは無なのか。人間の命は肉体の誕生で始まって肉体の死で終わり、無となる、本当にそれだけだろうか。私は答えを探し求めて、本を貪り読み、自分探しの長い旅に出ては世界中をさ迷い歩きました。するとそこには、若い日にイエスと出会い、救い主イエスを信じることによって命を与えられている夫と私がいました。私は私の信仰生活の原点に立ち返ったのです。

「私は蘇りである。私を信じる者は、たとえ死んでも生きる。又、生きていて私を信じる者は何時までも死なない。」(ヨハネによる福音書11:2526)。

 

故鈴木正久牧師は亡くなる3週間前、入院先の病院から教会の人たちに宛ててテープ録音した説教の中で、「まあ、肉体の死というものはあるわけですが、死の蔭の谷を歩んで主に導かれて行く、というふうに、死をも超えて生きてゆくわけです」と淡々と語っています。この言葉は、夫が天に召されていく日の夜、ちょうど死の15時間位前になりますが、一晩中片時も休むことなく、もはや視力を失ってしまった両目をキッと見開いたまま、両腕に前方に高く揚げて、私がいくら制止しようとしても、それを驚くほどの力で振り切って、暗闇の中を文字通り必死でまさぐっていた姿を思い出させます。あの時、夫も間違いなく、まさに死の陰の谷を歩いて主に導かれて行っていたのだと、今は固く信じることができます。あの時彼の肉体に残されていた全ての力を振り絞って、暗闇の中をまさぐるあの両腕の力の何と強かったことでしょう17年を経た今でも鮮明に思い出されます。

                    (諸岡邦子『メメントモリ』③)

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2018年5月13日

(先週の続き)

では、今私自身はこの「メメントモリ」という言葉をどのように生きているだろう?

-特にクリスチャンとして-と自問してみます。

亡き夫と私は2000年の3月に、9年間に及ぶイギリスでの生活に一応の区切りを付けて帰国しました。やがて2人とも引退生活に入ったら、永住権もあることだしイギリスと日本を往き来しながら過ごせるようにと、向こうで購入していた家はそのままにしての帰国でした。ところが、帰国してわずか2ヵ月後の5月に、誰にもまして健康には自信のあった夫の体が進行性の癌に蝕まれていることが判明しました。そして7月に開腹手術を受けた時には既に癌細胞は全身に広がっていて余命3ヵ月、場合によっては1ヵ月ももたないかもしれないと宣告されました。結局、それから6ヵ月間の闘病生活を経て、2001年の1月末に天に召されて行きました。

私は何の備えもなく、何の心の準備もなく、ある日、突然途方もない形で夫の死と向き合うことになったのです。夫は多くを語らず終始平静でしたが、私の心は慌てふためきました。のた打ち回った、と言った方がよいでしょう。挙句の果てに私に遺されたもの、私に突き付けられたものは、最愛の夫の死という厳然たる事実だけでした。それは、私のそれまでの人生の時間の中で最も決定的な瞬間であり、最も決定的な出来事でした。私の人生はこれによって完全に止めを刺されました。

人の死は「一人称(私)の死」と「二人称(あなた)の死」と「三人称(彼ら)の死」に分類される、とよく言われます。私は夫の死の1年前に立て続けに兄と姉の死を見ていました。それより20年前には父も亡くしていました。その父や兄と姉の死は私にとっては間違いなく「二人称の死」でした。私は彼らの死を嘆き悲しみ、それを受け入れるのに長い時間を要しました。しかし、神さまによって結ばれ、40年間互いに刺激し合って仕事に励み、家庭を築き、同じ方向を向いて生きてきた夫の死、言わば命を分け合ってきた夫の死は、もはや私にとって「二人称の死」ではなく、「一人称の死」、つまり私自身の死に限りなく近いものとして私に迫ってきました。そしてその「一人称の死」は、それまでに私が見てきた「二人称の死」や「三人称の死」とは似ても似つかぬ異質のものでした。

(次週に続く)。(諸岡邦子『メメントモリ』②)

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2018年5月6日

 

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ない

うちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」

伝道者の書121

福岡市志免町にある栄光病院でホスピス長、院長、理事長を務められ昨年第一線を退かれた下稲葉康之先生が、ある会合で、ご自身の長年にわたる医療生活を支えて きた思いのひとつとして「メメントモリ」という言葉に言及されました。

メメントモリ(memento mori)、どうやらラテン語のようです。ネット上のWikipediaの説明によると、その意味するところはこうです。「自分がいつか死ぬことをわすれるな」「死を覚悟せよ」「自分自身に死を突き付けて、そこからどう生きるかを考えなさい」。 

ここに余りにも有名な話があります。アップルコンピュータの創立者、故Steve Jobs19552011)は、2005年にスタンフォード大学の卒業式に招かれた  記念講演で、「毎日を人生の最後の日だと思って生きよう。いつか本当にそうなる  日が来る」と訴えたのです。そして、“Stay hungrystay foolish.”(いつもハングリーであれ、いつも愚か者であれ)という言葉で30分に及ぶそのスピーチを結びました。それより2年前の2003年にすい臓がんを宣告されて一時は死を覚悟したSteve Jobsは正しくこの「メメントモリ」を「毎日を人生の最後の日だと思って  生きよう。いつか本当にそうなる日が来る」と表現したのだと私は思います。しかも、それを、人生の終わりの日に近づいている私のような老人に向かってではなく、世界最高とも評されているスタンフォード大学を今まさに卒業しようとしている前途洋々の若者たちに向かって訴えたのです。(次週に続く)

 

(諸岡邦子『メメントモリ』①)**********************************

 

2018年4月29日

 

「いつでも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。」(エフェソの信徒への手紙520節)。

 

元プロ野球選手の故衣笠祥雄さん(広島東洋カープ内野手)は、1987613日に2131試合連続出場を達成し、アメリカメジャーリーグのルー・ゲーリッグ(ヤンキース)の記録を抜きました。試合終了後のセレモニーで、衣笠さんは、「わたしに野球を与えてくれた神様に感謝します」と挨拶したのを、わたしは印象深く覚えています。

「のちに衣笠選手に自分のポジションを明け渡すことになる先輩選手が消燈後も英語を勉強している衣笠選手に、『なぜ英語を勉強しているのか』と聞いた。すると、衣笠選手は『アメリカへ渡って、まだ会ったことのない父を探すためです』と答えた。そこで、先輩選手は、『それなら、英語の勉強でなくて、もっと素振りをしなさい。日本一の選手になれば、お父さんはむこうから会いに来るのではないか』と、さとしたというのである。…衣笠選手にとって、もっともかけがえのない存在だったであろう母親が亡くなった夜も、広島球場にアーチをかけて手向けとしたのである。」(『毎日新聞』1987613日朝刊 社説)。

 

衣笠選手をさとした無名の先輩の尊い存在。人が育っていく時の貴重な人との出会い。そしてそれを誠実に受け止めて生き抜いた衣笠祥雄さんの人生の美しい実りに心が打たれる思いがします。(小川宏嗣)

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2018年4月22日

 

 キリスト教会が大切にしていることは、「共に生きる」ということだと思います。神様から等しく造られ、また愛されているわたしたちのお互いの関係は、「共に生きる」ことでなければならないと思うからです。

本日、わたしたちは教会総会を開き、今年度の教会活動について話し合いますが、その運営は極めて民主的です。民主的と言っても、それは、結局、「ひとりを大切にする」という運営のことだと思います。

イエス様は言われます。「あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじてないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使いたちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである」(マタイ18:10)。

聖書で言う「小さい者」とは、まず幼な子のこと(マタイ18:15)を考えますが、それだけでなく、大人であっても、何か課題や重荷を負っている人、端的に言えば、罪人を指していると考えていいと思います。

けれども「小さい」と言うことは、その人の価値を低く見る意味でないことは、イエス様の言葉からも明らかです。むしろ、小さいと言われる人たちから、わたしたちが学ばなければならないものがあるはずで、わたしたちの方こそ、小さい者と言わなければならないかも知れません。

 

「わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせるものは、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。」(マタイ18:16)。

 

一人ひとりと共に生きるキリスト教会、イエス様の言葉を深いおそれをもって聞き、お互いの言葉を聞き合いたいと思います。(小川宏嗣)

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2018年4月15日

 

住まいの再建。これが今、福岡教会が参加している熊本震災支援『わくわくカフェ』を通して見えてくる、益城町・馬水東道仮設団地(56世帯)で生活をしている方々の一番の課題です。

 熊本地震から2年を迎えた益城町には、現在、17の仮設団地(1556世帯)があります。4月現在で、仮設団地から元地に家を再建して移った方々は4500世帯です。資金や家族等、複雑な問題があって、自力再建できない方々は、引き続き仮設団地での生活を強いられていく状況にあります。

 そのような中、災害公営住宅(町内5地区に整備検討予定)の仮申込受付(1/152/28)が終了しました。地区によっては、18年度建築着工/19年度入居という計画がありますが、様々な問題により、その実施の時期は極めて流動的です。

 『わくわくカフェ』は、益城町社会福祉協議会(地域支え合いセンター)への申し込みを通して行っています。現在、継続的に仮設団地支援として行われている主なボランティアは、傾聴、音楽、体操、カフェ等です。もはや新規のボランティアの申し込みはなく、17年度をもって終了したものもあり、ボランティアは今、減少傾向にあります。震災から2年、人々の震災の記憶が薄れ、被災地益城町のことが更に忘れ去られていくように感じます。

 長引く仮設団地での生活を強いられている方々の中には、精神的な悩み、言うに言えない様々な課題を抱えておられ、今も、またこれからも、一人ひとりに寄り添うボランティアが本当に必要とされています。

 

わたしたちは、『わくわくカフェ』を18年度も行うことを話し合いました。是非、被災地のこと、ボランティア活動のことを覚えて祈って支えていただければ幸いに思います。(小川宏嗣)

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2018年4月8日

 

神学校の同級生に浅野繁政さんという友人がいた。同級生といっても、浅野さんはホテルマンを33年間経験して、60歳で神学校に入学したから、わたしから見たら、おじさん神学生だった。しかし、彼は学生時代テニスの選手でスポーツマン、わたしたちは干隈の神学寮でよくキャッチボールをした。それだけではない、彼は音楽も得意で、男声合唱団の指揮者をしたり、人前で歌うような賜物も持っていた。当然、勉強も一生懸命したので、わたしも浅野さんに負けないように、勉強しようと思った。わたしは浅野さんからたくさんの影響を受け、学んだ。

わたしたちは一緒に神学校を卒業して、同じ神奈川県の教会に牧師として赴任した。浅野さんは三浦半島にある三浦市、わたしは湘南の藤沢市の教会だった。

その浅野さんが病に倒れて入院したのは5年目に入った頃だった。浅野さんが亡くなる少し前のこと。病院にお見舞いに行って、神学校の頃の同級生の話をしていた。その中には牧師を途中で辞めた人もいたので、その人の話になった。そして、「もしかすると、今、苦労しているかもしれないね」と、わたしが言った時のこと。

ベッドに寝ていた浅野さんは、「そんなことはないと思う。きっと幸せに暮らしていると思うよ」と、とてもしっかりした声で言ったのだ。ハッとした。友だちの好き・嫌いということと、愛するということの違いを、改めてはっきりと気づかされたのだった。愛には祈りがあることを、その時、教えられた。

わたしたちの人生は、教師や友人等の影響によって決定されることも多い。そのめぐりあった人々はかけがえのない人であり、出会いであったということがある。その出会いを単なる偶然と考えず、そこに神の導きのあることを信じようとするのが、わたしたちの信仰であることを思う。  

                           (小川宏嗣)

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2018年3月25日

 

3月は別れの季節。この季節に、思い起こす一つの言葉がある。

「もうすこし居たいな、と思う時は、『さよなら』すべき時です。もう、これ以上、居たくないな、と思う時は、もう少し一緒にいて差し上げるべき時です。」(尻枝正行)。

 

尻枝さんの少年時代は1945年、戦争末期で父親は戦死。家は空襲で焼け、家族は命からがら逃げる。敗戦の翌年の14歳の時、自分の家を自分の手で改築したいと思い、当時アメリカ軍の援助で建築中であったカトリック教会へ釘を盗みに入った。 彼はピカピカ光るアメリカ製の釘を急いでリュックにつめている時、黒い服を来た外国人にいきなり首筋を押さえられた。一瞬にして彼は真っ青になった。瞼には、薄暗い刑務所に入れられた自分と悲しげな母親の姿が浮かんだ。ところが驚いたことに、その外人さんは彼を殴ろうとも捕まえようともしないで、彼のリュックを取り入るだけの釘を更につめ始めた。そして、何も説教をせず、彼を帰してくれた。門の所で「足りなかったら、またいらっしゃい」と言ってくれた。この狐につままれたような出来事に、その夜の尻枝さんは一睡もできなかった。自分は釘を盗もうとしたのに、その釘を惜しみなく与えてくれたロンカート神父の太い手と澄んだ青い目が、彼の頭から離れなかった。 翌日から彼は教会に通い始めた。この神父に導かれて、釘泥棒の少年はやがてカトリック教会の神父になった。

