<シリーズ>教会からのメッセージ(週報巻頭言)

 2022年5月15日

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねる。」(使徒言行録2032節)。  

欧米の別れの挨拶の言葉には、信仰的な意味、祈りが込められています。例えば、「アデュー」(フランス語)、「アディオス」(イタリア語)、いずれも「神に委ねる」という意味です。あなたを神に委ねる。そのような祈りを込めて別れの挨拶を交わします。  

「そして今、神とその恵みの言葉にあなたを委ねる」は、使徒パウロが死を目前として、涙を流しながらエフェソの長老、信徒たちに語った別れの説教の結びの言葉です。この言葉は十字架の上でイエス・キリストが語られた言葉。イエスの地上のご生涯の結びの言葉でもあります。「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」(ルカ24:46)。  

そしてイエスの地上のご生涯の結びの言葉は、詩編31編の詩人の結びの言葉でもあります。人々から嫌われる病を身に負うた詩人のもとから、親しい人々は離れ去って行く。孤独な中で詩人は病を負い、苦しみを負い、ひたすら神に祈る。「主よ、御もとに身を寄せます。わたしの砦、城塞となって下さい。まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください」(詩31:26)。  

教会が告げる人生最後の言葉、結びの言葉とは、この詩編31編の詩人が祈り、イエスが十字架で祈られ、パウロが告別の説教で語ったこの結びの言葉、祈りです。教会は聖霊によってなぜ、生まれたのでしょうか。それは、人生最後の言葉、結びの言葉を語るためです。教会は人生最後の言葉、結びの言葉を語るために、聖霊によって立ち続けているのです。                        

                            (小川宏嗣)

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2018.5.13の花
2018.5.13の花

2022年5月8日

イエスが幻の中でパウロに、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる…」(使徒言行録18910節)という力強い励ましの言葉を語りかけた。

この時パウロは、かなり追い詰められていて、ある意味どうしようもない苦境にあり、もう伝道することを止めてしまおう、という決心に至る一歩手前のところに立たされていた。なぜなら、パウロはアテネ伝道に事実上失敗し、逃げるようにしてコリントにやって来ていたから。

そして、そのパウロの重苦しい状況に追い打ちをかけたのが、コリントのユダヤ人たちからの迫害だった(18:6)。伝道が思うように行かず、経済的にも追い詰められる。それに追い打ちをかけるように、容赦ない批判を浴びせられ、攻撃される。

そのような場面に実際に出くわし、自分自身がそのようなことを経験する時、それも伝道を続けて行こう、聖書に基づく神の言葉を語り続けよう、という思いを強く維持し続けることができるか。

パウロは恐れていた。語り続けることは不可能、と確信しそうになり、孤立感を深め、経済的にもじり貧、誰も助けてくれない。主はわたしと共にいてくれるのだろうか、疑いの思いが去来する。伝道者の言葉を受け容れ、イエスへの信仰を受け容れる人など殆どいないと、絶望しかかっていた。そのパウロの、その思いを打ち砕く言葉を幻の中でイエスが語った。

わたしたちにも伝道のビジョンがある。それは自分たちの人間の思いで立てた計画なのか。そうではない。教会の祈りの中で立てられたものであり、聖書の教えに基づき、神の御心に従って立てられた主の計画であり、そのようにして与えられた希望であるはず。もしそうなら、わたしたちの教会に与えられた伝道のビジョンの中で、イエスは、今でも強く語りかけ続けていることを信じることができるはずだ。(小川宏嗣)

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2022年5月1日

イエスが十字架に架けられ命を落とす直前、群衆がイエスに「他人を助けたのに、自分は救えない」(マルコによる福音書1531)と言って嘲った。聖書はなぜ、わざわざ強調して、「自分は救えない」というイエスの情けない姿を知らせようとするのか。

 

以前、わたしは腰痛で歩けなくなり、医者から、「ここまで痛くて歩けなくなってしまったら、自分1人ではどうしようもないね」と言われた。自分で自分の身体の痛みを取り除くことはできない。他者のお世話になるしかない。では、心の癒しはどうか。ありのままの自分を自分で「良し」とするのは、なかなか難しいもの。しかし、自分以外の信頼できる人に「大丈夫!」と言ってもらうと気持ちが楽になる。

実は「自分は救えない」というのは多くの人に当てはまる事で、そのことを嘲りの対象にすること自体、恥ずかしいことではないのか

イエスは「自分は救えない」となじられた。しかし、だからこそイエスもまさに正真正銘の人間であった、イエスも人の子であった、という現実が迫って来る。イエスは最期の最期まで、徹頭徹尾人間らしい人間として生き切った。そしてイエスは徹底的に人間の弱さの中で生き、人間として最も惨たらしい苦痛を味わって死んでくれた。

 

 

しかし、その苦しみの故に、わたしたちも、「イエス様ならわたしが今、味わっている苦しみを分かってくれる」、「イエス様ならわたしが苦しい時にこそ、わたしの気持ちが分かってくれる」と思えるのではないか。このことに感謝したい。               (小川宏嗣)

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2022年4月24日

ある高校で聖書のクラスを担当していた時、一人の生徒がわたしに手紙をくれた。こうあった。 礼拝で、先生は、「キリストは落ちこんでいる人に『頑張れ!こんなとこで何をしているんだ!』と言うのではなく、ただそっと寄り添っている」と言ったよね。あの時の先生は『わたしにとってのキリスト』だった気がする。立ち直れた理由なんか分からない。けど、今は、ただこの学校に入って良かったって思うんだ。… 

わたしは、その手紙から、イエスと出会う経験とは、まさにその一瞬、その時に、そこでしか会えないような、そんな出会いなのではないかと思わせられた。 

たまたま、その生徒がピンチに陥っていた時、ただ話を聞き、できるアドバイスをし、励ましたり、宥めたりした。たまたまそれがわたしだっただけ。 

けれども、実はわたしはその頃、心の調子が悪く、その日、その日一日を過ごすだけで精一杯だった。もうダメだ、と考えることが何度もあった。わたしにとっては、その生徒がイエスであったのだと思う。 

どんなにボロボロであったとしても、否、ボロボロであるがゆえにわたしはその生徒を通してイエスと出会い、イエスの愛を感じ取ることができた。そういうことが、まさにその一瞬、その時、そこでしかイエスと出会えないような、そういう仕方でもってイエスと出会わされるという。 

これは復活という出来事に直面した弟子たちにとっても同じ事だったのではないか。イエスを見捨て、もう自分たちはお終いだと考えていた弟子たちに、イエスは「お前たちはここで終わりではない」と語りかける。その後の弟子たちは、いつもこの言葉を思い起こしたのではなかったか。 

 

聖書を読む時に、わたしたちは生きたイエスと出会う。或いは、何気ない日常のひと時に、たとえ、後でしか気づかないとしても、イエスと出会わされている。                                                      (小川宏嗣)

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2022年4月10日

『子どもの聖書絵物語』(ケネス・N・テイラー)という絵本がある。わたしが5歳の時、父がプレゼントしてくれた絵本。その中の1ページに、ロバの子の背中に乗ってエルサレムに入城するイエス様の絵が描かれたページがある。人々は、イエスがエルサレムで本当の王になることを期待して、自分たちの上着を道に敷いたり、木の枝を掲げたりして歓迎した。

ところがイエス様の本心は、本当はこの世界の王となることではなかった。神のみ心に従い、エルサレムで十字架に架かり人々の罪人をゆるすために命を捧げることだった。この絵本の絵を見ていると、そのことが分かっているのは柔和なイエス様を乗せて静かに歩くロバの子だけのような気がした。

いよいよ新年度を迎えた。新入園・新入学、就職。新しい部署に移ったり、新しい仕事に就いたり、定年で新しい生活が始まる人もあるだろう。そういう家族を持つ方がいるかも知れない。新しい事を始めるのは、誰しも不安や心配がある。まだ誰も乗せたことのない子ロバのように、「自分自身大丈夫か」と思うし、人もそう思っているかも知れない。

しかし、聖書は語る。「主がお入り用なのです」(マルコ11:3)と。イエス様が「必要」とする時には、まだ誰も乗せたことのない、未経験の者を、最も重要な御用のためにさえ用いるのだ。

イエス様が用いた子ロバは、わたしたちの教会を指していないだろうか。わたしたちが今、一番力を入れたいのは、イエス様のことを一生懸命、喜んで伝えること。わたしたちは小さい教会であっていいと思う。小さくてもみ言葉に聞いて行うことが出来ていればいい、信仰が生きていればいい。教会の中で単にゆるしが語られるのでなく、語られもするが、実際にゆるしがある。そういう教会であればいいと思う。

新年度、イエス様を背中にお乗せして歩んでいきたい。  (小川宏嗣)

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2022年4月3日

「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら『あなたがたの言って

いるそんな人は知らない』と誓い始めた。」

(マルコによる福音書1471)

 

イエス様の逮捕の瞬間、ペトロは他の弟子たち同様、逃げました。その後、「お前はあのナザレのイエスの仲間だろう」と尋問され、「わたしは知らない」と答えます。そして、彼は、イエス様を裏切った自分を恥じて、その情けなさと罪意識のあまり泣き伏しました(マルコ14:72)

罪を犯した当事者の問題。取り返しのつかない大きな罪を犯した本人の救いはどこにあるのでしょうか。何度悔いても、また罪を繰り返してしまう自分を抱えた人間はどうしたら救われるのでしょうか。

わたしは、自分の罪深さに対して、「赦されたい」という思いがあります。しかし、人は容易には赦してくれません。赦しを求めても「何を虫のいいことを言っているのか」と拒絶されます。そういう虫のいいことを人にすぐ求めてしまう浅ましさに、情けない思いに覆われます。

しかし、自分が数々の罪を犯してきて、どうしようもない人間であっても、できることはあります。それは、人の罪の告白を受け止めることだと思います。

主の祈りに、「わたしが赦しますように、わたしの罪をもお赦し下さい」とあります。「もう罪を犯しませんから、これまでのことをお赦し下さい」ではなく、自分がこれからも罪を犯すことを決して否定していません。しかし、わたしは罪深い者だからこそ、人の罪を赦すことができる。だから神様、わたしの罪も赦して下さいませんか、という願いが込められているように感じます。人が赦さなくても、神は絶対にわたしの嘆きを遮らずに聴いて下さる。必ず受け止めて下さると信じたいのです。神が沈黙しているということは本当に恵みです。神はわたしたちの泣き言のような祈りも願いも、遮ることなく際限なく聴いてくれます。