「『もし、あの神父でなかったら…、正義感の強い人、いや、警察に捕えられたとしたら』。そのような問いを何度、心の中で繰り返してきたかも知れない」と尻枝さんは言う。“出会い”というものが持つ真実がある。出会う人によって、人は確かに変えられる。

 

「もうすこし一緒に居たいな」と思う時、それが今、わたしたちの迎える卒業の春なのではないか。(小川宏嗣)

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2018年3月18日

 

先日私は、「ハーバード白熱教室」というNHKの番組で、政治哲学者マイケル・サンデル教授による『正義』についての講義を見ました。教授は学生にいくつかの問いを投げかけました。

 

最初の問いは「あなたは路面電車の運転手であり、時速100㎞のスピードで走っている。行く手に五名の労働者がおり、急停車しようとするが、ブレーキが利かない。そのとき、脇に逸れる線路があることに気付く。しかしそこにも一名の労働者がいる。あなたはどうするか。」というものです。そしてなぜその行動をとるのか意見を求めます。

 

続いて「あなたは移植医で、臓器移植を必要としている五人の瀕死の患者を抱えている。五人はそれぞれ異なる臓器を必要としているが、臓器の提供者は居ない。そのとき、隣の部屋に健康診断を受けに来た一人の健康な人がいるのを思い出す。あなたはどうするか。」

 

サンデル教授は、このような議論を通して、正義について三つの考え方を提示します。それらは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進という考え方です。本日の聖書箇所(マルコ2:3-13-17)では、自らを正義の人と認識しているファリサイ派の学者達が出てきます。彼らは自分の中で正義を持つが故に、それに反する人々を拒絶します。そのような中イエス様は語ります。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と。この言葉は人間の立てる義を乗り越えた生き方へと招いているのです。

                  (西南学院大学 神学生 杉本拓哉)

 

2018年3月11日

 

(先週の続き)父が宮崎で牧師をしている関係で、博多にある無牧のメノナイトの教会の夕方の礼拝に出席することが時々ありました。その日は息子を夫に預けて出席しました。出席者は10人に満たないですが、今も礼拝を捧げられています。

「主が私の手をとってくださいます/どうして怖がったり逃げたりするでしょう/やさしい主の手にすべてをまかせて/旅ができるとはなんたる恵みでしょう/ある時は雨で ある時は風で/困難はするけれどなんとも思いません/やさしい主の手にすべてをまかせて/旅ができるとはなんたる恵みでしょう/いつまで歩くかどこまで行くのか/主がそのみむねをなしたもうままです/やさしい主の手にすべてをまかせて/旅ができるとはなんたる恵みでしょう」(聖歌651番「主がわたしの手を」)(歌詞は少し違いますが、同じメロディのものが新生讃美歌にも載っていました)その聖歌を歌いながら私は涙が止まらなくなっていました。神様が苦しい時にも私といっしょに歩んでくださっていることへの大きな恵みを感じました。

現在、私は教会学校に関わらせていただいています。幼少の頃によく聴いたこども讃美歌を聴くと懐かしさを覚えますが、近年のバプテスト教会ではこども讃美歌は あまり歌わなくなっているそうです。「よいこにしてください」「きよいこにしてください」という歌詞には異を唱える傾向にあるそうです。神様の前ではありのままでいいのだよ、という、これこそ子どもに伝えたいメッセージですね。

私自身、人には自分の感情を表現することは苦手ですが、神様には喜びも悲しみも、時には「どうしてですか?」という叫びにも似た問いをも投げかけてきました。主はお答えにならないこともありました。しかし、いつも私の声を聞いてくださり、恵みを与え続けてくださいました。

 

私は、かつて神様に問うこともあったけれども、今は神様にどう生きていくのか 実は問われていることを最近になって考えさせられています。さあ、主の大きな愛にどう応えましょうか!    (上田千枝「讃美歌の思いで」)

2018年3月4日

 

「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う/恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。」(イザヤ書4113節)。

 

皆さんは讃美歌にまつわるどんな思い出をお持ちでしょうか。私は2つの思いでがあります。

1つは、18年前のクリスマス礼拝。私は生後1カ月の娘を抱いて、出産後初めて礼拝に出席しました。教会の皆さんは温かく迎えてくださって、皆さんと一緒に「きよしこの夜」を賛美していました。するとだんだん歌詞が涙で見えなくなっていきました。初めての育児で怒涛の毎日を送っていた私は礼拝に出席して緊張の糸が緩んでしまったのでしょう。教会の皆さんが私の出産のために祈ってくださったこと、また、クリスマスを娘と一緒に教会で迎えられたという喜びで胸がいっぱいになったのでした。当時、宮崎の教会から転入して1年半でしたが、福岡教会が私の帰るべき場所となったことを実感した日となりました。

もう1つは5年前くらいでしょうか。ある年の夏休み、私は育児ストレスでどうかなりそうなくらいでした。私の3番目の子どもは知的障害があります。今は長期休暇の時は放課後デイサービスなどが普及してきたのでずいぶん楽に(?)なりましたが、当時、夏休みが近くなると憂鬱になったものでした。息子は2階の窓から上の子の教科書や文具を投げたり、まるでおさるのジョージのように、絶えずとんでもないことをするのです。

 

その頃、福岡教会にも時々しか出席していませんでした。息子と一緒に教会に行っても、息子の声で説教は聞こえないし、教会の方とお話したいと思っても、息子が悪さをする前にさっさと帰らないとひどく疲れてしまうことになりました(次週に続く)。          (上田千枝「讃美歌の思いで」)

2018年2月25日

 

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイによる福音書1624節)。

 

わたしは信仰生活というのは、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていくことであると考えてきました(マタイ16:24)。そして、負いきれない十字架は、イエス様が一緒に負って歩んでくださると思っていました。今も、そう信じています。

けれども、聖書の中には、イエス様の十字架を背負った人もいたのです。その人はキレネ人シモンという人です(マタイ27:32)。

今日、わたしたちは汀幼稚園を卒園して新しい出発をする光組のこどもたちの上に神様の祝福がたくさんあるように心から祈り、礼拝を献げます。

わたしたちには、病気になったり、友だち関係、身近な家族の重荷などを負って、歩いていかなければならないようなことを、一度ならず経験します。無理に負わされてしまったとしか考えられないような、十字架の経験です。キレネ人シモンが負った十字架に、そのことを思います。

わたしたちには、自分の十字架ではなく、イエス様の十字架を負う、というような言い方でしか説明できないような、経験もあるのです。もし、負いきれないような苦しみを持つことがあったら、イエス様の十字架を負うこともあるのだ、と思い出してほしいのです。

でも神様は、十字架で終わりにされないで、必ず希望を与えてくださいます。十字架をとおしてみる希望を復活といいます。十字架の向こうには、神様からの復活の出来事が約束されていることを信じて、お祈りしています。

                             (小川宏嗣)

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2018年2月18日

 

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピの信徒への手紙268節)。

 

学生時代、わたしはある人に、「どういう人を尊敬していますか」と、尋ねたことがあります。するとその人は、「近くにいると、尊敬するのは難しいよ。尊敬する人には、人と人との適当な距離のようなものが必要だよ。…すぐれた人格というのは、そばにいるだけで、人を謙遜な思いにさせるよね」と話されました。

わたしはイエス様を尊敬の対象と考えたことはありませんが、イエス様に出会った人が、イエス様にすぐ従っていくことができたのも、人を謙遜な思いにさせる人格ということにあったのだと、理解することができました。

わたしは中学生の時に数学が苦手になってしまい、分からないところがあると、友だちから教えてもらうことがよくありました。そのような時に抱く気持ちには、相手に対する、謙遜な思いと言えるようなものがあったことを思います。

 

神の子イエス様は、人となり、わたしたち人間と共に生きてくださって、わたしたちに命を与えてくださいました。そのイエス様の人格に触れて、弟子たちをはじめ、多くの人たちが、イエス様に従って行ったのではないでしょうか。

イエス・キリストに従う、ということは、謙遜な思いのうちに、「…互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(同2:34)という聖書の言葉に生きることであるのだと思います。

                           (小川宏嗣)

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2018年2月11日

 

あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである     (マタイによる福音書537

211日はカレンダーでは「建国記念日」となっています。その由来を調べてみると、「紀元節」に突き当たります。「紀元節」とは、1872年に国が定めた祝日でした。天照大神という神が日本の国を創り、その直系である神武天皇が即位した日を211日とし、その日をすべての国民と一緒に祝い、感謝し、記念するという日だったのです。それは第二次世界大戦敗戦後に廃止されましたが、1966年に「建国をしのび、国を愛する心を養う」という内容を謳いつつ「211日」が再び「建国記念日」として「祝日法」に組み入れられて定められたのです。

考えてみると、「建国記念日」とは「紀元節」の復活です。以前の総理大臣が「日本は天皇を中心とした神の国」と発言したことがありましたが、神武天皇以来、万世一系の天皇たちが日本を統治してきたことが正しく、それが正しい日本の歴史であり、それを国民こぞって祝い、感謝し、記念しよう、という考えが「建国記念日」の背後にあるのです。

かつて日本は天皇を神とし、その名によって戦争が引き起こされ、国の内外でどんなに悲惨な出来事が起こったでしょうか。そして日本のキリスト教の殆ども、戦争中にキリストを主と告白する信仰を捨てて、天皇中心の社会に迎合して戦争に加担したことへの深い反省があります。

そのことを受け止めつつ、わたしたちキリスト教会は211日を「信教の自由を守る日」として過ごします。教会は憲法によって『思想及び良心の自由』、『信教の自由、国の宗教活動の禁止』が本当に保障されているかどうかを注意深く見る、執成しの祈りを献げる役割を果たしていきます。

 

その役割は自分たちの信仰を守るための単なる手立て、あるいは自己主張などではありません。「信教の自由」は全ての市民の自由、人間の基本的自由の根幹であり、平和への基本的な要件でもあるのです。           (小川宏嗣)

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2018年2月4日

 

「わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます」(詩編406節)。

 

 

私が宝物としている物のひとつに、今から17年前、長女結実が小学生だった時、教会学校で毎週書いていた「かぞえてみよう かみさまのめぐみ」というタイトルのノートがある。当時はこどもと大人が合同で礼拝をしていたので、前半にCSリーダーがこども向けにメッセージをし、その後大人への説教の合間に礼拝に参加したまま子どもたちがそのノートに感想やお祈りを書いていた。そしてリーダーに手渡した後、コメントを書き入れてくださり、翌週またそのノートが手元に返るというシステムだった。当時の結実のリーダーは江里口幸子さんと下川寛子さんで、毎週丁寧にコメントを書いてくださり、褒めてくださったり、励ましてくださったり、深い愛情を持って接してくださっていることがよくわかり、今でもそのノートを開くととても温かな気持ちになれる。難しくてわからなかったと書いた日には、牧師先生のお話の前にお話がわかるように助けてくださいと祈るといいですよとお返事してくださり、平和を望む心、人を許す事を聖書を通じて教えてくださっている。ノートが途中で終わった後も、お二人はいつもいつも結実に折りにふれて声をかけてくださり、そして成長を見守ってくださった。結実をここまで守り導いてくださったのは神様だが、こうして様々な形で関わり祈ってくださった牧師先生を始め、すべての教会の方々のおかげだと私は確信している。コメントの一つに、「結実ちゃんも大人になっていろいろなことを経験するでしょう。悲しい時もあるかもしれません。そんな時イエス様がいつもそばにいて助けてくださることを思い出してくださいね。」とある。結実は今幼稚園で小さな子どもたちに囲まれ過ごしているが、その子ども達ひとりひとりにも、自分が受けたような温かな眼差しで包み、クリスチャン保育者として、神様はいつも側にいるよ、いつも助けてくださるから大丈夫だよと目には見えない大きな愛を伝えていけるよう願っている。(伊藤 真澄)

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2018年1月28日

「イエスは言われた。『なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか』」

   (マルコによる福音書440節)。

 

夕方、弟子たちはイエス様と一緒に舟に乗り、向う岸へ渡ることになりました。ところが、突然激しい風が吹いて、舟に波が入ってきたので、弟子たちは恐くなりました。弟子たちは、舟の艫の方で寝ていたイエス様を起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と心配しました。きっと、“大丈夫だよ”という言葉を期待していたのだと思います。しかしイエス様は、「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」と、弟子たちを叱ったのです。

わたしが神学生の時、ある方から、「あなたが牧師になった時、もし、叱ってくれる先生がいたとしたら、とても幸せだよ」と言われたことがあります。

叱られるということの大切さがわかるようになったのは、ずっと後になってからのことです。実際に、今、わたしには厳しい先生がいないことを覚えています。そして、厳しい先生がいないと怠惰になる、自分というものは本当に当てにならない、ということを実感しているのです。

わたしたちが、迷ったり、怖くなったり、心配になった時には、聖書の言葉で、叱られることが大切です。神様は、わたしたちを守り、導くために、叱ることがあるのです。

 

 

わたしたちは毎日曜日、あるいは毎水曜日、教会において聖書を読む、そしてイエス様から叱られるという経験をすることが大切ではないかと思います。叱られる言葉の愛に気づきたいからです。(小川宏嗣)

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2018年1月21日

 

私が教会に通うようになったきっかけは、苦しみを抱え、救いを求めていたときに神様が呼びかけて下さったことです。私の信仰に至るまでの道のりはまさに、ルカによる福音書119節「求めなさい、そうすれば与えられる」、という言葉そのものでした。

福岡に転勤してくる前の部署で、私はパワハラを受けていました。「馬鹿野郎、そんなこともできないのか」と面罵される毎日でしたが、「非は自分にある、上司は私のことを考えてくれているんだ」と信じ、日々、耐えていました。

しかし、あろうことかその上司は自分が面接官を務める採用試験の日に平気で遅刻してきたのです。仕事を求め、真剣に試験を受けに来ている受験者の熱意を平気で踏みにじる所業を目にし、私は情けなくなると同時に、日頃、ハラスメントを受けている恐怖から何も言うことのできなかった自分に失望しました。

― あの受験者は那覇以外で受験していたら合格していたかもしれない。自分にはもっとできることがあったのではないか ―、この思いは福岡に移ってからも私を苦しめ、生活に支障をきたすほどになりました。もう自分ではどうしようもない、そう思ったとき、「求めなさい、そうすれば与えられる」、この言葉が頭をよぎり、教会に行ってみてはどうか、と思い立ったのです。しかし、それまでキリスト教との縁のなかった自分を受け入れてもらえるだろうか、逡巡していると、突如、“ドーン”と雷鳴があたり一面に響き渡りました。その瞬間、私は自分が神様から呼びかけられたのだと悟ったのです。そして、導かれるままに、福岡バプテスト教会を訪れ、皆さんとの出会いを果たし、共に学び、多くを与えられ、こうしてバプテスマを授かるに至りました。この半年余りの体験で、私は救われ、罪と赦しを自覚し、生まれ変わったのです。

それゆえに、私は全能の神の愛を信じます。救い主イエスが我々の罪を引き受け、十字架にかけられたことにより、もたらされた救いとその後の復活により与えられた希望を信じます。そして我々を神の御心にかなった正しい道へと導く聖霊を信じます。

そして、イエス・キリストの弟子となり、この福岡バプテスト教会で主日礼拝を守り、信仰という頂上のない山を生涯かけて登り続けていくことを誓います。父なる神様、どうかこの誓いが守られ、あなたの御心にかなう生き方ができますよう、お祈りいたします。アーメン。    

              (T.O『信仰告白』2017.12.24

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2018年1月14日

 

『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」                       (マタイによる福音書913節)

「今日は、二人でお祈りができてよかった」。ある日の祈祷会で、教会員のある方がそう言われました。わたしたちは、お祈りする、ということについて、できるなら、誰もいないところで、一人で、神様にした方がいい、というように考えていないでしょうか。

二人でお祈りするということは、どういうことでしょうか。わたしたちも様々な 事情で、一人で暮らさなければならなくなった時に、一人で食事をし、話す相手がない、ということを経験し、つらくなることがあります。語り合いながら、楽しく食事をするような、嬉しいお祈りもあるのではないでしょうか。二人でお祈りする 豊かさ、喜びということがあるのです。

 

イエス様のご生涯は、人を受け入れられる、ことにいと小さき者を迎え入れて、共にいることのできる場所を与えてくださる、というものでした。イエス様はいつも祈りをもって一人ひとりと出会い、迎え入れてくださいました。新しい年も、イエス様は、わたしたち教会の礼拝や祈祷会を用いて、「ここにあなたの場所がありますよ」と一人ひとりに語りかけてくださっているのではないでしょうか。わたしたちも、礼拝や祈祷会を、人を迎え入れ、本当にその人を生かしていく場所にしていきたいと思いま

す  。                    (小川宏嗣)

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2018年1月7日

 

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時があり、…神のなされることは皆、その時にかなって美しい。」(伝道の書3111節)。

わたしたちの愛してやまない、教会員の故Mさんが、昨年1227日(水)午前337分、58年の生涯を終えて、神様のもとに召された。Mさんとお別れは本当に寂しい。悲しい。大切なものを失ってしまった。そういう思いが心に湧き上がって来て抑えることができない。

 

「神への感謝、生まれて初めての入院、手術、そして抗がん剤治療、そうして神によってこのように生かされていることに感謝。今回の入院で示されたみ言葉が、『生まれるに時があり、死ぬるに時がある』である。

ともすれば人間は自分勝手な思い込みにより生活している。しかし、それは全て神が備えてくれている『時』があることを実感した。

わたしにどのくらいの時間が与えられているのか、わたしには分からない。神が備えてくれている『その時』まで、しっかりいきてゆきたい。

頻繁に見舞ってくれた牧師とわたしを覚えて祈りを捧げてくれる教会のみんなに感謝。」(M『病と障害を抱えて生きる ~大腸がんになった~ 』)

 

死は別れの時かもしれない。しかし、わたしたちの救い主イエス・キリストは、この最期の時を互いにゆるし合う時、互いに仲直りする時、そして、もう一度チャレンジしてみよう、生き直してみようと思える時にした。これがキリスト教信仰であり、Mさんはこのことを信じて生涯を生きた。

 

Mさんの最期の時、Mさんと神様は共にいて下さった。Mさんは独りではなかった。神様は死を死で終わらせなかった。教会はこのことを宣べ伝えて行く。そして、ご家族の上に神様の慰めと励ましを祈って行く。(小川宏嗣)

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2017年12月31日

 

1善き力にわれ囲まれ/守り慰められて/世の悩み共にわかち/新しい日を望もう/過ぎた日々の悩み重く/なおのしかかる時も/さわぎ立つ心しずめ/み旨に従いゆく

(くり返し)

善き力に守られつつ/来るべき時を待とう/夜も朝もいつも神は/われらと共にいます

2たとい主から差し出される/杯はにがくても/恐れず感謝をこめて/愛する手から受けよう/輝かせよ主のともし火/われらの闇の中に/望みを主の手にゆだね/来るべき朝を待とう」(新生讃美歌73番『善き力にわれ囲まれ』)

 

新生讃美歌の73番は、ドイツの牧師、D・ボンヘッファーの作詞です。ナチス・ドイツに抵抗し、捕らわれの身となったボンへッファーが獄中で詩を書き、それに曲がつけられたのです。

「善き力に われ囲まれ…新しい日を望もう」と1節で歌い、繰り返しでは、「…夜も朝も、いつも神はわれらと共にいます」と歌います。新しい年を前にして、両親、家族、婚約者、友人、同志たちという「善き力」に囲まれて、希望の中で新しい年を迎えることを告げています。

2節では、「神から与えられた杯がたとえ苦いものであっても喜んで神のみ手からそれを受け取ろう」と歌い、「来たるべき朝を待つ」と歌います。

神を信じていようと、信じていまいと苦難からわたしたちは逃れることは出来ません。けれども、その苦しみを共に担ってくださる方がいるのです。イエス・キリストが、わたしたちすべての苦しみを十字架で担っていることを忘れてはなりません。そして、十字架の向うには、神様からの復活が約束されていることを信じて、新しい年を迎えましょう。                 

 

                            (小川宏嗣)

2017年12月17日

 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今からの地、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(ルカによる福音書14750)

 

イエス様は、誰から生まれてもよかったわけじゃないと思います。マリアが特別な人で、天使のようで、信仰深く、素晴らしい人だったと言いたいのではありません。でも、誰でもよかったわけではないと思います。

神様は、人々から知られることのない、身分の低い者、小さき者を愛し、選び、素晴らしいことをしてくださるのです。わたしたち人間が弱くなり、小さくなり、あきらめてしまうようなところで、神様は愛を注いでくださり、奇跡を起こしてくださるのです。

 

マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです」と言いました。マリアは、神様の力を知っていました。神様の力が必要であるということを知る時、人は自分が小さき者であることを知るのだと思います。神様の力の必要なことを知った、神様の言葉、神様に従う小さき者を、神様は選ばれるということなのです。

イエス様は、このマリアより誕生されました。わたしたちも、神様の言葉への信頼と希望をクリスマスを迎える今、しっかりと持ちたいと思います。

                                      (小川宏嗣)

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2017年12月10日

 

彼らが、王の言葉を聞いて出かけると、

東方で見た星が先立って進み、

ついに幼子のいる場所に止まった。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

    (マタイによる福音書2910

 

東の方から来た占星術の学者たちは、「星」をたよりに旅をしました。

彼らは、あの星をめあてに行けば、どんな道をたどっても、必ずたどりつくことができると信じていたからです。そして実際に、その星が、イエス様の誕生した家畜小屋の場所を教えていたのです。

信仰の世界は、聖書が星となって、ともし火となって、わたしたちのたどる道を「導いていく」世界です。聖書は、人の本当の幸せは、神を知って生きることだよと、わたしたちに人生の案内をしてくれるのです。「ここに真実な世界があるよ、ここに愛があるよ、救いがあるよ、神の国があるよ」と示し、導いているのです。

 

アドベントを迎え、クリスマスの準備をしようとする、わたしたちも、星によってたどる道のあること、聖書が星となって、わたしたちの道を照らし  導いてくれることを、心から覚えたいと思います。 

     (小川宏嗣)

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2017年12月3日

 

「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリアは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼い葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったのである。」(ルカによる福音書2章7節)

 

待降節(アドベント)は教会の暦では、一年の始まりです。アドベント・クランツに四本のローソクを立て、一週ごとに、一本ずつローソクの灯をともして、クリスマスを迎える心の準備をしていきます。

聖書の最初のクリスマスの時、「彼らのいる余地がなかった」とあり、イエス様は歓迎されませんでした。今はどうでしょうか。人間の心は自分中心の色々の欲望でいっぱいで、せいぜいその「余地」を提供するのが、キリストを信じるという人々のしていることになっていないでしょうか。

余地とはどうでもいい場所です。空いている場所です。大事な場所、かけがえのない場所ではないのです。そういう所を少し空けるだけで、キリストを心に迎えている、信じていると思っていないでしょうか。もしその程度なら、都合が悪くなると、追い出してしまうことになりかねません。やはりわたしたちの心は自分中心なのです。

だから、一週目、最初のローソクの灯りをともして、優しい心を持つことができるように。二週目、二本のローソクの灯りをともして、丈夫な心を持つことができるように。三週目、三本のローソクの灯りをともして、忍耐強い心を持つことができるように。そして四週目、クリスマス礼拝の日に、四本目のローソクの灯りをともして、お祈りする心を持つことができるようにと、私たちは祈って、心の灯りをローソクにともしていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2017年11月26日

 

自分の偉大な行為によって生きることのできる人間はひとりもいないし、またそのような教会もひとつもない。人間も教会も、ただ神が行った偉大なわざ、すなわちイエス・キリストの十字架によってだけ、生きることができるのである。

そしてこのことは、人間が見えないものによって、すなわちこの世では認められず、隠されたままの行為によって生きなければならないということを意味する。すなわち人間は誤謬を見ながら真理を信じ、死を見ながら永遠の生命を信じるという行為によって生きなければならないのである。人間は見ることはできないが、神のわざと恵みを信じて生きるのである。「わたしのめぐみは、あなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12:9)。

これは、福音を信じる教会にとっても同じである。教会は断じて、自分のわざによって生きることはできないし、また自分の愛のわざによってすら生きることはできない。むしろ教会が生きるのは、自分たちが見ることではなく信じることによってである。教会は苦悩を見ながら救いを信じ、誤謬を見ながら神の真理を信じる。教会は福音に対する裏切りを見るが、神の真実を信じるのである。福音を信じる教会は、目に見える聖者の交わりでは決してない。むしろ一切の外見に逆らって、恵みを信じ、ただ恵みによってだけ生きる罪人の教会なのである。かつてルターは、「聖者でありたいと願う者は、教会から外に出よ」と述べた。罪人の教会こそが、恵みに生きる教会であり、これこそが信仰の教会なのである。

「このように、いつまでも存続するものは、信仰である」(Ⅰコリント13:13)。―なぜなら、信仰は神によって、ただ神によってのみ生きるからである。…    (ボンヘッファー『主のよき力に守られて』)