だから、もしわたしたちも、人には言えないような事があったとしても、神に聴いてもらい、受け止めていただきましょう。罪深い者にとっては、そうする以外に生きる希望は無いと思われるからです。            (小川宏嗣)

 

 

2022年3月27日

「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。

もう、これでいい…」

(マルコによる福音書1441)

 

長男の大学の卒業式に出席する為、母と二人で旅をした。母を色々と連れ回した。きっと疲れたと思う。でも、元気な息子は、自己満足で母を連れまわす。

だいたい、こどもは親のことを、それほどは考えてない。自分が親をどう思っていたかを思い出せば、分かる。親が何をしていたのか、何を考えていたのかを殆ど知らないから。

旅の最中、何度も口喧嘩をした。宿でエアコンが冷え過ぎて、寒くて朝までガタガタ震えて眠れなかったとか。空港で、「ここで待っててよ」と言って、用事を済ませて戻って来たら、母はそこにはいない。そんなトラブル続きの旅だった。

「あきれました」と母。そりゃあ、そうだろう。こどもなんて、何にも考えてないというか、本当に、ごめんなさい、という気持ち。

ただ、「あきれました」の後に、「でも、元気が出ました」とも言ってくれたので、少し救われた。もしかすると、旅から戻って、「息子が連れてってくれたのよって」自慢していたかも知れない。ともかく、「親の思い」というのは、こどもたちは、何も知らない。

神様は凄い。こちらが何にも分かっていないのに、どれだけこどものこと考えてくれているか。イエス様なんか、ゲッセマネで、自分が殺されると悟り、全人類の罪や、人間の深い闇を思い、悶え苦しみ、神様に、「この時から救ってくれ」とまで言って祈る、その一番辛い時に、弟子たちを寝かせているのだから。「いいよ、もうお休み」なのだから。

だから、わたしたち、寝ててもいいのだけれど、せめて、そんな神の思いにだけは目覚め続けていれば、少しだけでも何か出来るのではないか。もう少し、何か素晴らしいお手伝いが可能なのではないか。     (小川宏嗣)

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2022年3月20日

ちちをかえせ ははをかえせ

としよりをかえせ

こどもをかえせ

 

わたしをかえせ わたしにつながる

にんげんをかえせ

 

にんげんの にんげんのよのあるかぎり

くずれぬへいわを

へいわをかえせ   (峠三吉『原爆詩集』)

 

一方が勝利して争いが終わったということは、平和になったということではありません。争いの終りが、新しい争いの始まりともなってしまいます。

平和は何よりも、そこに、ゆるしと和解を必要とします。

イエス・キリストは、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書59節)と言われました。

平和を実現するためには、自分の心に平和を持っていなくてはなりません。そうでなければ、人に平和をあげることはできないのです。この平和は、イエス・キリストを信ずることによって与えられる平和なのです。

 

ご自分を十字架につけて、ゆるすこと、和解することを教えられたイエス様に従って、実現されていく平和です。このことを今、しっかりと覚えておきたいと思います。平和のためにお祈りしましょう。   (小川宏嗣)

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2022年3月13日

 

『主、必死なる者を見捨て給わず』

 金丸英子

 

我らの主イエス・キリストは、必死にご自身を求める者を決してお見捨てになりません。この時の鍵は私たちの「必死さ」にあります。私たちが「神」と讃えるお方は、ナザレで生まれ育たれたイエス・キリストです。ですから、神が解らなくなった時はイエス・キリストを思い出すしかありません。ではそのキリストはどのような方か。新生讃美歌205番はそれを次のように鮮やかに表しています。 

 馬槽(まぶね)の中にうぶごえあげ 木工(たくみ)の家に人となりて 

貧しきうれい 生くる悩み つぶさになめし  この人を見よ 

 

食するひまもうちわすれて しいたげられし人をたずね 

友なきものの友となりて  心くだきし この人を見よ 

 

すべてのものを与えしすえ 死のほかなにもむくいられで 

十字架のうえにあげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ 

 

この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたり 

この人を見よ この人こそ  人となりたる 活ける神なれ 

 

「この人を見よ、この人を見よ」とこの歌詞は、畳みかけるように「イエス・キリストをこそ見よ」と私たちに迫ります。この「神」は、人間の貧しさや生きる上での苦悩をつぶさに経験され、寸暇を惜しんで虐げられている人、友のない人を心にかけては訪ね、そのようにしてご自分のすべてを私たちにお与えになったお方です。自分への見返りなしにです。そのような方が、心の底からご自分を求める者、追い詰められて助けを求める者の手を振り払い、無視してお見捨てになるはずはない。私の信頼する「神なる主」はそのようなお方です。例えば、嵐のガリラヤ湖上を歩いてイエスの元へ行こうとした弟子が怖くなって溺れそうになって「助けてください」と手を伸ばして叫んだ時、ゴルゴタの丘に並んで十字架に架けられた犯罪人のひとりが「イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください」と最後に懇願した時、主は冷たくあしらわれることなく、「あなたは私と一緒にいる」と包みこむように受け止めて下さいました。この両者は「必死」 でした。その時、イエス・キリスト以外に手を伸ばす先を持たなかったからです。私たちがこのような「なりふり構わない必死さ」で主に顔を向けたのは、いつのことだったでしょうか。 

 

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2022年3月6日

『愛しなさい』

マタイによる福音書2234節~40

 

2018年から始まった西南学院大学での神学生としての生活も、残すところあとわずかとなりました。皆様の祈りに支えられながらここまで過ごし、無事に1月に修士論文を提出しました。4月からは、平尾バプテスト教会に牧師として赴任します。主のご計画に期待しつつ、その時を待っています。

福岡教会では2019年度と2020年度の二年間、研修神学生として過ごし、皆様に家族ともども大変お世話になりました。二年目の研修が始まると同時にコロナによる混乱が広がり、様々なことが制限されました。その中にあっても共に礼拝を捧げ、祈りあい、人吉での災害支援活動などを通して豊かな時を過ごすことができたことに心から感謝をいたします。

私たちの生活は、いまだに様々な制限を受けています。教会もこれまでの「あたりまえ」が打ち崩され、引き続き様々な活動が休止しています。この中にあって私たちは、聖書からイエス様の言葉を聴きながら、教会が本当に大切にすべきものに立ち返っていたいと思います。

今日の聖書には律法の専門家と、イエス様の問答が記されています。当時のラビには613もの掟(248の命令「せねばならない」、365の禁止「してはならない」)があったとも言われています。律法の専門家はイエス様に、「先生、律法の中で、どの戒めが最も重要でしょうか。」と問います。

この質問の目的は、イエス様を困らせるためでしたが、イエス様は明確に「神を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」と答えます。

恐らくこの専門家はイエス様を追い詰めたいという思いがあったのと同時に、自分の中でも律法の中で何が最も重要であるのかということが見えなくなっていたのであろうと思います。数多くの律法を遵守し、知識としては全てを記憶していたことだと思います。しかしそこに内在し、律法に通底する神様の大きな意志をくみ取ることができなくなっていたのではないかと思います。

 

私はこの専門家の姿に、頭でっかちになっている自分自身のキリスト者としての姿を重ねます。教会もまたこの時に、これまでの歩みを振り返りつつ、キリスト者が最も大切にすべきものについて今一度考える時が与えられているのではないでしょうか。共に聖書から聴いていきましょう。                   (奥村献)

2022年2月27日

「…目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているようにと、言いつけておくようなものだ。」(マタイによる福音書133233)

イエス様が、目を覚まして待つ、ということを伝える為に、譬え話をしています。それは、旅に出る主人が僕たちに仕事を割り当てて、責任を持たせるというものです。主人とは神のことで、神がわたしたち一人ひとりの神の子に、仕事を割り当てて、責任を持たせて、自分は留守にする。この世界というのは、そのような世界だというのです。

僕は本来、主人と一緒に働き、暮らします。神と共にいて、神の手伝いもして、安心して暮らしています。ところが、神は「少し留守にするよ」と出かけてしまいます。

親がずっと一緒にいるとこどもが自立して育たないということがあります。だから留守番のように、留守にするからね、いい子にして待っててね、と出かけることは、親の愛でもあります。寂しいけれども、我慢して親が帰って来るのを待つ、そんな経験をしたこどもが育つということがあります。

神は、神の子たちに、もっと成長してほしい、もっと自分の喜びを分かち合ってほしい、そう願って育てています。その為に、仕事を割り当てます。そして、ちゃんとできたら、よくできたねと褒めてくれます。こどもは得意になって、自信をつけます。この世界は、そのように神が人間に色々と任せて見守っていて、最後には、よくやった、と迎えてくれるのです。それに気づくべきですし、イエス様としては、そこに目覚めてほしいのです。

どんなこの世の困難も、いつか過ぎ去ります。大変だったけれども、あの日々があったから、この喜びの日が来たのだ、という日が必ず来ます。そこに目覚めていなさいなのです。お互い助け合って、分かち合って、希望をもって、今を過ごしましょう。              (小川宏嗣)

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2022年2月20日

「…わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコによる福音書834) 

 

イエス様は、「十字架を背負ってついておいで」(34)と言われます。でも、そんな辛い十字架を背負えるだろうか、最後の時の、思わぬ試練や苦難に耐えられるだろうか、と心配になります。弱い自分に、そんな信仰があるかどうかと不安になります。 

誰だって、人生、思うようにいきません。でも自分の願ったように、自分の思うように、自分にとって都合のいいように、というのは、神のみ旨を前にしては傲慢ではないでしょうか。むしろ、自分の都合のいいようにならない時にこそ、神のみ旨が行われている、という信仰があれば、どんな苦難の中にあっても、希望が生まれて来ないでしょうか。 

そもそもこのイエス様の言葉は、現に、すでに苦難の中にいる人たちを励ますために書かれたものです。だから今、安全な暮らしで、自由を保障されて、命を守られて生きている、そんな時代に読むと、逆に、自分にできるだろうか、という恐れで読んでしまうのです。 

真に殉教の恐れに直面し、苦難の最中にある時、自分が思うようにいかないギリギリの現場にいる人たちが、「ああ、今、背負っているこの十字架も神のみ旨のうちにあるのだ」と、希望の福音として読んだのです。まさに、聖書とは、苦難の最中にある人こそが読むべきものですし、そういう人たちに向けて書かれたものです。 

だから、わたしたちが、いよいよ試練の時、苦難の時を迎えたとしても、それは、わたしが勝手に、試練とか、苦難とか思っているだけかも知れないのです。むしろ、それが神の国の入り口なのかも知れません。(小川宏嗣)

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2022年2月13日

「…目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているようにと、言いつけておくようなものだ。」(マタイによる福音書133233)

 

「その時」とは「この世の終わり、終末」のことです。それはわたしたち人間には、いつ来るのか分かりません。神だけが知っていることです(32)。わたしたちの人生がいつ終わるか、についても同じです。

神はわたしたちに何らかの責任を与え、それを全うすることを求めています。いつこの世が終わるのか、自分の生命がいつ最期を迎えるのか、神の意志は分かりません。でも、想像することはできます。それぞれの生活において、それを実現しようとすることはできます。その日がいつなのか分かりませんが、わたしたちには生きている「今日」があります。

今や、イエスを知り、イエスを信じているわたしたちは、イエスの愛を模範とし、イエスの再臨を信じることができます。それは幸いなことです。

隣人は助けを求めていないでしょうか。わたしたちのパートナーは孤独を感じていないでしょうか。わが子は一人で悩んでいないでしょうか。大切な身近な一人の苦しみにちゃんと気づいているでしょうか。それは自らの愛の危機です。その愛の危機を乗り越える為に、救い主がこの世に来たのです。

大切な身近な一人の苦しみに気づいて行きましょう。常に他者の苦しみに敏感でいましょう。人類の苦しみに目を覚まして生きましょう。

 

明日ではなく今日、大切な人を大切にすることこそが、人類を救い、地球を守る道です。目を覚まして、しっかり生きて行きましょう。今日、できることを尽くしましょう。               (小川宏嗣)

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2022年2月6日

「…カナンの女が出て来て『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。」

(マタイによる福音書1521)

 

聖書は、神の憐れみなしには、わたしたちは何一つ出来ない、ということを伝えています。自分で頑張るのもいいけれど、何をおいてもまず第一に、神の憐れみを願い求める。これが、わたしたちのなすべき第一のことです。

人間、そんなに強くありません。自分の力で何とかしようとすることは「自分」という偶像を崇拝することになります。いつの間にか、自分の信仰、自分の努力が偶像になって、それにすがっていたら、それは偶像崇拝です。むしろ、イエスの祈り、教会の仲間たちの祈り、そんな祈りに支えられて、神の憐れみを、全面的に信じて受け入れる。これが信仰ということです。

「弱さや無力さを感じる時にも、神の救いを信じ続けることができますように」と、ある方が祈りました。わたしたちが、弱さや無力さを感じる、とは、何もできません、苦しいです、自分で自分は救えません、そういう弱さや無力さを感じることです。

しかし、たとえそういう時にも、神の救いを信じ続ける。ここだけは譲れない。これだけは手放さない。その意味においては、神の救いを信じる、という強さだけは、最後まで持ち続ける。後は全部、弱くていい。しかし、最後の最後、神の救いを信じ続ける。

この神の憐れみによって世界は成り立っていますし、それを受け入れる時に、わたしたちは本当に神と繋がるのです。これほど弱いのに、そこを信じるという意味では、これほど強い、と言えるのです。弱さや無力さを感じる時にも、神の憐れみを信じ続けることができるように、と祈りましょう。

                             (小川宏嗣)

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2018年1月のお花
2018年1月のお花

2022年1月30日

「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて食事をする暇もなかったからである。」(マルコによる福音書632節)。

イエス様が、人里離れた所に弟子たちを連れて行きます。人里というのは、人間の考え、計画、欲望、恐れ等が満ち満ちている所です。そこは、忙しくてバタバタしていて、食事をする暇もないのです。だから、時に人里を離れて、神のもとに座る必要があります。静かな気持ちになって、自分の考えを超えた神のみ心を知る必要があります。

イエス様は、わたしたちを救う為に十字架に架かって下さいました。これは本当に福音ですし、それを、喜ぶべきです。しかし、わたしたちの現実は辛いです。心は苦しい時もあります。信仰はあっても病気にはなるし、どんなに祈っても怪我をすれば痛いし、目の前の人間関係は本当に厳しくて、なかなか笑顔になれません。

だからこそ、イエス様は、わたしたちを人里離れた所に連れ出して下さいます。神様で満ち満ちているという世界に、わたしたちを連れ出して下さるのです。そしてイエス様は真ん中に立って、牧者のいない羊のようなわたしたちに深く憐れみを注いで、福音を語って下さいます(マルコ6:34)。こんな辛いわたしたちだからこそ、イエス様は十字架に架かり、復活の希望を見せて下さいます。ですから、わたしたちの辛い現実、それは、イエス様をお迎えするための現実であり、今も辛いからこそ、イエス様とも繋がれるのです。

「あなたがどんな辛い状態でも、イエス様はあなたを愛しています。だから、大丈夫。そんなあなたをイエス様はよく知っているし、憐れんで下さっています」。そう言って慰め、励まし、共にいることができますように。

 

                        (小川宏嗣)

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2018年1月のお花
2018年1月のお花

2022年1月23日

「…見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

(マルコによる福音書33435節)。

 

教会は神の家族である。もう聞き飽きてしまった言葉かも知れません。でも、教会が家族ということは本当に素晴らしいことです。その素晴らしさを、わたしたちはちゃんと分かっているのでしょうか。

わたしたちは毎主日、教会に来たと思っています。確かに教会は、日曜日は教会にいらっしゃい、と言っています。でも、教会に来て下さいというのはよく考えると変です。教会が家族であるならば、ここが、わたしたちの家です。自分の家に行くとは言いません。教会にいる時間は少なくて、その他の時間の殆どは出かけています。でも、本当の意味で帰って来るのは教会ですし、ここにいるのが家族ですし、どこにいようと家族は家族です。

もし、わたしたちの意識が、本当のわが家は血縁の家で、教会家族は二の次だ、ということなら侘しいものです。けれども、教会は真の家族だ、と一人ひとりが信じているなら、たとえ教会に一人で残っていても、少しも寂しくありません。独り暮らしの人が自分の家に帰って独りぼっちだという時も、教会の家族がいる。離れていても一つの家族だ。祈り合って、助け合って、信頼関係を深めていけるはずです。でも、そういう現実を味わっている教会がどれだけあるでしょうか。

 

教会に初めて来た人に、家族になりませんか?と声をかけるには勇気がいります。面倒くさく、気後れするところもあります。でも、勇気を出してやってみると、一生の家族が生まれます。今、このコロナの世界に一番足りないのはその勇気かも知れません。そのひと言で一人の人の人生が変わります。その勇気を持ちたいと思います。          (小川宏嗣)

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2022年1月16日

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」

(ルカによる福音書538節)。

 

この新しさというのは、イエス・キリストのことです。イエス様は、天地創造の始めからおられて、わたしたちの救いを準備していました。全く何もない闇の世界に、「光あれ」(創1:3)と言われて、光が生まれて、存在が生まれて、そこに命が生まれて、わたしが生まれて、だから出会いが生まれたのです。でもそれは、新しいという言葉では足りません。全くな新しさです。なぜなら、それまで、全くそんなもの無かったのですから。

だから、その新しさを信じるのであれば、わたしたちは新しい革袋を用意しなければなりません。そこに、新しいイエス様を迎えて、新しい一日を始めるのです。今朝、わたしは生まれた、そんな新しさを生きていくならば、昨日、どんな失敗しようが、どんなところで、どんな経験をして来ようが、それらを飛び越えて、イエス・キリストという、神の愛そのものである、新しい命を信じるならば、今朝は、全く新しいのです。

色々な辛い経験をすると、引きずるし、フラッシュバックも起きるし、頭の中でずっと、その辛かったこと、嫌なことを思い起こしてしまいます。もうやめよう、と思いながら、寝る前にまた考えてしまいます。

そんな現実に、イエス・キリストという、救いの新しさを迎えるというのは、本当に救いです。どんなに自分で考えないようにしても、過去は変えられないし、相手も変わらないし、社会も変わらないし、自分も変わりません。自分の中から、救いは出て来ません。来るのは向こうからなのです。

イエス様を、全く新しく受け入れるならば、昨日までのことはともかく、今、新しい創造の御業が、このわたしのうちに起こっている、そう信じた時に、新しい朝が始まるのです。             (小川宏嗣)

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2022年1月9日

「…ヨハネは、自分の方へイエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」(マルコによる福音書11617)

 

イエス様が、「わたしについて来なさい」(17)と呼びかけています。ここは、ガリラヤの漁師、シモン・ペトロとアンデレが弟子に招かれているところです。彼らの方が、「弟子にしてくれ」というのではなく、イエス様が声をかけて、「わたしについて来なさい」というのです。このことを「召命」と言います。わたしたちの方から何かをしたい、というより、むしろ、神様がまずわたしたちに、こうするように、と呼びかけてくれるのです。

 

聖書は、自分の望みよりも大事なのは神の望みだ、と伝えています。今、神の呼びかけを聞く、ということを意識したいと思います。今、神があなたに何を望んでいるのか。それを聞いて分かったら、イエスの声に従って行く。イエスについて行く。それがキリスト者の生き方の大本のところにある生き方です。それは人生全体についても、日々の生活においても、神がまず、どう呼びかけているのか、それにどう応えていけるのか、それを問いかけたらいいのです。

一人ひとりユニークな、特別な形で神様の呼びかけがあります。それが内面的なことか、活動的なことか、誰かとの関係性を深めることか、誰かを助けることか、今、していることを更に続けることか、人によって全く違います。大事なのは、神様の呼びかけをしっかり聞いて、勇気を持って誠実に応えることです。その為に、聖書を読み祈りましょう。    (小川宏嗣)

 

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2022年1月2日

「…ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。見よ、

世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネによる福音書129)

 

2022年の初め、皆さんにお伝えしたいのは、イエスは、今、ここにおられる、ということです。わたしたちは、常に神を探し、見い出そうとします。しかし、忘れてならないのは、今、ここに、神はおられるということです。

クリスマスで、「インマヌエル・神はあなたがたと共におられる」(マタイ1:23)、そのことを世の中に証しして行くことが、一人の人を救うことになるのだ、と受け取りました。神は共におられる。いつでも、どこでも、どんな状況でも。

しかし、わたしたちは今、ここにいる神を忘れて、昔はもっとよかった、あの頃はダメなわたしだった、あの嫌なことが忘れられないと、過去の嘆きに心が行きます。或いは、これから悪いことが起こるのではないか、やはり見捨てられるのではないか、と未来の恐れに心が行きます。或いは、わたしにはこれが足りない、という不満に心が行きます。そうして、今、ここで、満たされている、という現実から心が離れてしまうのです。心の目を開けば、今、ここに、全てを満たす神はおられるのに。