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2017年11月19日

 

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

(コリント人への第二の手紙4章18節)

 

聖書に偶像のことが書かれています(イザヤ44:9~)。金属・木・石などで造った像のことです。神や仏などの存在をかたどって造った像で、拝んだりするようなもののことです。つまり、偶像というのは、わたしたちが心の中で、こんな神様ならいいな、こんな形をしていて欲しいなと想像して、金属やき、石等で造ったもののことです。

モーセがシナイ山で、十戒をいただくための留守している間に、イスラエルの民は、金の牛を造って、神とした(出エジプト記32:1~6)という記事があります。人間は、見える像に安心するのです。わたしたちは、見えるものによって、心が動かされやすくなります。目立つもの、評判によっても心が動きます。そして何か頼れそうなものを求めます。それがお金であったり、学校や仕事であったりします。その頼れそうなものを、もっと強く求めるところに、神に代わるようなものができてしまいます。わたしたちはこのようにして、金の牛と同じようなものを、神として造ってしまうのです。

聖書の信仰は、わたしたちを創られた神様を信じるというものです。これがわたしたちの大切な信仰です。わたしたち人間が神を作り出すのではなくて、わたしたちを創られた神を信じるということです。この神様を宣べ伝えていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2017年11月12日

 

大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」(ルカによる福音書8章4~8節)

 

ある幼稚園の先生が、「一番幸せなことは良い大人と出会うことだと思います」と言っていました。上句の聖書の言葉で言えば「良い土地」というのは、こどもにとって良い大人に出会うことであるということだと思います。 今の若い世代の、幼稚園児、小学生、中学生、高校生の人たちのことを考える時に、困ったことだな、かわいそうだなと思ったり、どうしてこんなことが起こるのかと考える時に、本当に良い大人の人に出会ってほしいということを思います。そういうところにこそ良い土地があると思うからです。

イエス様は、「神様が蒔いてくださった種が良い土地で豊かに実を結ぶ」と言われました。神さまを信じる、イエス様を信じる、わたしは神さまのこどもになる、神さまの導きを信じる、そういうことが大切なのです。神さまが蒔いてくださった種がわたしたちの心の中で育ち、教会の中で育って成長していく、神さまからの種をいただいて、若い世代の人たちが大きく育って実を結ぶことができるように、ご一緒にお祈りし、神さまに礼拝をささげましょう。

                             (小川宏嗣)

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2017年11月5日

 

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

  ローマの信徒への手紙515

 

パウロは「苦難を誇る」と言いました。それは、自分の信仰によってすべてが思い通りにいくことを誇るのではありません。苦しみも悲しみもある中で、なお生きる力が与えられていることを誇ったのです。苦難の中で、いつもイエス様が自分と共に歩んでくださることがパウロの誇りでした。

「忍耐という言葉のもとの意味は、<そのもとに留まり続ける>、<重荷を投げ捨てないで、それを負う>ということである」(D.ボンヘッファーという言葉があります。苦難からの解放こそが救いだと思います。しかし聖書は、救いとは苦難に遭ってもそれに立ち向かう力を持つことだと語ります。

パウロはイエス様が共にいると信じることで力を得、苦難を何とかやり過ごしたり、乗り越える経験をしました。パウロは苦しみに遭うことが、神がいない証拠とは言いませんでした。苦難の中で神の愛が心に注がれていると言ったのです。神の愛が注がれることによって、人は生きていけるのです。        (小川宏嗣)

 

 

 

2017年10月28日

「わたしたちはかつて祭りを守る多くの人々と 共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起こして、わが魂をそそぎ出すのである。」(詩篇42篇4)

 

<神を呼び求める者は教会を呼び求める>

 

わたしはひとりである。自分が心を注ぎ出すことのできる人は、誰もいない。そこでわたしは、わたしの慕いあえぐ神の前で、心を注ぎ出す。誰ひとりとして聞いてくれるものがない状態にあって、わたしは苦悩を自分の心のうちに押さえこまず、むしろ自分の心を神に注ぎ出すのである。これはこれで、とても重要なことである。しかし孤独になればなるだけ、他のキリスト者と共に礼拝をささげ、共に祈り、共に讃美し、そのことによって神をほめたたえ、感謝をささげようとする渇望が、ますます激しくなる。そしてまたさまざまな祭りを共に守ることを強く望むようになる。わたしはこれらのことを心に描く。そして、これらのことに対する愛が、わたしのうちで大きくなっていく。

 神を呼び求める者は、イエス・キリストを呼び求め、イエス・キリストを呼び求める者は、教会を呼び求めるのである。・・・

(「ボンヘッファー説教」19356月2日)

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2017年10月22日

      召天者記念礼拝

「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

(コリントの信徒への手紙二418節)

 

ある方が、先に召されたご自身のご家族との関係について、「わたしたちはイエス様とつながっています」と言われました。その言葉が心に残りました。

イエス・キリストとの“つながり”は永遠のものです。生死を超えています。先に召された愛する家族がイエス様とつながっており、神様から命を与えられてこの地上を生きているこのわたしがイエス様とつながっているなら、故人とわたしはつながっているのです。

わたしたち人間は死を打ち破ることはできません。イエス様でさえ、死の力の前に無力でした。死は神と人、人と人とのつながりを断ち切るのです。しかし神様が、イエス様を死より起こしてくださいました。神様が手をさしのべて、神と人、人と人とのつながりを回復してくださったのです。一緒に歩む、共に生きる、互いに神様から命をいただいている、そのことを喜ぶために、神様はわたしたちに命を与えたのです。

もしわたしたちが、この命を神様を愛するために用いず、自分の利益を中心として生きてしまう時、神様とのつながりを断ち切ることになり、わたしたちは死んでいることになります。

しかし、イエス様を復活させた神の愛が、生死を越えてわたしたちの命を支え、愛が永遠に生きることを示してくださいました。この世で出会い、愛し合い、深いつながりを持った人々との縁は、神様の永遠の愛に生かされているのです。    (小川宏嗣)

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2017年10月15日

秋の特別集会

 

福岡教会の特別礼拝にお招き頂き、皆さまとご一緒に礼拝を守ることが出来て、大変感謝しております。4月に福岡を離れて、埼玉にある連盟・宣教部の働きにあたることとなり、不安と恐れを抱きながら、この半年、諸教会の働きと協力伝道の業に仕えさせて頂いております。

私は長崎で、牧師の家庭に生まれました。小さい頃から教会の交わりの中で育てられ、愛されてきました。また、小学3年の時に父を病で亡くしましたが、教会の方々が温かく見守ってくださり、悲しみや寂しさに明け暮れることもありませんでした。亡くなる直前、牧師であった父は「子たちよ、父なくして真の父を知れ」という言葉を残していたと聞いています。父を亡くす中で、真の父、つまり神を身近に感じるようにとの勧めでした。そして、この真の父のもとにある教会の交わりが、私にとっては家族のようでした。教会は、神の家族だったのです。

昨年4月、熊本で起きた地震を通じて、私は熊本に通い続けました。今年4月の埼玉への移動によって、こうした働きを志し半ばで終えることになりましたが、小川先生をはじめ、当時一緒に汗を流して下さっていた方々が、いまも関わりを続けてくださっていることに感謝しています。

教会が、また牧師が、あるいはキリスト者が、なぜこうした活動を行うのでしょうか。それは、神の家族を信じるからなのだと、私は思います。どのような人々も神に愛され、家族の一員として招かれている。だからこそ、たとえその相手がキリスト者であろうと無かろうと、教会の関係者であろうと無かろうと、教会は、悲しみや痛みを負った人々に寄り添うのです。神の前に分け隔ては無いし、また教会はその神の家族としての世界を信じるのです。今、私たちは分断の時代を生きています。今こそ、聖書の福音が私たちを新たにしてくれることを信じて、共に生きる神の家族として歩んでいきましょう。

 

(日本バプテスト連盟 宣教部長 松藤一作)

 

2017年10月8日

 

「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである…』」(ヨハネによる福音書9章3節)。

次週の主日は秋の特別礼拝です。ご奉仕いただく松藤一作先生(日本バプテスト連盟宣教部長)の為にお祈り致しましょう。

さて、わたしたちの準備は、この礼拝に誰かをさそうことです。友人・知人・家族をさそうのは、とても勇気がいることです。しかし、礼拝にさそうということは、イエス様のところに一緒に行くことでもあります。わたしたちの中にも、誰かのさそいによって、イエス様と出会い、イエス様のことを思う人となった経験があることでしょう。だから、わたしたちも臆せず、友人・知人・家族に声をかけられたらいいと思います。

わたしは以前、どうして、わたしだけこんなことで苦しまなければならないのか、と思う経験をしたことがあります。わたしが悪いのだろうか、親や、同僚に責任があるのではないだろうか、と考えたのです。

その時、「神の業がこの人に現れるためである」という聖書の言葉と出会い、身体がふるえる思いがしました。どうしてこんなことが、という思いと、イエス様の救いの奇蹟は、このようにしてわたしの身にも起こるのだろうかと思い、心がかるくなったように感じました。神様は、このように聖書の言葉をとおしてわたしに語ってくださったのです。見える、ということは、神様がわたしを愛していてくださる、ということに気づくことなのだ、ということを受け取りました。

 

この礼拝で、特別にイエス様の言葉を伝えたいと思います。そのためには、わたしたち自身が、み言葉に生き、生かされていることが大切です。それが伝道の出発点になるからです。(小川宏嗣)

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2017年10月1日

 

「イエスは...言われた。『見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神のみ心を行なう人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」

(マルコによる福音書3章33~34節)

 

私の母は脳に重い「障がい」を持つ人たちの施設で働いていた。わたしは母の仕事を嫌っていた。なぜそんな人たちの世話をするのか、理解しようとしなかった。偏見を持っていた。おしっこ、うんこまみれになる汚い、臭い仕事。母は高校の個人面談の時、仕事着のまま現れた。「どうして、もっとちゃんとした格好で来れないのか」と、母に食ってかかった。うんことおしっこの臭いがしみついているような気がしたから。

その後、わたしが看護師を目指して看護学校で学ぶことになった時、脳に重い「障がい」を持つ人たちが生活をする施設で実習をした。そこで一人の方と出会い、関わりをもち、その実習を通して、その方がかけがえのない存在であることを身をもって知った。母がどんな思いで、その仕事をはじめて、定年まで働き通したのか聞いたことはない。しかし改めて、自分の母にたくさんの支えと励ましを受けて、今日まで歩んで来ることが出来たか、そして母のうしろ姿を通して、様々なことを教えられてきたことを思う。

イエスは、「わたしの家族とは神の御心を行なう人です」と言った。神の御心を行なう人はみんな神の子どもであり、イエスの家族ということ。家族が真に愛し合う家族となっていくために必要なことは、「血のつながり」ではなく、神の愛。この神の愛を信じ、神の愛に生き、互いに愛し合う。これが、神の御心ではないか。神の御心を行なう人とは、互いに神によって創られた素敵な人間だ、大切な人間だということに気づく人のことだ。(小川宏嗣)

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2017年9月24日

 

「この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役ただずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとに行くために。おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。すべてを成し終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』と。(『最上のわざ』ヘルマン・ホイヴェルス神父)。

 

「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ」とありますが、教会には祈り祈られる関係があります。たとえ何もできないような状況であっても、祈ることが許されています。孤独となり、内にこもり、外との関係が失われているように見えても、神さまがわたしたちに働きかけていることを知っている、そして神様に祈ることを知っている、それは素晴らしいことであり、何という恵みでしょうか。

 

「老いの重荷は神の賜物」と言うのは簡単ではありません。しかし、人それぞれに与えられた重荷を神様が与えたこととして受け止めることは、その人の

生きる姿勢、また老いに対する向き合い方を変えてくれるに違いないと思いま

す。       (小川宏嗣)

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2017年9月17日

 

愛し愛されること  創めること  耐えること

 

7月18日、「望ましい生き方と人生の終え方」を提案、まさにそれを実践された日野原重明さん(聖路加国際病院名誉院長、文化勲章受章者)が、ご自宅で105歳の人生を全うし召天されました。

 

先生はクリスチャンとして、色々な陋習に断固戦いを挑まれ、脳卒中、心臓病など成人病と言われる病気は日常の習慣によって改善されると、現在使われている「生活習慣病」の名称を提案、日本で初めて人間ドックやホスピス病院を作られました。 また80歳で発病、93歳で亡くなられた奥様の介護をされつつ、つねにプラス思考で平和運動まで様々な活動をされました。