その神が、今、ここにおられる。それに気づきたいと思います。最も大切なことは、イエス・キリストの救いはすべての人にある、という幸いな知らせです。新しい年、わたしたちはこの福音に集中したいし、これを信じましょうと伝えたいし、伝える仲間が必要ですし、一緒にやって行きましょう、と呼びかけたいのです。            (小川宏嗣)

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2021年12月26日

「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、

別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」  (マタイによる福音書212)

 

クリスマスはページェントです。汀幼稚園の園児たちが真剣に演じていた姿は、強烈なメッセージでした。クライマックスは、三人の博士の礼拝の場面で、大袈裟にひれ伏す姿です。両手を高く上げ、それからゆっくりと地面に頭がつくほどまで深々と礼拝する姿は美しいものでした。

学者たちが幼子を拝む場面。しかし、考えてみたら、これは日常的に見かける場面ではありません。誰かの前にひれ伏し、はいつくばって拝む、つまり、「土下座」することがあるでしょうか。誰か、自分より圧倒的に強い立場の人、力や地位のある人の前に土下座することはあるかも知れません。しかし、地位も富もある学者たちが、赤ん坊の前に土下座しているのです。これはただごとではありません。

 

わたしたちは、今、どこに向かおうとしているのでしょうか。どこに目を向け、何を求め、何を目指しているのでしょうか。一体、何を、あがめ、大切にし、どんな人、どんな存在の前に、頭を下げ、拝もうとしているのでしょうか、そのような拝むべき存在は、どんな方で、どこにいるのでしょうか。

幼子を拝んだ学者たちは、もはやベツレヘムのヘロデ大王のもとに向かうことをしませんでした。「別の道を通って」帰って行ったのです。

 

2021年を終えようとしている今、わたしたちはヘロデではなく幼子を拝む者であることを、もう一度心に刻みましょう。学者たちが、ヘロデのもとにではなく、幼子のもとへと導く星を見て、喜びに溢れたように、わたしたちも、あの幼子のもとへ向かう時に、深い喜びを味わうのです。(小川宏嗣)

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2021年12月12日

イエス様が生まれたのは小さな町ベツレヘムでした。救い主を求めて遠い外国からやって来た学者たちは最初、エルサレムの王宮に行ったようです。「救い主だからきっと世界の中心で生まれるに違いない」と思い、神殿や王宮のあるイスラエルの首都に向かったのです。でも、学者たちの当ては外れ、救い主は思いもしなかった田舎町で、世界の片隅で生まれたのです。

イエスを救い主として最初に礼拝したのは外国人です(マタイ2)。十字架に付けられたイエスを見て「本当にこの人は神の子だった」と認めたのは、ローマ人の百人隊長でした(マタイ27)。ユダヤ人たちに約束され、ようやくやって来た「平和の王」を認めたのはユダヤ人の中心に居た人たちでも、ユダヤ人たち自身でもなく周縁に居た外国人たちだったのです。

今年もクリスマス集会を教会で迎えることができることを嬉しく思います。けれども、わたしたちが忘れてはならないのは、ここで祝われることだけがクリスマスではないということです。教会の外にもクリスマスの出来事はあるのです。イエス様が生まれたのは、ユダヤ教の中心地エルサレムではありません。ですから、クリスマスの中心も教会の中ではなく外の出来事かも知れません。

「彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない」(イザヤ書113)

主の霊に満たされた平和の王は、目に見える物だけによって判断するのではなく、聞こえるものによってのみ判断するのではありません。わたしたち人間はともすれば見たいものしか見えません。でも、本当の平和の王はわたしたちが見たいとは思わない現実の中に生まれるのです。

 

クリスマスも教会で祝われるものだけが全てではありません。むしろそれ以外の所で多くを教えられることがあります。飼い葉桶の中で。この世の最も低いところにイエス様は来てくれたのですから。わたしたちはこのイエス様の誕生に思いを馳せたいと思います。             (小川宏嗣)

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2021年12月5日

 

「全世界に行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。」

(マルコによる福音書 16章15節)。

 

「世界バプテスト祈祷週間」は、世界伝道を覚えて祈り献げる時です。1887年米国南部バプテスト連盟のロティー・ムーン宣教師は中国での困難な伝道の中で、本国の諸教会に世界伝道を支える献金を呼びかけました。それが世界バプテスト祈祷週間の始まりで、日本ではバプテスト女性連合の働きを通して、現代の日本バプテスト連盟のわたしたちにも継承されています。

現在、日本バプテスト連盟は以下のように2組の宣教師、2組の国際ワーカー、計6名をアジアとアフリカにイエス・キリストのみ名によって派遣しています。コロナ危機の中、共に歩んで下さるイエス・キリストを信じて、それぞれがそれぞれの場所でお働きを続け、祈りのリクエストを発信して下さっています(『国外伝道ニュース』202111月参照)。

イエス・キリストによって、この世界の中で人と人とが繋がり、祈りを分け合い、支え合うことの深さ、豊かさを覚えます。世界を覚えて祈る時、世界によってわたしたち福岡バプテスト教会もまた祈られていることを知ることができるからです。               (小川宏嗣)

 

 

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◇インドネシア:野口日宇満 宣教師・野口佳奈 宣教師

◇カンボジア:嶋田和幸 宣教師・嶋田薫 宣教師

◇シンガポール:伊藤世里江 牧師

(アジア・ミッション・コーディネーター、シンガポール国際日本語教会)

◇ルワンダ:佐々木和之氏

 

(国際ミッション・ボランティア、プロテスタント人文・社会学科大学教員)

2021年11月28日

アドベント(待降節)を迎えました。教会の礼拝堂にはクリスマスの飾りつけがなされ、いつもより華やかな雰囲気をつくっています。わたしたちにとってクリスマスとはどのような意味を持っているでしょうか。クリスマスが来るまでの間に、そのことを考えながら準備しますが、その間、心を落ち着けて待つ時間がアドベントです。

「アドベント」という言葉は、「待つ」という意味の他に、「向こうからやって来る」という意味があります。驚くようなことが向うからやって来るということです。このアドベントという言葉から「アドベンチャー」、「冒険」という意味の言葉が出来ました。アドベントは「待つ」ことであり「冒険」なのです。

 

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。」(イザヤ書95)

 

このイザヤの預言を信じて、ユダヤの人たちは何百年も待っていました。あまりにも長い時間なので、待っていてもその前に亡くなった人もたくさんいましたし、そんなに長い時間待たされたら、「もう来ないんじゃないか」と疑ったり、あきらめたりした人もたくさんいたのではないかと思います。

しかし、神様は、赤ちゃんの姿になって人間のところに来てくださったのです。「待つ」ということは、ただ「何もしない」ということではなくて、そのことを信じて「冒険」することなのだと思います。

今日から、わたしたちはアドベントのただ中を歩みますが、「待つ」ということは消極的なことでではなく、そのことが実現していくということに賭けていくという冒険です。わたしたちが救い主イエス様のお誕生を信じて、忍耐して歩むことができますように。        (小川宏嗣)

 

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2021年11月21日

「イエスは…十二人を…遣わすことにされた。…旅には杖一本も持たず…ただ履物は履くように…」(マルコによる福音書679)

 

昨年7月、宇宙飛行士の野口聡一さんが地球に帰って来て、「このコロナの時代に、閉じこもってやりたいことを出来ずにいる、閉塞感を抱いている国民に励ましの言葉を」とインタビューされて、次のように答えていました。

「自粛が大変とか、旅行に行けないとかって言うけど、宇宙船の中なんてもっとどこにも行けないし、食べたいものも食べれない。会いたい人にも会えないという、文字通りの閉鎖空間なんです。だから、そこで一番大事なことは『無いものを、嘆かない』ってこと。今、目の前にあるものの価値を見い出して、それを大切にしていきましょう」。

豪華な観光旅行とか、贅沢な食事もいいものですが、本当の旅の楽しさは、やはり新しい発見ではないでしょうか。思いがけない出会い。それを体験することで自分が変えられていくこと、何かに目覚めて行くこと、それが旅の醍醐味だと思うのです。

 

キリスト者は「地上では旅人」(へブル11:13)ですから、今、ここに、在りながらも、旅するような思いで、新しい出会いを受け入れて目覚めていく、そんな毎日の旅路を歩んで行ったらいいのではないでしょうか。

わたしたち、そもそも、神様からこの世に遣わされ、人生を始めさせられたのですから、遣わした神様にも責任があるのです。つまり、旅先には、必要なものを神様がちゃんと用意してくださるということです。

人生の旅、神様がちゃんと守ってくださると信じて、誰かに福音を告げるために、キリスト者は旅に出るのです。        (小川宏嗣)

 

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2021年11月14日

「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである。」(マタイによる福音書44節)。

 

人間は、身体だけで出来ているのではありません。目には見えませんが「心」が存在していて、これが実に大切です。心は生きていて、心にも栄養を与えなければ、大きく成長しません。大きな心にはならないのです。

では、大きい心とは何でしょうか。親切で優しい広い心、正しいことを選び取る強い心、我慢強い心、勇気に満ちた心、明るく希望を持った心、と色々と表現することができます。

このような豊かな心を育てる一つの場が礼拝としてあると思います。礼拝の中で歌う讃美歌は、感謝の言葉「ありがとう」の言葉で満ちています。これは健やかな心の基本です。感謝出来ない人は、他者と共に生きていくことは出来ません。礼拝を通して、わたしたちに心を与えてくださった神様、その神様の思い、人の思いとは何か、に触れるのです。

そしてお祈りをします。しばし目を閉じ、心を静めることで、自分の思いや願い、反省など、諸々の思いが明らかになってくることがあります。そのように考えていくと、ある意味、わたしたちは礼拝を「心を養う場」として受け止めることが出来るのではないでしょうか。

イエス様は、「人はパンだけでは生きない」と言いました。それは、パンだけあれば、体の健康さえあればわたしたちは良いのか、という問いです。人は心も体もあるものとして創られています。その全体において、心において生きる価値を味わっているだろうか、人としてこの世に生まれたこと、生かされている喜びはあるだろうか、と尋ねているのです。

礼拝を通して、本当の意味で生きることを確認して行きたいと思います。

                             (小川宏嗣)

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2021年11月7日

「いかに楽しいことでしょう/主に感謝をささげることは」

詩編922節)。

 

過日、汀幼稚園の運動会が行われました。その種目の中にバトンを渡して行くリレーがありました。競技ですから当然、みんなが同じスピードで走るということはありません。早い子がいれば、少し遅い子だっています。きれいに走り抜いた子がいれば、バトンを落としたり、転ぶ子だっています。そして1位があればビリだってあります。本人たちの中には嬉しさや惜しさが溢れたことでしょう。

しかし、たとえ遅かろうと諦めずに走り続けた。転んでも役割を捨てて逃げなかった。一度はバトンを落としたとしても、もう一度拾い上げて走り始めた。そのような姿に、見る側は、感動や素晴らしさを覚え、子どもたちの成長を見ることができました。

 

「主に感謝をささげる」(詩92:2)とあります。神様に感謝を献げるということは、受け取った良いものを神様にお返しするのみならず、更に別の誰かに渡していくことだと思います。それはたとえるなら、バトンを渡していくリレーのようなものです。

 

 

わたしたちの神の愛に対する応答、つまり誰かに愛を渡していく働きは、自分から見れば不完全なものかも知れません。時には失敗し、諦めそうになることがあります。しかし、そんなわたしたちがイエス様から委ねられた愛を思い起こす時、わたしたちはもう一度走り出すことができるのではないでしょうか。                   (小川宏嗣)

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2021年10月31日

「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を/助けるものもない貧しい人を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ/乏しい人の命を救い/不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。」(詩編721214)

 

マルチン・ルーサーキング牧師は1956年1月、深夜に一人起きていました。バス・ボイコット運動の責任者となり、ストレスフルな毎日を送っていた26歳の時、「黒ん坊、もし三日のうちにお前がこの町から出ていかなかったら、お前の頭をぶち抜き、お前の家を爆破してやるからな」という脅迫電話で起こされ、眠れなくなってキッチンでコーヒーを沸かしたのです。出来れば、この運動の責任者から卑怯者と言われずに身を引く道を考えたのです。居ても立っても居られなくなり、思わずコーヒーカップを抱えこむようにして真摯に祈ったのです。「神よ、わたしは正義を行おうとしていますが、わたしは弱いし、くじけてしまいそうです。勇気を失いつつあります」と。その瞬間、若いキング牧師は内なる声を聞いたように思ったのです。それは生涯を一変させるようなものでした。「正義のために立て、真理のために立て、見よ、わたしはあなたと共にいる」と神からの励ましの声を聞いたのです。「決して一人にしない」と。もう一人ではないと分かったのです。

 

わたしたちも問題に悩むことがあり、自分の力を超えた課題に向き合っていかなければならない時があります。でも、弱い人間でいいのです。もし、わたしたちが祈るということを知っているならば。神は近くにおられ、わたしたちが祈る前に、わたしたちのために祈っておられます。わたしたちも静かに神と向き合い、今を生きる力を与えられたいと思います。

 

              (小川宏嗣)

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2021年10月24日

「ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は/今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ書431節)。

 

神は人間を造りました(1)。わたしたちは、偶然生きているのではありません。神が一人ひとりを愛情込めて造ってくださったのです。あなたという存在には、神の愛が込められています。わたしたちは意味のない存在ではないのです。これはわたしたちの大切な信仰です。

それならば、神はなぜ、人が苦しむのをゆるすのでしょうか。病の苦しみ、喪失の苦しみ、死の苦しみ、大切な人が苦しんでいるのを見るのも辛いです。神が愛であり、全能であるのにもかかわらず、苦しみがある以上、神は苦しみを含めて、この世界を、人間を造ったと受け入れるしかありません。

でも、神の計画であるならば、苦しみにも必ず意味があるはずです。もし、病も、失意も痛みも、死さえも取り除いた世界に、果たして、労わりの愛や、憐みの心、試練に耐える成長や苦難の中で輝く希望が生まれるでしょうか。

そもそも、人間を造ったということは、創造主自ら、人間の苦しむことを引き受けたということです。親は子を産む時、苦しみます。子もまた苦しむことがあることを知っています。それでも生むのは、わが子に存在を与えて愛し、わが子に愛されたいからであり、わが子の苦しみを引き受ける覚悟があるからです。苦しみを親子で共有する。苦しみによってこそ人は真に出会い、親子は真に愛し合えるのです。

神が創造主であるならば、神はすべてのわが子の苦しみを引き受けます。責任を取ります。苦しみの中で、なおもその神の愛を信じる時、人は創造の業にあずかっているのです。             (小川宏嗣)

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2021年10月17日

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い/魂を生き返らせてくださる。主は…わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる…」(詩編2314b)

 

「あなた(主なる神)がわたしと共にいてくださる」(23:4)

 

この言葉こそ、聖書のすべてを貫く、最も大切な言葉です。コロナ危機による大きな困難の中にあるわたしたちが、どうしたら希望をもって生きることができるのか、或いは、そのような中にある他者を、どうしたら慰め、励ますことができるのか、それを考えていく上で、どうしても必要な言葉だからです。この言葉には、どんな時にも希望を失うことなく、一歩一歩確かな歩みを進めて行くためのメッセージが込められているからです。

人生は、どのような状況で生きるかよりも、誰と生きるのか、ということの方が大切ではないでしょうか。肉体的、物質的、経済的には貧しくても、この人と生きているから幸せと感じられること。人間的には不足を感じていても、死の陰の谷を行き、災いに遭うような時でも、わたしを愛している神が共にいてくださることを信じて生きられるなら、わたしたちには「何も欠けることがない」のではないでしょうか。

 

だからこそ、伝えたいことは、あなたの人生を神に委ねてください、生きている時も、死ぬ時も、いつもあなたと共にいてくださる神を信じてください、ということです。神を信じてください。安心してすべてを神に委ねてください、大丈夫ですから!            (小川宏嗣)

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2021年10月10日

「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても/その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。」

(詩編1925節)。

 

今、わたしたちキリスト教会は、コロナ危機の中で、どうやって神の意思を知るのか、という問いを聞き続けています。その問いに答えるのはとても難しいのですが、神の意思とは、色々なものを介してわたしたちに伝えられていると思います。

「天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す」(詩19:2)は、何と力強い言葉でしょうか。そして、どうやって神の意思を知るのか、という問いに、この言葉は答えてくれています。神の思いを知りたい、できればしっかりとした言葉で、と思っても、それはなかなか叶いません。

けれども、空を見上げることで、神の存在を一瞬にして感じ取ることもあります。それは、本来、誰にでもある感覚です。美しい夕日や、満点の星空や、空を切り裂く稲光に、わたしたちは足を止め、見とれます。そこには、創造主への予感があり、畏怖があるのではないでしょうか。日々の生活の中で、わたしたちは神を感じることができるのです。

 

人生において大切なことは、その全てが分からなくても、人生を一生懸命生きることだと思います。そのために必要なことは、自分に与えられている一生懸命生きる力をしっかりと受けとめることではないでしょうか。そのように生きる時、神は、わたしたちの人生を応援してくださると思います。

辛く苦しい時、空を見上げるわたしたちは、神から響いてくるものに心の耳を済ますことができる人でいたいと思います。    (小川宏嗣)

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2021年10月3日

7~9月の祈祷会でエゼキエル書から多くの励ましを受けました。エゼキエルはエルサレム神殿の祭司でしたが、BC597年の第1回バビロン捕囚により捕囚の民として連行され、ケバル川の河畔にいた時、預言者として召されます。希望なき捕囚の地で、天が開かれ、天の栄光を見ることから、彼の召命の出来事が起こります(エゼキエル1:1)。地上の現実は、都エルサレム陥落、エルサレム神殿崩壊、南王国ユダは滅び、異教の地に捕囚の民として連行される崩壊の現実が目の当たりにあります。神に選ばれた神の民の滅び。神は神の民を見放したいや、神はいるのか、と疑いたくなるような現実がありました。

しかし、そのような厳しい崩壊の現実の只中で、神は天を開き、捕囚の地で倒れ伏すエゼキエルの目を天へと高く上げさせます。天には神が臨在し、神に仕える天使が生きている姿が見えました。神はいないのではありません。確かに生きているのです。その神が全てのものが朽ち果ててしまった崩壊の現実の只中で、新しい業を行おうとしている。その新しい神の業こそ、エゼキエルを預言者として召すことから始まりました。神が指し示す天の幻を見ながら、これから始まるバビロン捕囚という厳しい現実と相対して行こう。エゼキエルの召命の出来事は、天の幻を見ることから始まったのです。

「幻がなければ民は堕落する」(箴言2918)という言葉があります。幻なき民は滅びる、ということです。この幻とはビジョン(英語)です。ビジョンとは、神から与えられ、神によって見せてもらうものです。それは信仰の眼差しで見なければ見ることは出来ないものです。

新型コロナ危機の中、わたしたちには厳しい現実が見えて来ます。しかし、神の民はそのような中で、神から与えられる幻(ビジョン)を見せられるのです。わたしたちはその幻を見ようとしているでしょうか。神が与えてくれる幻を見るからこそ、わたしたちは厳しい現実から目を逸らすことなく、それと向き合って生きることが出来るのです。  (小川宏嗣)

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2021年9月26日「『そこで、わたしは言っておくが、

不正にまみれた富で友達を作り

     なさい。」

(ルカによる福音書169節)。

 

イエス様は、友だちを作りなさい、と言っています。神様からいただいた、この世の富を、ただ自分のために使うのではなく、この世の富は、友を作るために使いなさいというのです。それでは、どうやって友を作るのかというなら、持っているものを無償で与えればいいのです。一番の友には一番いいものを与える、或いは、一番いいものに誘うことです。ですから、まさに礼拝に誘うということは、最高の友を作ることになるのではないでしょうか。

この世の富とは、お金のことだけではありません。自分の持っている健康、才能、環境、出会い等、自分が神様からいただいている、様々なこの世の富を天の富のために使う。つまり、友だちを作るために使うのです。

イエスが、そうすれば「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(ルカ16:9)と言っているように、持っているものを無償で差し出すことで、神の国の先取りができるということです。つまり、友を作ったから、天に迎え入れていただく、というよりは、むしろ、友をつくることで、そこにすでに天が始まっているのです。友を作って、豊かな関係が生まれる、喜びの繋がりが生まれる、そこがもう天国の始まりだということです。

 

教会は、神様から与えられた色んな富をたくさん持っています。だから、それらを用いて友だち作りをやって行きたいのです。教会は、持っている場所、情報、機会を無償で使って友を得るところです。教会の持っている富を用いることで、永遠の命に至る友が増えるのです。  (小川宏嗣)