冒頭の言葉は、「新老人の会」の3のモットーです。この年齢になって、先生がこの3つのことを選ばれた深い意味、そしてこれを実行することの難しさを改めて考えさせられています。 また、先生は多くの名言を残されましたが、「私たちに与えられた恵みを数えてみれば、どんな逆境にあったとしても、受けている恵みの方が、与えているものよりも多いことに気付く。受けた恵みを、どこかで返そうと考えたいものである」、心に響く言葉です。                  (蓑原 善和)

 

国連では、65歳以上を老人としているが、実態にそぐわないとして、75歳以上の自立して生きる老人を「新老人」と名付け、2000年に「新老人の会」が発足した。九州の現在会員は約2,000名。

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2017年9月10日

 

見よ、わたしは、あなたとともにいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない創世記28:15

 

もう成人した自分のこどもたちとしてきた会話の中で、思い出すひとつの言葉があります。それは、わたし自身が何気なく使っていた「あとでね」、「また、あとで」という言葉です。

忙しさにかまけて、幼な子と言い交わした小さな約束を、わたしは何度破り続けてきただろうか、と振り返ることがあるのです。「相手は幼な子だから、わたしは大人だから、それに牧師という大切な働きをしているのだから、きっと事情がゆるされるのだ」、そう思っていたのだと思います。いや、大人になった今も、人に対して「あとでね」、「また、あとで」と事情がゆるしてくれることとして、いつも言い続けているのかも知れません。

しかし、幼な子は待つのです。そして、そこに小さな裏切りの世界があることを経験していくことになります。大人がする「あとでね」との約束は、やがて信用されない言葉となっていきます。神様は上句の言葉のように、約束したことは必ず果たすと言っています。目には見えませんが、神様はわたしたちと共にいて、いつも支え導いてくれることを証ししています。

 

もし、わたしたちが、「あとで」と約束することがあったら、かならず守る、ということを大切にしたいと思います。             

                          (小川宏嗣)

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2017年9月3日

 

新約聖書の中に、イエス・キリストによって、安息日に、手の萎えた人が癒される話があります(マルコによる福音書316節)。

 

わたしたちは、「なぜ、このようなことが起こったのか」、「奇跡を信じることができるか」、「イエスの奇跡の意味することは」等、このような解釈をしてしまいます。

 

その話に登場する人々も、イエスがこの人を癒すかどうかを見ていたとあります。イエスがしようとすることが、律法に違反するかどうかを見ていました。そのことが、良いのかどうかを見ていたのです。その人を見るのではなく、律法に違反したかどうか、という気持ちばかりで、手の萎えた人のことは全然見ていないのです。それは、上記のような解釈をしてしまう、わたしたちと同じであると言えるでしょう。病気が癒されたことをその人と一緒に喜ぶ気持ちがないのです。

 

わたしたちは人を見る時、いろいろな物を基準にして見ると思います。髪の毛の色、肌の色、偏差値の数字、どこの学校を出たか。だからこんな人だ。でもそのように、表面的なことだけで人を判断していると、その人の本質は見えなくなってしまいます。そのような人々の「かたくなな心」をイエスは「悲しんだ」とあります(同3:5)。「安息日はこうあるべきだ、教会はこうあるべきだ」と思うことで自分が安心でき、自分を正当化することができるかも知れません。でもそういう考えで、本当に人を見ることができないなら、大切な命が見えていないなら、それはただの「かたくなな心」でしかありません。

「なおってよかったね」というところから、どうして聖書を読み取ってこなかったのだろうか、と振り返らざるを得ません。聖書をとおして、イエスの思いと新しく出会っていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2017年8月27日

 

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。」(ガラテヤ人への手紙216節)。

 

信仰とは、神がわたしたちを守っていること、愛していること、罪をゆるしていること、それを信じること。でも、わたしたちは、自分の力で自分を守ろうとする。自分が守られていることが常に最優先で、自分が守られるためには、他人はどうなってもいい、他の人の苦しみは見ようとしない。

 

「信じる者だけが従順であり、従順な者だけが、信ずるということである」(ボンへッファー『キリストに従う』)という言葉がある。「信仰は行動で、行動は信仰です」ということ。イエス・キリストを信じることは、イエスに倣うこと、イエスを真似すること。でも、わたしはイエスじゃないし…と言い、出来ない、と言ってしまう。

 

 

イエスを信じることはイエスに従うこと、イエスに従うことはイエスを信じること。イエスの行動を真似ること。パウロは、「律法の行いによっては救われない」と言ったが、神の思いの詰まった律法を行わなくていいとは言わなかった。律法の実行によらないで義とされるのは、もはや律法を与えた神とは無関係に生きるようになるためではない。神の御心や神の求めとは無関係に生きるようになるためではない。神に背いた生活を安心してできるようになるためではない。それは「神に対して生きるため」(ガラテヤ2:19)。パウロは、神にしっかりと向き合い、神の思いを受け止めて生きるためと言った。信仰義認を律法を行わなくていいことと受け取るなら、それは間違だと思う。(小川宏嗣)

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2017年8月20日

 

「わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ、起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。」(使徒言行録26章14~16節)。

 神がすべてのものを創造したということは、この世界のすべては、その根底においてつながっているということです。それは、わたしと関係ないものなど、一つもないということです。自分が考えることや行うことすべてがイエス・キリストによって世界のあらゆるものとつながっておるのです。

 パウロはこのことを、イエスの語りかけの中で知りました。自分は正義だと信じ、反対者を追跡している最中に、「パウロよ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちを蹴れば、自分を傷つけるだけだよ」とのイエスの声を聞くのです。他人に対して抱いている憎悪や殺意が、実はイエスに向けられているものであり、ひいては自分自身に帰ってくるものであることを教えられたのです。イエスの愛とゆるしを信じたパウロは、他人に対して愛とゆるしへとつながって行きました。人に対して抱く思いや関係は、イエスに向けられたものであり、それはまた自分に帰ってきます。わたしたちは、今、他者に対してどのような思い・関係を持っているのか、問い直したいと思います。そして、人と人が互いに傷つけ合って生きているようね世界の中で、イエスの愛とゆるしを宣べ伝えて行きたいと思います。   (小川宏嗣)

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2017年8月13日

 父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」

   (ルカによる福音書23章34節)

この言葉が「提岩里(チェアム二)教会」に記されていました。20049月わたしは韓国・ソウル市郊外、京畿道華城市の小さな農村にある提岩里教会を訪ねました。

かつて韓国が日本から侵略を受けていた時代、日本の苛酷な弾圧と支配から独立を訴える 運動が全国に広がりました。「31独立運動」です。

1919419日、日本軍は提岩里教会に、その地方で独立運動の中心的な役割を果たしていたキリスト者を含めた住民23名(子どもを含む)を閉じ込め、銃と剣によって無差別に虐殺した後、石油をかけて焼き払ったのです。現在、そこに新しい教会と記念館が建てられ、二度と繰り返してはならない歴史を心に刻みつける場になっています。

わたしは展示物の説明を日本語で受け、日本軍の行なった過酷な弾圧と数々の過ちを聞き、胸が絞めつけられ、申し訳ないという思いと、何も知らなかったことを、ただ恥じるしかありませんでした。館内の壁には、「許しこそすれ、忘れる勿なかれ」とありました。

その旅の始め、仁川国際空港で、わたしはあるハルモニおばあちゃんに日本語で話しかけられました。ソウル市内に向うバスを探していた日本人旅行者のわたしに、彼女は、「このバスだよ、わたしも乗るんだよ」と教えて下さいました。彼女は女学校時代、強制的に日本語を習わされたのです。「わたしたちはね、辛い目にあったんだよ。悲しいことだったよ」。バスの座席に一緒に座ることになり、静かに話されました。また、ご自分がキリスト者であること、キリストによってゆるしているとも話されました。わたしは彼女に心揺さぶられ、自分もキリスト者であることや旅の目的を伝え、ソウルまでの1時間半、共に語り合ったのでした。安國で先にバスを降りるわたしに向かって、彼女は言いました。「宣教の旅になりますように!」。

平和を作り出すとは、やられたらやりかえすと憎しみ・敵意を心の中に抱き、他者に暴力を振るっていくことではありません。自分自身が行ってきた罪の現実と向き合うことはとてもつらいことですが、小さな出会いを通して、平和を作り出すことの第一歩は、自分の罪を認め、告白し、悔い改めていくことだと教えられています。         (小川宏嗣)

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2017年8月6日

 

広島に原爆が落とされてから72年が経ちました。戦争という行為が愚かであることは誰もが知っているはずですが、戦争はいつの時代にも果てることがありません。

 

これまでキリスト教会は世界の平和のためにどういう役割を果たしてきたのでしょうか。戦争に反対した多くのキリスト者がいる一方で、戦争に加担してきたキリスト者もいるのです。本来、平和の使者であるはずのキリスト教会ですが、戦争に加担した例は無数にあるのです。たとえそれが積極的な参戦でないにしても、その罪は認めなくてはならないと思います。自分自身が行ってきた罪の現実と向き合うことはとてもつらいことですが、平和を作り出すことの第一歩は自分の罪を認め、告白し、悔い改めていくことではないかと思います。

 

 

イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書59節)と言われました。平和を実現するためには、自分の心に平和をもっていなくてはなりません。そうでなければ、人に平和をあげることはできないのです。そしてこの平和は、イエス・キリストを信じることによって与えられる平和なのです。平和は何よりも、そこにゆるしと和解を必要とします。ご自分を十字架につけられて、ゆるすこと、和解することを教えらえたイエス様に従って、実現されていく平和です。どんなに状況が困難であっても、キリストはわたしたちの平和であることを、しっかりと覚えておきたいと思います。(小川宏嗣)

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2017年7月30日

 

それゆえ、信仰と、希望と、愛、

 この三つは、いつまでも残る。

その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一1313節)

 

20126月、あるキリスト教の高校・中学校の礼拝で故日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)の説教を聞きました。

上句の聖書は、日野原さんが10才で洗礼を受けた時、ご自身が朗読したもので、生涯を通してご自身の力となり、どんな困難な時も、この聖書の言葉によって乗り越えることが出来た、と話されました。

特に心に残ったのは、「愛は実践である」という言葉でした。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」(Ⅰコリント13:2)とあるように、「いくら信仰があっても、希望があっても、愛という実践がなければむなしい。だから、愛とは気持ちで表すだけではなく実践すること。東日本大震災で被災した方々のことをただ気の毒だと思うだけでなく、ボランティアでも、募金でもいい、何らかの参与をすること。行動なしに愛を表すことはできない」ということを、若い世代の一人ひとりに向かって熱っぽく、丁寧に語られたのです。

なぜ、愛とは実践することなのでしょう。それは、わたしたちが神様からたくさんのものをいただいているからです。何より、イエス様がわたしたちを愛するために、ご自分の体を献げて下さったからです。その愛にわたしたちが愛の実践をもって応えること、それが神様の思いであり、神様からいただいているわたしたちの使命だからです。

 

わたしは、あの時、日野原さんの真っ直ぐなお話しに勇気づけられ、生涯を通して生きる力となる聖書の言葉に聞いて生きて行こう、そう思わされたことを、今、大切な事として思い起こしています。(小川宏嗣)

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2017年7月23日

 

「かつてあったことは、これからもあり

 かつて起こったことは、これからも起こる。

 太陽の下、新しいものは何ひとつない。」

  (コへレトの言葉1章9節)

 

あなたは しあわせ ですか?

貴女は自由ですか?

貴女は健康ですか?死ぬことはどういうこと、恐怖ですか?