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2021年9月19日

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイによる福音書913節)。 

 

本日は皆さまと共に礼拝に参加できることを嬉しく思います。私は嶋田健治と申します。生まれは福岡県直方市で、現在は西南学院大学の大学院神学研究科の2年目です。卒業論文では、マタイによる福音書59節に書かれている「平和を造る人」ということの具体性を研究しました。大学院では、マルコによる福音書525節-34節などに書かれている長血の女性の箇所を研究しています。当時の女性や「穢れ」への差別をイエスはなぜ、どのように乗り越えていったのかを調べています。どちらの研究も、現代社会へのメッセージとして大事なことだと思っています。 

夏休みも終わり、人生最後の西南での学期が始まりました。日常の時間はあっという間に過ぎていきます。その一瞬一瞬に私がここにいるということを踏みしめていたいと感じています。永遠ではない礼拝式の時間を共有し、共に生きていければ嬉しいです。 

 

            (西南学院大学大学院神学研究科 嶋田健治)

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2021年9月12日

「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」

            (イザヤ書463節)。

 

本日は高齢の方々の為に神様の祝福を祈る礼拝です。わたしたちの教会を支えてきた、今もこの教会を支えている、高齢者の方々に、輝いていただきたい、それが、高齢者祝福礼拝の目指すところです。

そして、今日ここで、特に祈りたいのは、高齢の方たちが、長い人生を神に祝福されて生きて来たこと、本当にこれは恵みだということ。何があろうとも、神様の祝福、神様の恵みが、これからも行きわたるように、ということです。そして、皆さん、いよいよ本番ですよ。ここからですよ、よろしくお願いします、そう祈りたいと思います。

高齢の方々は、選ばれし方々です。なぜなら、皆さんの年齢まで生きていたいと願いながら、叶わなかった大勢の先輩たちがいるからです。わたしたちは今、新型コロナ危機の不安と恐れの中にありますが、その天国にいる先輩たちが皆さんを励ましていますので、新型コロナ後の教会を立て上げて行く業を、一緒にやって行きませんか。

教会は神の家族です。家族と言うからには、とりわけ、高齢者が必要です。家族の中で、高齢の方々の果たす役割が、どれほど大きいか、それはもうわたしたちみんなが経験して分かっているはずです。

福岡バプテスト教会は、高齢の方々を中心に、もう一歩踏み出そう!それを確認する礼拝を、今日、献げたいと思います。わたしは選ばれているという、そのような信仰があれば、一歩踏み出せるはずです。

 

                          (小川宏嗣)

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2021年9月5日

 

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

(マルコによる福音書650節)。

 

キリスト教の神とわたしたち人間との関係は、お互いに信じ合える関係です。神はいる、ということを、一生懸命言葉で説明しようとしてもなかなか難しいです。それよりは、わたしが神を信じていて、神がわたしを守り支えてくれている、ということを感じ取ることが大切です。それは、お互いに本当に大丈夫、と言い合える関係、安心できる関係です。

そのためには、まず、わたしたちが隣人と信じ合える関係を作り出すこと、それが神から求められていると思います。そして、神はわたしたち人間同士が大丈夫だ、と言えるように、わたしたちを結び合わせてくれるのです。神はわたしたちを支え、導き、守ってくださいます。

しかし、神がわたしたちを見守ってくれるということは決して、辛いことや苦しいことが人生において起こらないということではありません。他者との関係の中で傷ついたり疲れたりしますし、将来に対する不安も恐れもあります。神を信じたからといって、困難を回避できるわけでもなく、壁にぶち当たらないわけでもありません。

けれども、たとえどのような人生を送るにせよ、信頼すべき存在があるということは心強いことです。そして、自分を信じてくれる人がいるということも勇気を与えてくれます。人は期待され信頼され、そのことを嬉しいと思えて自信をつけて行きます。そして、そこを出発点として更に人に期待し、信頼し合えるお互いの関係を築いて行くのです。

イエス様と弟子たちも様々な出来事を経て、そのような関係を築いて行きました。わたしたちも、他者と大丈夫と思える関係を、安心を与え合える関係を時間がかかっても築いていきたいと思います。 (小川宏嗣) 

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2021年8月29日

人の子よ、自分の足で立て。

わたしはあなたに命じる。

         (エゼキエル書21節)。

 

礼拝の基本の一つは、ひとりで神様の前に立つ、ということだと思います。神様の前では、わたしたちに後ろ盾はありません。年齢、性別、国籍、学歴、職歴、人種、民族、宗教等、また、どのような家柄、能力があろうと、今までどのような人生を送っていようと、それらは神様の前では何の意味もなさないのです。

自分が、裸の人間として、ひとりで神様の前に立ち、神様の語りかけを聞き、それに応えるところから、礼拝は始まります。もちろん、礼拝は、みんなで一緒に行うもの、献げるものです。祈りと思いを一つに合わせて行くものです。

けれどもそれは、まず、一人一人が、信仰的に自立してこそできるものだと思います。信仰の自立とは、目に見えない霊によってこそ人は立つ、ということです。目に見えるいかなるものをも頼りにしない、見えない神の愛のみを頼りにして自立していくのがキリスト者の生き方です。

わたしたち教会に集まる一人ひとりは、決して立派な人たちばかりではありません。仕事も色々、様々です。また、生き様も色々です。しっかりした人もいれば、そうでもない人もいるでしょう。しかし、最も大切なのは、ひとりで、しっかりと生きている、ということだと思います。

決して立派でなくてもよい、弱くても、だらしなくてもよいから、正直な、裸の自分として、神様の前に自分の足で立つことを、神様は望んでいると思います。                    (小川宏嗣)

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2021年8月22日

「天と地を造らなかった神々は/地の上、天の下から滅び去る、と。(エレミヤ書1011)

 

人に対して大いなる期待を抱き、結局は裏切られることがあります。正確に言うと、ありのままの相手を認めることなく、自分の中に形作った理想像を、勝手に相手に当てはめ、後でそれが間違いだった、と気づくことがしばしばなのです。また、逆にわたしがその対象とされることもあります。誰かから理想化され、戸惑うことがあります。本当のわたしを見て、と叫んでも、その人はわたしそのものを見るのではなく、その人の幻想をわたしの上にかぶせるだけです。やがて幻想が打ち砕かれると、人々は去って行きます。思えば、愛や憧れには、この理想化、幻想、思い込みがつきものです。

キリスト教信仰は、イエス・キリストへの愛の営みです。だから、当然、イエスに対しても理想化、思いこみが生まれていきます。「こうあってほしい」という自分の願望の投影としてのイエスを、わたしたちは知らないうちに生み出しています。しかし、それが幻想である限り、必ず打ち砕かれます。

イスカリオテのユダは、イエスを勝手にイメージしました。混乱するイスラエルを統率する王としてのイエス。ローマの圧制からイスラエルを救う強いイエス。賢く、尊敬される宗教家としてのイエス。しかし、十字架に向かうイエスは、弱く、愚かで、侮辱される人でした。幻滅を通り越して、ユダは絶望へと至ります。ユダのみならず、どれだけの弟子が絶望したことでしょうか。

人を愛するとは、その人のありのままを受け入れる、ということです。わたしの勝手な願望を当てはめるのではなく、現状の相手を直視し、信頼することが愛です。わたしの作り上げた、その人のイメージ・先入観を捨て切れることが愛です。神への愛も同じです。ありのままのイエスを受け入れる必要があります。そのためには「こうあってほしい」とのわたしの願望を投影したイエスとお別れしなければなりません。信仰とは、自分の思いこんだ神と決別することです。                        (小川宏嗣)

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2021年8月15日

「殺してはならない。」(出エジプト記2013節)。この神の戒めには何の条件もありません。しかし、人間は勝手に条件を付けていきます。隣人と呼ぶ範囲を勝手に区切り、そうではない人、敵は殺してもいい、そうやって殺すことを正当化していくのです。

  

この戒めの根底には、いのちを誰からいただいているのか、ということがあると思います。わたしのいのちは誰からいただいているのか、わたしの愛する人のいのちは誰からいただいているのか、そして、わたしが敵だと思っている、その人のいのちは誰からいただいているのか、それを考えることが重要です。

  ある人は、いのちは親から与えられたものだ、或いは、いのちは国家のものだ、お上から預かっているのだ、と言います。しかし、いのちは親のものでもありませんし、国家のものでもありません。わたしたちが今、生きているこのいのちは、神様から与えられたものです。

 

 だから、そのいのちを大事にしてほしい、いのちを粗末にするように誘う人の言葉に乗らないでほしい、自分は安全地帯にいながら、いのちを捧げなさい、と言う人の、誘いの言葉に乗らないでほしいのです。

 

 ただ、わたし自身は弱いので、「お前が殺されるぞ、お前の愛する人が殺されるぞ」と脅迫されたら、自信がありません。自分の代わりに、愛する人の代わりに、誰か知らない人を殺そう、そのように追い込まれていくかも知れません。だから、そこまで追い込まれないうちに、今できることをしていきたいと思います。殺さない一歩を、今、できるうちに、踏み出していきたいと思います。                      (小川宏嗣)

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2021年8月8日

新型コロナ危機の中、今、家から出られずに、ひとりぼっちで過ごす高齢者の方たちがいます。面会できない病院や施設で、家族にも会えないでいる人たちがいます。隔離された病室で、不安と戦っている感染者の方々がいます。疲れ果てて、ホテルで仮眠をとっている医療従事者たちがいます。仕事を失って住居を失い、路上で過ごしている人たちがいます。リモートばかりで家から出ることのない、一人暮らしの若い世代の学生の方々がいます。今、様々な現場で、様々な人たちが、たった一人で孤独に耐え不安に耐えながら、日々を過ごしているのです。

イエス・キリストご自身も、暗く、孤独な家畜小屋の中へと生まれて来ました。それは、暗く、孤独な日々を生きる全ての人たちと連帯するためです。「人がひとりでいるのは良くない」(2:18)と言われた神様は、「インマヌエル」、すなわち「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)という名の救い主を全て人たちに与えてくださったのです。

わたしたちは、これまでの人生でたくさんの人々に支えられ、助けられ、励まされてきた経験があるはずです。そして、たくさんの人々を支え、助け、励ました経験もあるはずです。ですから、今、どうしたらいいのか、どうしてはいけないのか、分かっているはずです。

お互いの困難な状況を思いつつ、離れていても、共にいる家族になって行く努力をしていきたいと思います。以前のように集まれなくても、なかなか会うことができなくとも、お互いの為に祈り合い、ひとりでいる人と連絡を取り合い、何か困ったことがあれば助け合うということです。

キリスト者とは、ひとりでいても、ひとりではない、という存在です。なぜならば、神様がわたしたちと共にいて下さるからです。そのことを証ししていきましょう。                       (小川宏嗣)

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2021年8月1日

 

「…まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになる…」

                              (ルカによる福音書642)

 

新型コロナ危機は、本当に何が一番大事で、本当に何に一番感謝しなければいけないか。本当に何を大切に守らなければいけないか、ということを明るみに出してくれたのではないかと思います。

 

 

これまで、色んなもので見えなくされていたものを、おが屑を取って見てみたら、神様が与えてくださった、新しい朝、今日一日の尊さ。そこで他者と出会って、共に過ごしている、この恵み。それがどんなに尊いことか、ということが、鮮明に見えてきます。

たとえば、今朝、主日礼拝に来る時、「さあ、行こう」と思って来るわけです。自由意志で来ているのです。しかし、よくよく考えてみると、様々な環境を神様が整えてくださっていますし、その人の中に、「教会に行きたい」と思う気持ち、憧れ、必要、そういうものを神様が用意してくださっています。

また、今日、歩けるという条件とか、今日は、そんなにひどい雨も降ってないという偶然とか、ありとあらゆる要素がある中で、まるで自分が自由意志で決めたかのように、「さあ、教会に行こう」と、立ち上がるわけです。しかし神様が、全部やってくださっているのです。

神様が全部、わたしたちを導いているのだと気がつくこと。神様の全ての恵みの中で、わたしは生かされている、動かされている、導かれて、守られている。そう感じることはとても大切です。

新型コロナ危機の中、迷いとか、恨みとか、恐れにずっと支配されて生きているのであれば、それは本当にもったいないと思います。一日一日、それは、かけがえのない大切なことだった、大切な出会いだった、ということを呼吸をするように心の中に入れていきたいのです。

 

今、ここで、いただいている、素晴らしい恵みに目覚めなければ、他に何を揃えても、本当の喜びはないのですから。          (小川宏嗣)

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2021年7月25日

新型コロナ危機の中で、家族や信仰の友のいる病院や施設にお見舞いに行くことが出来ません。それは残念なことですが、それでも大切な家族や信仰の友のために祈ることができます。わたしはこれまで、闘病生活をされた教会の方から、しばしば感謝されたことがあります。それは、教会の人たちの祈りによって支えられました。皆さんに祈っていただいていることが本当によく分かりました、という言葉でした。そのように、祈りには力があります。たとえ離れていても、とりなしの祈りによって、家族や信仰の友を支えることができます。

「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(ヤコブ5:15)とあります。信仰に基づく祈りというのは、「いささかも疑わない」(同1:6)、神に完全に信頼した祈りのことでしょう。そのような祈りは、その人を救い、起き上がらせると言うのです。ここで言われている「救い」とは、身体的な健康の回復だけのことではありません。

新約聖書の中に、イエス様に心身の病を癒された人たちのことが書かれています。この人たちはイエス様によって心身の病気の労苦から解放されます。しかし、それ以上に重要な事として聖書が記しているのは、この人たちが、イエス様とつながり、神様とつながり、そのつながりに希望を見出して歩み出したということです。そのような人たちが救われた人として証しされているのです。

心身の病が無くなるということはないかも知れません。しかし、わたしたちが祈るのは、痛みや悲しみの中にある人とつながるためであり、神様が、イエス様が共にいてくださり、痛みや悲しみを負っていてくださることを知らせるためなのです。                  (小川宏嗣)

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2021年7月18日

「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

       (ヨハネによる福音書414)

 

5月の下旬、お隣の汀幼稚園の園児たちは、自分の鉢に朝顔の種を蒔き、夏休み前まで、毎日、水やりのお世話をしていました。ある朝、ひとりの園児が、「あ、死んでる!」と、誰かの鉢の朝顔の花が萎れて垂れ下がっているのを見て、かわいそうに思ったのか、心配顔で教えてくれました。

でも、水をかけたら、あっという間に元に戻ったのです。もう無理だ、と思ったら、大丈夫だったという時の、何か救われた思いがしました。それにしても、命の力は凄いと思います。枯れたと思ったのに、水をかけると、一時間経たないうちに何事もなかったかのようにピンとはね、元気に立ち上って花をよみがえらせるからです。

わたしたちは今、自分に秘められた力を知らずにいて萎れたような顔していないでしょうか。実は、命の水を吸い上げたら、力を発揮出来るのです。一人ひとりの内なる可能性についてきちんと知る必要があると思います。自分が本当に輝いて、今、新型コロナの世界の中で、神様からいただいた力を発揮する。その力は全ての人の内に確かにあるのですが、肝心の水をやってないので、萎れたままの人生ということがあるのですから。

この場合の水は、神様からの力、神様から注がれる水でしかあり得ません。そのような、神様から来る命の水をしっかりと吸い上げて、今のこの状況の中で、精一杯一つひとつ出来ることを積み重ねて行きましょう。そうすることで、美しい花を咲かせて行きましょう。         (小川宏嗣)

 

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2021年7月11日

「…だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。人の怒りは神の義を実現しないからです。」

     (ヤコブの手紙11920)

 

わたしたちにとって耳の痛い言葉です。相手の思いや言い分は聞かずに、自分の思いや言い分を一方的に押し通そうとする。また、怒りにまかせて言うべきではない言葉を発してしまう。相手の心を傷つけてしまい、相手との関係性まで破壊してしまう。そのようなことを繰り返してしまうからです。

今、わたしたちに必要なものは「想像力」、他者の痛みに対する想像力ではないでしょうか。相手が自分と同じ人間であるということは、目の前にいるその人も自分と同じように人格をもち、日々、自分と同じように悩み喜びながら生きているということ。自分と同じように痛みを感じ、日々、懸命に生きている、ということ。わたしたちは時に、この当たり前のことを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。

怒りに駆られて言葉を発しそうになる時、わたしたちは心を落ち着けて、人の痛みへ思いを馳せることが求められます。話すことに遅く、怒ることに遅く。これは確かに難しいことですが、祈りの中でこのことを行おうとする時、わたしたちは既に隣人への愛を実践していることになります。イエス・キリストの道を歩んでいることになるのです。

イエス様の愛の教えが、わたしたちの心に確かに宿されていることを信じて、わたしたちが隣人を愛する教えを心に受け入れ、それを実行してゆくことができるように、人を大切にするためのキリストの道を、一歩一歩、共に歩んでゆくことができるように、祈りたいと思います。   (小川宏嗣)

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2021年7月4日

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、

この命が御子の内にあるということです。」(ヨハネの手紙一511節)。

 

証しとは、何かを証言すること、証明することです。信仰による証しの本質は、神の恵み、神の救いを証言し、実際に生活することでその恵みを証明することです。聖書の言葉で言えば、「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと…」(Ⅰヨハネ5:11)を証言し、証明することだと言い換えることができます。

しかし、永遠の命なんて、よく分からない、証しできない、と思うかも知れません。でも、難しいことではないのです。教会で神様を礼拝し、聖書の言葉を聞き、自らも聖書を読み、とても嬉しくなった、励まされた、元気が出た、勇気が出た、そう思ったら、あなたの命はもう既に永遠の命です。イエス様ならどうするか、何と言うか、それを考え、少しでもイエス様のように人を愛せるように心がけたいと思う。そうしたら、あなたの命はもう既に永遠の命なのです。それは神とつながった命、イエス様が宿る命です。

永遠の命とは、この世で永遠に生きることではありません。神とつながっているということです。イエス様を通して神様とつながった命です。これは永遠です。そうなると、命の使い方、生き方が変わってきます。神を信じ、神の言葉に聞き従い、神の愛を受け入れて、自分もイエスのように人を愛して生きるようになっていく。そんな一日一日の積み重ね、一歩一歩の歩みです。

 

聖書の言葉を聞いて、これが大切だと思っている、感謝している。イエス様を信じて、こんなふうに生きてみようと思っている。教会に来てよかった、イエス様を信じてよかった。そう言えたら、それは神の恵みの証し、永遠の命の証しなのです。                      (小川宏嗣)

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2021年6月27日

「だから、あなたがたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイによる福音書66)

 

汀幼稚園の朝礼での先生方のお祈りに感動させられています。人前で祈ることは、キリスト者でも敬遠する人が多いのに、日々、キリスト教幼稚園では朝礼で祈り、こどもたちとの祈りの共有を大切にされているからです。

イエス様は祈りについて、「人に見てもらおうとして祈るな」(マタイ6:5)、「くどくどと言葉数多く祈るな」(6:7)と教えています。祈りには上手な言葉は必要ない、祈りは神様とお話しすることだから、つたない言葉で構わないと言っているのです。

更に大切なこととして伝えているのは、当時の宗教指導者たちの、外見を重視し、目立つような祈りは、「既に報いを受けてしまっている」(同6:5)ということです。つまり、人々からの賞賛という報いを受けてしまっている。人からの賞賛をいっぱい受けて満足しているならば、もはやその人は神様からの誉れ、神様からの報いを求めることはない、ということを問題にしているのです。

わたしたちの奥の、もっと深い処に、隠れた処にある。その隠れた処に、一人の方がいる。その隠れた処にいる方は、わたしたちの隠れたことを見ている神様です。わたしたちがその方と、どう関わって生きているのか。隠れた処において、どんな祈りをもって生きているのか、ということが問われています。

 

イエス様は神様との1対1の関係に立つ祈りを第一とした生き方を求めています。密室の祈りの大切さ(同6:6)を勧めています。それは神様の前に自分をさらけ出し、あるがままに受け入れられ、赦された存在として、一人で祈るのであり、その目的は他者と共に生きるためにあるのです。他者と共に生きるためにこそ、わたしたちは一人で祈ります。         (小川宏嗣)

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2021年6月20日

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書1334)

 

今、新しいものは、やがて古くなります。この世の真理です。自分で生み出したもの、自分たちで決めた掟は変わり、すぐに古くなってしまいます。

イエス様は、「あなたがたに新しい掟を与える」(ヨハネ13:34)と言いましたが、この、“与えられたもの”こそが、常に新しく、最も尊く、永遠に意味があります。神様から愛と恵みを与えられている、神様から存在と命を与えられているこの神様から与えられた本来的なものこそが尊く、わたしたちを救うからです。