神から選ばれ、人は選びとっていきます。

生から約百年、わたしたちは召されて次の世界へ移っていきます。その保障の枠の中で自由奔放に生きつつ、いつもその自由から飛び出そうと考えています。自由の中から、不自由へと脱出しようとしています。そこで神からの離反、罪がおこってきます。罪の世で、又、次に罪をおかします。ますます神から離れていきます。神の許に帰る手だては何でしょう。

 

あなたがこの世で託されている使命、仕事は何ですか?その道の専門家であるあなたは、どう自分を表現して生きていることを喜びとしていますか?あなたの存在がどう他人に生かされていますか?あなたにしか出来ない生き方で、是非、」人を喜ばせてあげて下さい。あなたの存在は人を喜ばすことが出来ます。あなたの生きることは神の喜びでもあります。神の支配の許、確かに、わたしがわたしであり続けて生きていきましょう。

                      (下田昭)

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2017年7月16日

 

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」

(フィリピの信徒への手紙268節)。

 

先週の国会の閉会中審査を見ていたら、ある政府の偉い方が、「…わたしは事実に基づいて話しています」と話していました。その意味は、「その事実は真実です」、あるいは「その事実は本当です」ということだと思います。

しかし以前に、「事実というのは、出来事に意味付けをしたものであり、その意味付けは、その出来事に関与した人の立場によって異なってくるものである」という一文に触れたことがあり、事実とは出来事の解釈なのだということを教えられた経験があります。

 

物語『レ・ミゼラブル』の中で、燭台を盗んだジャン・バルジャンに、「それはあなたにあげたものです」と言うミリエル神父の言葉は、真実に人を生かすものでした。確かにジャン・バルジャンは燭台を盗みました。しかし、その事実を認めず、あなたにあげたのだとする関わる人の真実ということです。

 

事実が解釈ならば、その人を生かす解釈をしていきたいと思います。そこにキリスト教信仰の真実があるからです。イエス・キリストもこの真実に生きられた。真に人を生かすために十字架に至るまで従順に歩まれた。その真実を受け取っていきたいと思います。          (小川宏嗣)

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2017年7月9日

 

強い者は、強くない者の弱さを担いなさいローマの信徒への手紙151

 

この「担う」という言葉は「背負って運ぶ」という意味です。言い換えれば、弱い者と一緒になるということです。本当の強さとは、自分の強さを誇るのではなく、弱い者の重荷を共に背負い、自らも弱い者となることです。

次のような言葉があります。「弱い人に対しては弱い人のようになった…すべての人に対してすべてのものになった

         (Ⅰコリント9:22

わたしたちの社会は、多くの場合、強くなること、誰にも負けない力を持つことを目指し、弱い者を踏みつけてでも、自分がどれほど高くなれるか、立派であることができるかということを考えるのではないでしょうか。

信仰を持つとは、自由になることです。色んな束縛から解放されるのです。自由だからどんな人とも同じになれる。自由だからどこへでも、その人のところへ行くことが出来る。自分の正しさや立派さを威張るのではなくて、その人のところへ出かけて行き、同じところに立ち、その人と一緒に悩み、その人と一緒に苦しむ、それが福音にあずかること、神の喜びです。

イエス・キリストは弱い者の重荷を共に負うだけでなく、お前の神はどこにいるのかと、そしりを一身に受けるほど、自ら弱い者になりました。

しかしこれこそ、真の強さでした。イエスの強さは神からいただく希望にありました。神はすべてを知っておられる。神は必ず報いてくださる。この希望があればこそ、わたしたちは勇気をもって弱い者になれるはずです。                    (小川宏嗣)

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2017年7月2日

 

「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」

(マルコによる福音書1章16~18節)。

 

 イエス・キリストが最初に弟子として招いたのは漁師たちです。イエス様は神の愛を宣べ伝える働きのために、彼らを信頼し、「一緒にやろう!」と呼びかけます。その時、彼らは、「自分に出来るのか、もっとふさわしい人がいるのではないか」と迷ったかもしれません。しかし、彼らはその働きを引き受けます。それは、彼らがイエス様を信頼したからだと思います。自分を信頼し、期待を込めて呼びかけてくれたイエス様を信頼したのです。

 

 大変な仕事を引き受けていく時に大切なことは、それを「一緒にやろう!」と呼びかけてくれたその人を信頼することではないでしょうか。能力、才能の有無、時間の余裕のあるなし、得て、不得手などを乗り越えて、自分を信頼し、呼びかけてくれたその人に信頼して、一歩踏み出していく。

 

 ひとりでは出来ないと、苦しくなることがあります。その時は、遠慮なく他の人に助け ような欠けを補い合うという業の中に、必ず、神の恵みが与えられていく。 そのことに信頼して、この教会でイエス・キリストを、神の愛を宣べ伝える働きを一緒にしてみませんか。 (小川宏嗣)

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2017年6月18日

 

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

マルコによる福音書121011)。

 

わたしは神学校時代、故関谷定夫先生より、『神と人とに誠と愛を ~EB・ドージャー先生の生涯とその功績~ 』(齋藤剛毅著)という本をいただきました。ある日、関谷先生の研究室に本の整理のお手伝いに行った時に、先生が、「欲しい本があれば持って行っていいよ」とおっしゃったので、わたしは目に留まったその本を欲しいと願いました。EB・ドージャー先生は、恵泉教会時代に亡き父を信仰告白に導いてくださり、多摩川でバプテスマを授けてくださった恩師だったからです。

ところが先生は、「それはダメだよ、一冊しかないから」とくださろうとしません。わたしはどうしてもそれが欲しかったので、EB・ドージャー先生とのつながりを話すと、仕方ないという表情で、「いいよ」と言ってくださり、その本はわたしのものとなりました。実は、わたしの父も神学校時代に関谷先生から学んだひとりだったのです。

611日(月)前夜式で司式者は、聖書考古学の専門家である先生は、イエス時代の石からも聞こうとしていた、と語っていました。それを聞きながら、わたしは先生が、どんなものにも意味があるのだ、石ころにだってあるのだと語っているように思えました。人は、役に立たないと言い、石ころだと評価します。しかし、神様は、その石を用いて、家を建てるのです。たとえ石ころのような存在であっても、神様がどこに置いたかということで、新しい世界が始まるのです。だから石ころでいいのです。神様によって石ころが存在の意味を持つのです。そのようなことに気づかせていただいた故関谷定夫先生に心から感謝を申し上げたいと思います。

                         (小川宏嗣)

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2017年6月11日

 

…空の鳥をよく見なさい。…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。…

(マタイによる福音書62629節)

 

キリスト教会の牧師になって花に触れる機会が多くなりました。毎週主日の講壇には、生花が活けられていますし、葬儀や結婚式には必ず花が飾られているからです。先日行われた結婚式では、素敵な花に囲まれて司式を行なうことができました。

キリスト教的な花は、ゆり、バラということでしょうか。しかし、聖書の中でイエス様は、野の花という言い方で、キリスト教の教えをたとえています。この野の花とは、何の花でしょうか?わたしは、野の花とおっしゃるところに、イエス様が花がとても好きなお方だったのだと素朴に思っています。

そして、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」(マタイ6:28)と言われたイエス様の言葉の中に、変わらないものの中に真実はある、ということを考えることができると思います。

花は与えられたところで、たとえそこがどんな場所であっても、花を咲かせ、咲き続けます。わたしたち人間にも、継続していくこと、変わらないであり続けることの中に、人の努力だけではなく、目には見えない祈り、愛、そして神様の導きがなければならないと思います。それらがわたしたちの歩みを 助け、心を支えるからです。              (小川宏嗣) 

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2017年6月4日

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイによる福音書778節)。

 

故Y・Mさんは514日(日)、99年の生涯を終えて、神様のもとに召されました。その日は、復活のイエス様と出会い、神様に礼拝を献げる日、そして母の日でした。長女のKさんに見守られながら召されたYさんの最期は安らかなものだったと聞いて何か“ホッ”とするものを感じました。

 

故Yさんは81才で信仰告白に導かれ、バプテスマを受けました。実に、人は81才にして生まれ変わることができ、新しい出発をすることができるのだ、ということを、Yさんはわたしたちに教えくださったのです。

 

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…残り少ない人生を、神様を信じて、娘達とおなじ信仰に、進みたいと思ふ様になりました。知らずしらずの内に犯した罪も、救はれるのではないか、と存じ日曜ごとに礼拝で心洗はれるのは、とても良いことだと、信ずる様になりました。イエス様がわたしたちの罪のために十字架に、かかって死んでくださった、神はわたしたちを救ふために、イエス様をつかはされました。わたしも信仰に依って、新しい一歩を踏みだしたいと、思ひます。感謝してイエス様の弟子になろうと決心を致しました。(1998621日『信仰告白』Y.M81才)

 

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故Yさんが生を受けて99年、世は移り、時代は変わりました。しかし、Yさんが、求め続けたものは、決して変わることがなかったのではと思います。

 

このようなことを学ぶことができるのですから、わたしは信仰の先輩が多くいらっしゃる教会で共に歩ませていただいていることを心より幸せに思います。(小川宏嗣)

 

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2017年5月28日

 

【転入会の信仰告白③】(先週の続き)

神様への感謝の応答として、教会の役員を担いました。神様から与えられた大きな恵みに対して精一杯の小さな一歩だったのにも関わらず、主はこのチャレンジに対しても、分不相応な恵みを与えてくれました。喜ぶこと愛すること、御霊の実を味わいました。ある時、世の終わりについてのメッセージを聞いて、明日イエス様が来られるとしたら、今私はどう生きるのかと問われたのです。イエス様が来られるとき、その日がいつか分からないけれども、私は主に仕えていたいと、思うようになりました。そして主に祈りました。あなたの御心を教えてください。フルタイムでの献身でしょうか、もしそうであるならば、み言葉を下さいと。すると、折に触れ、語られたみ言葉が、イザヤ書43113でした。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」私はあなたの名前を呼んでいる!呼ばれた!御言葉の確信が与えられてから、また一歩ずつチャレンジしてきました。周りの人々に、献身の思いを伝えました。

そして、昨年、西南学院大学神学部に入学しました。1年目の学びは砕かれることでした。先ほどの数式を用いるならば、私は100ではありませんでした。もっと砕かれる必要がある、0.1にしか過ぎない自分なんだと思わされた1年でした。

昨年6月に祖父を亡くし、7月に母を亡くし、12月に教会の友人を亡くし、心も体も崩されていきました。親しい人間の死を通して、私は神様に躓きました。神様になんでと問いました。そしてどんな答えでも受け取ることができないとすら祈りました。命に代わるものが無いからです。同時に自分を責めました。もっと出来ることがあったじゃないか。そんな中でコヘレトの言葉を開きました。314『そのわたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。』私には、神様が責任を受け取ったように思ったのです。これは神の計画、神の業であると。悲しいけれども、神様の出来事なのかと、自分を責める思いから解放されました。主の導きは不思議です。何にも出来ない自分に向き合わされた一年でした。それでもなお、主は共におり、私を愛し、名前を呼ばれる。同じように、主は一人ひとりの名前を呼び、一人ひとりを愛されていると確信しています。これから福岡バプテスト教会に集うみなさんと共に、主を礼拝していきたいと願います。どうぞよろしくお願いします。栄光を主にお返しします。ハレルヤ

 

201749日S.T)

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2017年5月21日

 

【転入会の信仰告白②】(先週続き)

 信仰の面での転機は青年大会の実行委員になったことがあげられます。一年を通して準備をしていくのですが、その一年を通して祈りが段階的に変化してきました。ある時、信仰の友と祈りあう中で、私の心が満たされていないのは自分自身の罪が分かっていないからだと気づかされました。それから、私の罪を私に分かる形で教えてくださいと祈るようになりました。ある日の礼拝において、私は大会のためにどれだけ働いているきという観点から、スタッフの一人であるAさんを裁いている事に気づきました。居なければいいのにとすら思ったのです。その瞬間、主の怒りを感じました。神様から問われたのは、もし神様が何か計画を持った時に、誰を用いてもその計画が成ることを信じるか、ということでした。「はい、信じます。」と答えました。では、何故誇っているのか。1+∞(むげん)=∞だし、100+∞=∞なんです。何故誇るのかと。

 100が1をいらないって言うことは、∞から見たら100もいらないのと同じことなのです。私がAさんをいらないとすることは、神が私をいらないとすることと同じだったのです。まさにローマ署2:1の箇所です。『だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。』私はこの罪によって神様から殺される殺されたとすら思いました。そして初めて「神様私を憐れんでください、赦して下さい」と悔い改めました。その瞬間、私の罪のためにじゅうじかにかかったのだ、という教会で使い古されたこのフレーズが自分の事柄となりました。そこに自分の義はなく、ただただ神様の憐みゆえに赦されたことを、神様の愛で満たされていくことを体験しました。私は本当に主が今も生きていることに驚きました。そして主が私を愛して下さっているっことに驚きました。(次週に続く)

                    (2017年4月9日 S.T)

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2017年5月14日

 

 

今日は転入会の証として、自己紹介と献身に至るまでの経緯、そして西南学院神学部での一年目を振り返りつつ、神様の事を証したいと思います。

 

私が教会に初めて行ったのは、赤ん坊の時でした。

母に連れられて教会に通いました。

バプテスマを受けたきっかけは、中学生の時に夏のキャンプに参加し、その時ローマ書10:10節のみ言葉「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」この招きから、イエスを主であると信じていたためバプテスマを受ける決心をしました。

その後も、毎週の礼拝、毎年のキャンプに教会から送り出され、その時その時に必要な糧が与えられてきました。しかし、日常の日々は生きづらくて仕方ありませんでした。神様を知っていても、み言葉を聞いていても、真面目に教会生活を送っていたかったため、神さまに迷惑をかけることを恐れていました。そして心の奥底では、私は神様を死刑にするほどの罪を犯していない、そんな風に考えていました。

そのような中で、高専と呼ばれる工業系の学校を卒業し、2010年4月に自動車部品制作を行う中小企業に就職。その一年後2011年3月11日東日本大震災が起きました。私が住んでいた地域は震度5強の揺れで、立っていられないほどでした。電線がバチバチと火花を散らしながらぶつかり合い、この世の終わりは間近に迫っていることを強く認識させられました。会社も自身の被害が出たもののなんとか守られ仕事を継続することが出来ました。(次週に続く)。

                 (2017年4月9日 S.T)

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2017年5月7日

 

あなたがたの中に、魚を欲しがるこどもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか

(ルカによる福音書111112

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大きなことを成し遂げるために 力を与えてほしいと神に求めたのに 謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった/偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことをするように 病気を賜わった/幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった。/求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。(ニューヨーク大学のリハビリーテーション研究所の壁にある詩)

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作者が思わぬ病気か怪我をして、自分の欲したことが成し遂げられず、苦しみ、その苦しみの挙句、この詩が生まれてきたそうです。

魚を願うこどもに、魚をくださらないかも知れないが、決してをお与えにはならない。を求めるこどもに、決してさそりをお与えにはならないという神への信頼が必要です。人間は苦しい時しか、神の存在を思い起こさないものです。何もかもうまくいっていると、つい自分の力でしているのだと勘違いしてしまいます。だからこそ、そのような人間にとって祈ることが大切であり、必要なのです。祈りとは神のために必要なことではなく、わたしたちの生きる姿勢として必要なのです。           

                           (小川宏嗣)

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2017年4月30日

 

転入会の信仰告白②(先週の続き)

 

20112月ごろ長年、姉夫婦にお世話になっていた母から私と一緒に福岡で暮らしたいと連絡がありました。一人暮らしの私が気がかりだったのでしょう。母の願いに添うため20115月に福岡で母との生活が始まりました。そして母と日曜日には一緒に礼拝に行きました。皆さんと話している母は嬉しそうでした。少しずつ母の体も弱り礼拝に行くことも難しくなりました。そんな母の元に何回も小川先生ご夫妻や教会の方々が訪ねて下さりその時は本当に元気になり嬉しそうでした。とても感謝していました。しかしその母は昨年716日に天に召されました。母のいなくなった福岡での生活は必要が無くなったわけです。大阪、または横浜のどちらかに住まいを移そうと思っていました。私にはそれぞれ計画、目的もありましたが一人になると時々母との事が思い出されました。私自身は充実した思いだったのですが母は88歳から93歳までの5年間満足だったと思っていただろうか。また母に対してもっとすることが有ったのではないかと思う事が度々ありました。ある日の事、母が召される四か月前、母は教会に行きたい、教会に行きたい、いつになったら教会に行けるだろうかと度々申していました。しかし母は教会に行くことは叶いませんでした。母はこの世にはいませんが母の思いは私の中に生きていました。私が母の後をついで福岡の地で信仰生活を送ることが私の今成すことだと思いました。神様は、また素晴らしいご計画を立てて下さっていたのです。私が横浜に居た時、熱心に教会に行くようにと言ったのはこのことではないかと思われました。私は神様に導かれ青葉教会から福岡教会に転入会する決心をしました。2011424日に受けたバプテスマ、そして転入会の証をさせていただいている2017416日どちらもイースターです。神様のご配慮を感謝します。ゆるぎない信仰生活と皆様との良き交わりが出来る事を信仰によって確信しています。これからの福岡での生活を神様にすべてお委ねし感謝して転入会するにあたっての証とさせていただきます。          

                (2017416日 T.S)

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2017年4月23日

 

転入会の信仰告白①】

私は2011424日横浜の青葉教会に於いて当時の牧師である小田先生によってバプテスマを受けました。特に悩みもなく困難に陥っている訳でもありませんでしたが、クリスチャンになっている福岡の母と姉が一人暮らしをしていた私の事を心配し、特に母から教会に行くようにと熱心に勧められていました。いつも母に心配をかけてきた事もあり親孝行のつもりで近くの青葉教会を訪ねました。小田先生にお会いし仕事の都合で夜の祈祷会に出席する事になりました。とにかく教会に行くのは生まれて初めての事なので聖書や祈りの事に随分戸惑いましたが、ある日、姉から電話があり、つい教会に行っていることを話してしまいました。すると、すぐに知人たちから良かったねと電話をもらい引っ込みがつかなくなりましたが何となく教会に行っていた事も事実です。2010年のバイク事故によって足を骨折し歩けない状態になりました。この事が私を信仰に目覚めさせた始まりだと言っても過言ではありません。小田先生は毎日励ましと祈りに来られ毎週祈祷会の日には、先生自ら車で送迎をして頂き色々と気にかけて下さいました。先生は、きっと教会の方々にも同じように接しておられるに違いないと思いました。後日会員の方から先生は心臓が悪くペースメーカーを入れておられることを聞き感謝に絶えませんでした。先生と色んな話をして行く内に人生を神に捧げておられ祈りを通して歩んで来られた生き方に感動を覚えるようになりました。先生が信じている神様とは、イエス様とはどのようなお方なのか素直な気持ちでもっと聖書の事、祈りの事を学びたいと思うようになりました。如何に神様の存在を信じる事なく神に背き私の人生に誤りが有ったことでしょうか。私の過ちを悔い改め神様の御子イエスキリストを救い主として、受け入れました。キリストイエスと共に葬られそのキリストを死から復活させた神を信じます。私の骨折が小田先生を通してイエス様との出会いが神様のご計画の中に整えられていた恵みを感謝します(次週に続く)。

2017416日 T.S)

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2017年4月9日

 

…あの方は死者の中から復活された。

そしてあなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。…

マタイによる福音書287

ガリラヤとはイエスと弟子たちが出会い、一緒に親しく生活した場所です。

弟子たちにとっては、現実の生活の場所です。イエスは弟子たちに、「ガリラヤに、あなたたちは帰りなさい、わたしが先に行っているから」と言われました。

ところが、イエスが捕らえられ、十字架に架かった時、弟子たちは恐くて、みんな逃げました。イエスが十字架で死なれた後も、恐くて、外に出れなくて、みんなで集まって隠れていました。もし外に出て見つかったら、自分たちもあのイエスの弟子ということで、処刑されてしまう。そんな恐れの中にいました。だから、ガリラヤ、あなたたちの現実の生活の場所に戻れと言われても、この時、弟子たちには出来なかったのです。

でも、イエスは弟子たちの恐れを取り除くように言われます。「心配することはない、わたしが先に行っているのだから、あなたたちの現実の生活の場所に帰りなさい」。  

わたしたちにも行こうと思ってもなかなか行けないでいるガリラヤが、戻ろうと思っても躊躇してしまっているガリラヤがあるかもしれません。イエスはそのガリラヤに、「わたしは先に行っているから、恐れないで、そこに行きなさい」と招いておられます。

イエスはいつもわたしの先を歩いていてくださる。そこでわたしを待っていてくださる。だから、勇気を出して、一歩踏み出して行きましょう

                          (小川宏嗣)

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2017年4月2日

 

「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが〝霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか...あれほどの体験をしたのは無駄だったのですか..」

(ガラテヤの信徒への手紙3章2~4)。

 

「人間はすべて、『経験を持っている』...、ある人にとって、その経験の中にある一部分が、特に貴重なものとして固定し、その後の、その人のすべての行動を支配するようになる。経験の中のあるものが過去的なものそれになったままで、現在に働きかけてくる。それを体験という。それに対し経験の内容が、絶えず新しいものによってこわされて、新しいものとして成立し直していくのが経験。経験は根本的に、未来に向かって人間の存在が動いて行く。一方体験というのは、経験が過去のある一つの特定の時点に凝固したようになってしまうこと。...どんなに深い経験でも、そこに凝固してしまうと、これは体験になってしまう、...一種の経験の過去化。過去化してしまっては、経験は未来へ向かって開かれているという意味がなくなってしまう。本当の経験というのは...絶えず、そこに新しい出来事が起こり、それを絶えず虚心坦懐(きょしんたんかい)に認めて、自分の中にその成果が蓄積されていく。...あくまで未来へ向かって開かれる。...つまりまったく新しいものを絶えず受け入れる用意ができているということ。それが経験ということの本当の深い意味だ。」(森有正「生きることと考えること」)。

 新年度が始まりました。イエス・キリストの福音は過去に留まらず、未来を指し示します。聖書は歴史は必ず新しくなり、人は必ず変り得るという、限りない神の可能性を語ります。わたしたちは、これまでの経験を体験におわらせず、本当の経験に深めていくことができるでしょうか。

 何をすべきなのか、何をすべきではないのか、それを見分ける英知を与えてくださいと神に祈りつつ歩んでいきたいと思います。

                       (小川宏嗣)

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2017年3月26日

 

「…恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。…」

      (マタイによる福音書2856)。

 

すべての命が躍動する春を迎えようとしています。先週より西公園や舞鶴公園の桜は美しい花を咲かせ始めました。この春、新入園、新入学や就職する若い世代の一人ひとりも新しい出発を待ち望んでいます。わたしたち教会にとっても4月より年度が変わり、新しい目標に向かって歩み出す時となりました。この時節はまさに命の始まりの時なのです。

 

しかし、桜のつぼみは前年の夏より作られ、厳しい冬の寒さの中で、すでに新しい芽は育まれていたのです。環境や目標が新しくなった時、わたしたちは自分の命が新しくされたことを感じますが、実は、命を生み出す準備はわたしたちが気づく前に、すでに始められていたのです。わたしたちには感じることができないだけなのです。

 

イエス様の弟子たちが失望の中で身をかがめ、暗闇の中で涙を流していた時に、すでに神様は、イエス様の復活の準備をして下さっていました。

 

 

マリアや女性たちが墓に行ったのは夜明け前でしたが、イエス様は墓にはおられず、すでに復活されていました。わたしたちが失敗や恐れの中にある時も、神様はすでに復活の命を用意して下さっているのです。イエス様の復活の命を信じ希望をもって新しい出発を致しましょう。(小川宏嗣)

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2017年3月19日

 

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。かれらもわたしたちの内にいるようにしてください。…」(ヨハネによる福音書1721節)

 

2011311日の東日本大震災から6年が経ちました。先日の311日は熊本震災支援「ワクワクカフェ」を益城町・馬水東道仮設団地で行ないました。熊本地震で被災され仮設住宅で生活をしているお一人おひとりがこれまで抱えてこられた思いを受け止めながら、東日本大震災で被災されたお一人おひとりのことを覚えて午後246分に黙祷を献げました。

わたし自身は、被災されたお一人おひとりのことを忘れないために祈り続けてきただろうか、お一人おひとりとつながり続けてきただろうか、そう自分に問いながら祈りを献げました。

馬水東道仮設団地でカフェを行なうきっかけになったのは、この団地の入居日に合わせて、わたしたちが食器提供を行なったことを、団地の自治会の副会長さんが覚えていてくださったことからです。この小さな行為を仮設団地の方々が覚えていてくださり、喜んでくださっていた。そのことを知った時に、とても嬉しく思い、もっとお互いにことを喜べる関係になりたい、つながらせていただきたい、そう思わされ、カフェが始まりました。

副会長さんのご自宅は倒壊したままで、いつ行われるとも分からない公費解体工事を待ち続けておられます。しかしそれでもなお、「今年は復興の年です。新しい出発の年です」と言われる副会長さんの言葉が深く心に響きます。 

これからも、被災地で出会うお一人おひとりにつながらせていただき、互いに励まし合い、支え合う歩みをさせていただきたいと思います。

                           (小川宏嗣)

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2017年3月12日

 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

  (ヨハネによる福音書155節)

 

「信仰生活には根が必要である」(ある恩師の言葉)。これは、わたしがみ言葉と出会っていなければ、わたしがみ言葉に生き、生かされていなければ、いざという時、揺さぶられて信仰生活から離れてしまう。だから根が必要だ、引っ張っても根づいた信仰が必要だということです。

教会生活、信仰生活が、時に、厳しい心構えや枠組みのようにとらえられたり、あるいは、逆に、なごやかで、いい気分の、自分の心を満たしてくれるようなものにとらえられることがあります。

しかし、そうではなくて、このわたしがみ言葉によって助けられた、さばかれた、という信仰の根が必要なのです。み言葉との出会いによってこのわたしが罪から解放されて恵みを受けた、それが信仰の出発点です。

この恵みのもたらす人生の確かさ、明るさ、喜びがあります。わたしの中に恵みの確かさが根づいていなければ、わたし自身が恵みに生かされていなければ、真にキリストの優しさを伝えることは出来ません。

激しい嵐にさらされ、揺さぶられながら、種が大地にますます深く根をおろしていくように、信仰の根が深くおりていくことによって、地上では、高く幹が育ち、枝を張り、花が咲き、実を結ぶことができます。

神が語りかけ、み言葉が与えられる時、人は自らの足で立つことが出来ます。

真の人間になるのです。そのようなみ言葉を通して神との出会いが必要です。

                           (小川宏嗣)

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2017年3月5日

 

キリストは死者の中から復活した、…死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの  宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。…あなたがたは今もなお罪の中にあることになります      (Ⅰコリント151219節)

本日、主日礼拝の中でMさんが信仰告白し、イエス様からバプテスマを受け、キリスト者として新しい出発をされます。Mさんをこの教会に招き、信仰告白に導いて下さった主なる神様に心より感謝致します。また、Mさんのために祈り、支えてくださった教会のお一人おひとりに重ねて感謝致します。

人は、どのようにして変えられるのでしょうか。パウロという人は、「十字架の死が、イエス・キリストがいなければ、キリストの復活はなく、キリストの復活がなければ、わたしたちの救いはなかった」と言いましたⅠコリント15:1219

イエス・キリストは、ご自分を十字架につけることによって、人を変えて行こうとされました。十字架の上で、ご自分を十字架につけてしまった人たちに向かって、「父よ、彼らをおゆるしください」(ルカ23:34と言われます。呪っても当たり前なのに、「ゆるしてください」と祈られたのです。

このイエスさまに、聖書において出会って、「イエス・キリストは救い主です」という信仰告白をできる者に変えられたいと思います。

 

イエスさまを頭で信じるのではなく、生活で信じるのです。イエスさまの言葉に従う生活が必ず復活の希望を持たせます。この復活を信じる信仰が聖書の信仰であり、わたしたち教会の信仰です。             (小川宏嗣)

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2017年2月26日

 

「主があなたがたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」(民数記62426節)。

 

人生の旅立ちを目の前にした若い世代の一人ひとりに一つの言葉を贈りたいと思います。それは「アイリッシュ・ブレッシング(Irish Blessings)」と言ってアイルランドでよく祈られている祝福の祈りです。新しい出発の上に主の祝福を皆さんと共に祈りたいと思います。(小川宏嗣)

 

 

 

 

愛と微笑みがあなたの日々を照らしますように、

あなたのこころと家庭を温かく照らしますように。

どのような所に行っても、信仰篤き良き友が与えられますように。

平和と祝福があなたを喜びに満たし、いつまでも続きますように。

繰り返される四季の移ろいがあなたとあなたにつながる人々に、

最良のものをもたらしてくれますように。アーメン。

 

私たちの前に歩むべき道が常に開かれますように祈ります。

まるで風が背中を優しく押してくれるように、

太陽が顔を暖かく照らしてくれるように、

雨が田畑をしとしとと潤してくれるように、

そしてまた会う日まで、

慈しみの神が私たちをしっかりとそのみ手のうちに置いて下さって

 

私たちに平安を下さいますように。アーメン。

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2017年2月19日

 

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。…あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…」

(ヨハネによる福音書151516

 

わたしは時々、真実の友がいてくれたらなあと思うことがあります。牧師という働きをとおして、これまで多くの知人に会ってきましたと言えるのですが、その中で友人と呼べる人がいたかと問われると、何とも心もとない思いです。

わたしたち人間は、真実の友を常に待ち望み、その出会いを求める心を持っているのではないでしょうか。友と呼べる存在が、どんなに大切で、深い意味を持ち、それなしでは生きられないほどであるかを考えさせられます。

わたしたちは、そのような真実の友をどこに見い出すことができるのでしょうか。イエス・キリストはわたしたちに、「あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしは、あなたがたを僕とは呼ばない。」(ヨハネ15:1415)と言われました。

「いつくしみ深き/友なるイエスは/変わらぬ愛もて/導きたもう/世の友われらを/棄て去る時も/祈りに応えて/労わりたまわん」(新生讃美歌431「いつくしみ深き」)。

わたしたちは、人間に対して変わらないものを求めるのではなく、この世界で決して変わらないものがあるということを覚えて歩みたいと思います。このイエス・キリストが今日もわたしたちを招いてくださっています。

                          (小川宏嗣)

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2017年2月12日

 

自分の持ちものを与える時は、少ししか与えていないものだ。

自分自身を与えるとき、その時こそ真に与えているのだ。

なぜなら持ちものとは明日の必要を恐れて

しまっておくものにすぎないではないか。

 

多くを持ちながら少しだけ与える者がある。

― それは人にみとめられるためで、

その隠れた願いが、施しを不健全なものにする。

少しだけ持ちながら、全部を与える者がある。

彼らは生命と生命の恵みを信じているから、

その金庫が空になることはない。

よろこびをもって与える者がいる。

彼らにはそのよろこびが報いなのだ。

痛みをもって与える者がある。

彼らには痛みが洗礼となる。

 

与えるとき痛みもおぼえず、よろこびも求めず、

徳も意識しない者がある。

それは彼方の谷で てんにんかの花が

芳香(かおり)を大気に放つにも似ている。

彼らの手を通して神は語り、彼らの眼の背後(うしろ)から、

神は大地に向かって微笑(ほほえ)みたもう。

 

(神谷美恵子『カリール・ジプランの詩』より「与えることについて」)

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2017年2月5日

 

「…主が言われた。『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は  弱いところに完全にあらわれる。』それだから、キリストの力がわたしに宿る   ように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」   

     (コリント人への手紙 129節)

 

私は常々、キリスト教会が地域にどのように受け入れられているのだろうか、また同時に、教会が地域に対して自分たちの弱さをさらけ出すことが出来たらよいのではないかと考えることがあります。なぜなら、聖書の中でイエス様は飢えていたことも あるし、疲れを覚えたとも書かれています。ザアカイの家で食事をさせてもらったり、一晩泊めてもらったりもしているからです。

 しかし、私たちの教会はどうでしょうか。教会が地域の人々から何かを必要としたり、地域の人々から与えてもらったりしたことがないかのような印象を与えてはいないでしょうか。教会がもっと人間と同じ高さになって、自分たちの弱さを隠さずに、自分たちが全てを知っている、自分たちが何でもできるというわけではなく、自分たちも 地域に対して問いを発するようになれたらと思うのです。

 

 それは私たち教会が、この地域の人たちに対して、「自分たちに何を期待しますか」と問い続けること、そして地域の中で、弱り果て、途方に暮れている一人に語る言葉に真剣に耳を傾け続けることだと思います。                         (小川 宏嗣)

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2017年1月29日

 

「わたしはかつて祭りを守る多くの人々と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって神の家に入り、ひれ伏した。今これらのことを思い起こして、わが心をそそぎ出すのである。」(詩編424)

 

私はひとりである。自分が心を注ぎ出すことのできる人は、誰もいない。そこで私は、私の慕いあえぐ神の前で、心を注ぎ出す。誰ひとりとして聞いてくれる者がない状態にあって、私は苦悩を自分の心のうちに押さえこまず、むしろ自分の心を神にそそぎ出すのである。これはこれで、とても重要なことである。

しかし孤独になればなるだけ、私のうちで、他のキリスト者との交わりを求める叫びが強くなる。孤独になればなるだけ、他のキリスト者と共に礼拝をささげ、共に祈り、共に讃美し、そのことによって神をほめたたえ、感謝をささげようとする渇望が、ますます激しくなる。そしてまたさまざまな祭りを共に守ることを強く望むようになる。私はこれらのことを心に思い描く。そして、これらのことに対する愛が、私のうちで大きくなっていく。神を呼び求める者は、イエス・キリストを呼び求め、イエス・キリストを呼び求める者は、教会を呼び求めるのである。

 

聖霊の神よ。信仰と祈りにおいて共に交わりをもつ兄弟を与えてください。私に課せられているすべてのものを担うことのできる兄弟を与えてください。あなたの教会の中に、あなたのみ言葉のもとに、あなたの聖なる食卓のもとに、私を導いてください。アーメン。

           (D.ボンヘッファー『説教』193562日)

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2017年1月22日

 

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一51618節)。

 

協力伝道週間にあたり、この度、福岡教会・小川先生との交換講壇の実現は、私ども壱岐教会にとりましては特別な喜びです。福岡教会はかつての母教会、また、廣島先生の時代には2年もの間、大変なお世話にもなってきました。毎年のクリスマスカードにも励まされてきました。感謝しております。そして今回、福岡地方連合の福岡教会の牧師先生が来島、礼拝説教を下さいますことはそれなりの大事で、今日、壱岐教会では皆、期待し、楽しみつつも、そわそわしているのではないかと思います。

私個人にとりましても福岡教会は特別な教会です。祖母が所属していた教会です。今は福岡教会の納骨堂にお骨となって収められております、故・長尾アキの三男の次男が私です。祖母が若かった頃の教会生活の様子を少し聞いたこともあります。当時の神学生は「貧学生」などとも言われ、皆、お腹を空かせていたそうで、家に遊びに来た神学生に食べさせたこともしばしばあったとのこと。また、告別式の時に初めて知ったのですが、かつて西新の商店街に面していた自宅でバルトの読書会をしていたこともあるとのことだったと記憶しています。

 

連盟326の教会伝道所の日々の伝道の働きが祝されることを心より祈ります。各個教会伝道所の毎週の礼拝が充実し、御言の養いが豊かになされ、そこに連なる一人一人がクリスチャンとして生き生きと日々を歩む、その総和が、日本バプテスト連盟の伝道の活力だと私は考えております。壱岐教会、そして私自身も、この協力伝道に貢献的に関わる教会・クリスチャンでありたいと願っております。     (壱岐キリスト教会 牧師 長尾知明)

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2017年1月15日

 

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟 アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、 『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。2人はすぐに網を捨てて従った」          

マルコによる福音書11617

イエス・キリストについて行った弟子たちに漁師がいました。彼らは、これまでしたことのない働きを始めます。それは、イエスに従って、神の国のことを伝える働きでした。

イエスに従うということは、自分の得意なことを、イエスと一緒に続けていく、ということではなくて、できるかどうか心配だけれども、神の喜ばれることをして みよう、ということです。

私は小学生の頃から、大きくなったら体育の先生になろうと思っていました。しかし、大学受験の失敗、マグロ漁船の漁師になり、福祉・医療の世界に導かれ、その後、私にだけ聞こえる声で、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招いて下さいました。

 漁師たちはすぐに、網を捨てて従いました。私の網は、体育の教師になること、漁師、看護師なることだったかもしれませんが、その網を置いて、今、牧師という働きをしています。

神様は、神様がご計画しているその働きのために、私の人生をかえられるということがあります。また、今まで出来なかったことも、出来るようになるように私を変えてくださるのです。私たちもイエスに招かれています。その招きに、勇気を出して一歩踏み出してみませんか。                 (小川宏嗣)

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2017年1月8日

 

「…律法をすべて忠実に守り…そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたはその行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア記178節)。

 

新しい年を迎え、新しい出発をした私たちに聖書は語ります。「あなたがたは、どこでも、どんな環境の中でも、どのような難しい立場に立たされても、あなたがたは栄える」と。

しかし、現実の私たちは、行くところはどこでも栄えるどころか、行くところどこででも失敗ばかりだ、という経験をしているかも知れません。

この栄えるという言葉には、成功するという意味がありますが、時と場所にふさわしく行動することができるという意味もあります。栄えることが結果的に豊かになるとか、すべてうまくいく、ということであるよりは、どういう状況においても何をなすべきか、何がなすべき正しいことであるかを判断できて、またその判断に従って行動(生きること)できること、それが栄えることの本当の意味なのです。

年の初めに、私たちには様々な思いや願いがあります。しかし、まず第一に、その思いを神さまに向けること、神さまの御心に向け、私たち一人ひとりに対する神さまの御心が何であるかを知ることが何よりも大切なことであるかを思います。それは、言うまでもなく、聖書から聞くことです。

神さまは聖書をとおして、私たちに語りかけてくださるお方であるということを信じて祈っていきましょう。               

                            (小川宏嗣)

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2017年1月1日

 

「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ。わたしは新しい事をなす。

やがてそれは起こる、あなたがたは

それを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」

(イザヤ諸3章18~19節)

 

明けましておめでとうございます。新しい年が希望に満ちた祝福の年でありますように、平和であることを心よりお祈り申し上げます。主なる神様は、「新しいことをなす」と言われています。

それは荒野に道を設けるということです。神様は道を設けられるのは平野にではなく荒野です。その道は。私たちにとっては、できれば避けたい道、

遠りしたい道です。十字架の道といえるでしょう。

しかし、神さまが設けられる道は、必ず神さまの導きと力をいただいてつくられていく道です。私たちが、この信頼を神様に持つとき、どんな困難があったとしても、その道をつくる働きは、私たちがチャレンジすべき、ふさわしいものであるのです。2017年は、かつて経験したことのないような多くの事にぶつかるかもしれません。しかし、荒野の道を歩む事によってしか、イエス・キリストの十字架の死の向うにある復活を真に経験することはできないのです。

主が備えてくださる道を、ゆっくりでいい、しかし確実に、希望をもって前進したいと思います。                   (小川宏嗣)

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