「あなたがたに新しい掟を与える」は、イエス様が、殺される前の晩の遺言として残した言葉です。その言葉は、その翌日、神様の究極の愛として、十字架上で実現します。「わたしがあなたがたを愛したように」というのは、わが子のためなら命も捨てるというような親の愛のことです。何の見返りもいらない。徹底して、どこまでも愛する。罪人であろうが、悪人であろうが、徹底して愛し続ける。神様が、そのような愛を、わたしたちに見せてくれました。

わたしたちは、それを知って、感動し、感謝し、安心して、この方を信じます。そして、本当に細やかながらでも同じような愛を少しでも、わたしたちが持てた時、証し出来た時、そこに神の国が現れます。細やかでいいのです。少しでも親切にしたいとか、少し我慢するとか、少し許そうということが大事です。たくさんはできません。少しでいい、それをわたしたちが経験する時、神の国は実現しているという目に見えるしるしになるのです。

 

だからわたしたちは“新しい掟”を生きて行きます。    (小川宏嗣)

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2021年6月13日

「自己紹介と、コロナ危機で想うこと」

長住バプテスト教会の牧師をしています、中條譲治(ちゅうじょう じょうじ)です。千葉県船橋市で牧師の家庭で生まれ、育ちました。神学校は、東京三鷹にある東京神学大学で6年間、その後、西南学院大学神学部専攻科で1年間、学びました。西南の専攻科に在学したのは、30年前の1991年です。研修教会は鳥飼教会でしたが、福岡教会の夕礼拝に出席した思い出があります。当時の牧師は、栗本先生であったと記憶しています。神学校卒業後は、東京の大久保教会で6年間、静岡の三島教会で17年間、牧会をしました。福岡の長住教会に赴任して7年、現在、牧師30年目となります。

そのような節目の時に、新型コロナの感染拡大によって、教会と私自身の働きが揺さぶられることになるとは想像もしませんでした。これまで積み上げて来たものが崩れていくのです。礼拝に集まることができない、教会学校の学びもできない、食事を通しての交わりもできない、更には家庭訪問さえ困難になってしまいました。教会が壊れていく、そして、私自身の知識や手法も無力で役に立たなくなることを痛感する体験です。

私は、2018年に出版された『日本バプテスト連盟七十年史』において、「教会闘争」について執筆しました。1970年頃、学生たちが中心となって、反戦平和を謳い、肥大化する国家権力を批判しました。その批判は教会の在り方にも向けられ、「教会解体」ということも叫ばれました。私個人は、そのような若者の熱狂について行けませんが、その批判精神と「解体」という言葉に少し惹かれるものがありました。

その「教会解体」が、今、全く予想もしなかった別の形で襲って来ました。前述のように、コロナで、これまで教会が積み上げて来たものが崩れていくのです。けれども、解体は解体で終わるのではありません。止揚されるのです。壊れて、また、新しいものが生まれ、造られていくのです。先日、ある雑誌で、「システムを壊して、コミュニティを存続させる」という言葉を読みました。これまでの教会は、そして、牧師である私も、教会の「システム」(制度)ばかりを作り上げることに熱心だったのではないか、と思わされました。今、そのシステムが崩れ、解体されつつあります。しかし、その中でこそ、もう一度、教会の在り方が見直され、真の「コミュニティ」(共同体)、新しい教会の交わりが生み出されていくことを期待したいと思います。 (長住バプテスト教会牧師 中條譲治)

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2021年6月6日

「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。」        (マルコによる福音書135節)。

 

「人里離れた所」とは、「ディスタンス」のことです。離れることは大事です。一旦離れて、一人で祈る時期が本当に必要で、その後、イエス様は、「他の町や村に行こう」と宣教の働きに出発したからです。

 

イエス様の人里離れた所に出て行って祈っていたという、その祈りは何だったのでしょうか。豊かな想像力を働かせていたのだと思います。あの人たちはこんなふうに辛いだろうなとか、この人たちもこんなふうに苦しんでいるなとか、そういう人たちに、どんな語りかけが相応しいか、どういう救いの業が必要か、どうやって絶望している人たちを希望の光で喜ばせることができるだろうかと、思い巡らしていたのではないでしょうか。

 

苦しみを抱えて教会に来れない人もいます。救いを求めているけれどどうしていいか分からない人もいます。仲のいい人たちの集まりにはハードルが高くて近づけない人もいます。「自分なんかもう救われない」と思ってあきらめている人もいます。イエス様を探している、この大勢の方たちのことを、少しでも想像する、それは、愛です。

 

 

再び自由に活動できる時に向けて、わたしたちは想像力を働かせていたいと思います。今、教会活動を休んでいる間に、行きたいのに行けなかったという人たちが大勢来る、そんな時のために、癒しともてなしの教会を準備して行きましょう。                    (小川宏嗣)

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2021年5月30日

「パウロはこのテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。…」(使徒言行録163節)。 

 

パウロが第二伝道旅行にテモテを同行させる為に取った行動は、テモテに割礼を授けることでした。その理由は、「その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた」というのです。これは驚くべきことです。なぜなら、パウロは第二伝道旅行の直前、エルサレム使徒会議で、「人が救われるために割礼は不要である」(15:11)と、誰よりも強く主張した人だからです。その同じパウロがテモテを伝道旅行に連れて行くために、こともあろうに「ユダヤ人の手前」という理由でテモテに割礼を授けた、というのですから、それは矛盾であり、支離滅裂ではないかと考える人がいても当然だと思います。 

しかし、わたしはこのパウロの判断を尊重したいと思います。伝道に求められることは、自分自身が立てた原理・原則を貫くことだけではないからです。原理・原則も重要ですが、現実の中で形を変えていくものです。目の前にいる人々の様々な必要に応えることは伝道においては重要です。時には、原理・原則を後回しにするということさえ、伝道の働きの現実の中ではあり得るのです。その場その場で状況に応じた適切な手段を取ること、自由に変化できること、柔軟な姿勢を持つことが大切です。自分自身の立てた原理・原則に悪い意味でとらわれ、こだわることは、硬直した姿勢であり、頑固な態度です。これは、伝道の現場においては少しもプラスになることはありません。このことを、わたしたちはよく知る必要があります。 

今、どれだけ多くの人たちが閉塞状況にあり、どれほどの困難を抱えているか、もうわたしたちには分かっています。家族として助け合う教会、そんな小さな神の国としての教会が求められています。  (小川宏嗣)

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2021年5月23日

「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じている…」(使徒言行録1511節)。

 

アンティオキア教会で、パウロとある人々との間に論争が起こりました。論点は「キリスト者になる」とは、どういう事かです。パウロの主張は、「人が救われるのは主イエスへの信仰による。信仰は神の恵み。その神の恵みによって、信仰によって人は救われる」(使徒15:11)、キリスト者になる為に、それ以上の条件は何もない、というものでした。

ところが、その主張を受け入れる事ができなかった人々は、キリスト者を名乗るからには「モーセの律法」に基づいて割礼を受けなければならないと考えます。その人々は割礼を受けていました。「自分の生きてきた道は正しい」と確信を持ち、教会の中に割礼を受けていない人がいることが許せなかったのです。この対立はとても深刻で、感情的にも激しいぶつかり合いへと発展します。感情的な激突を避け、和解をもたらす為の知恵は何か、それは会議を開く事、それが人間の知恵、神の教えだったのです。2000年前の教会も、教会内の紛争を処理するという目的の為に教会会議を開いたのです。

過日、当教会も定期総会を行いました。教会会議を支配しているのは、わたしたち人間の思いではなく、神ご自身です。人間の思いの支配する会議は教会会議ではありません。そこには赦しも慰めも救いもないからです。しかし、教会会議には許し・慰め・救いがあります。そこに集められた人々の信仰の内に、神ご自身が宿ってくださるからです。

但し、教会会議も間違いを犯します。しかし、教会会議が犯した間違いは、次の教会会議で神ご自身が訂正してくれます。だから、わたしたちは、教会会議の主を信頼するゆえに、この教会会議で共に生きる道を模索することができるのです。

                 (小川宏嗣)

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2021年5月16日

このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」

         (使徒言行録1126節)。

 

今から2000年前、キリスト教会は異邦人伝道を開始しました。ステファノの殉教(使徒8:13)をきっかけにエルサレム教会に対する大迫害が起こります。エルサレム教会の人々はユダヤとサマリアの地方に散って行きます。新しい状況に足を踏み入れ、新しい出会いの中で、異邦人たちの中からイエス・キリストの福音を信じて救われる人々が生み出され始めます。教会は、聖書の伝統的な解釈を捨て、異邦人もまた、何の差別もなく、教会員として受け入れることができる、と認めました。

エルサレム教会から派遣されたバルナバとサウロの二人がチームを組み、アンティオキア教会を拠点にして異邦人伝道を始めます。大切な事は、2000年前の教会において、現実の場面では、生きた事実の方が先行し、教会の決め事や方針は、事実の後から追いかけていくことになったという事です。「聖書にはこう書いてある。だから、こうすべき」との主張は重要です。しかし、もっと重要な事、それは目の前の現実、目の前で生きている人間が重要です。今、ある現実と、今、生きている人間の存在は、いかなる原理・原則によっても、踏みにじられたりされてはならないからです。人を生かすことが神のみ言葉に生きる者たちの使命であり責任です。

バルナバとサウロの伝道の成果として、アンティオキア教会員が、歴史上初めて「キリスト者」と呼ばれるようになりました。恐らくあだ名で「キリストさん・キリストくん」の意味です。「このわたしとキリストとは切っても切れない関係にある」ということを、自分も、周りの人々も認めて、そのことを本当に心から喜び、誇りに感じる、そんな生き生きとした信仰の持ち主たちが生み出されて行ったのです。

わたしたちはキリスト者であることを心から喜び、誇りに感じているでしょうか。存在そのものにおいてキリスト者になりきれているでしょうか。  (小川宏嗣)

 

 

2021年5月9日

すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。…」(使徒言行録918)

 

「目からうろこのようなものが落ち」(使徒9:18)とありますが、「うろこ」は半透明で、少し濁ったコンタクトレンズのようなものです。それがサウロ(パウロ)の目に入っていて、それがポロリと取れたら、すっきり見えるようになったというのです。

そのうろこは、サウロにいつから入っていたのでしょうか。サウロが生まれてからずっと、ある環境、ある教え、ある律法、ある人間関係の中で育てられてきて、サウロ自身のうちにある、本当に素晴らしいものが塞がれていたということではないでしょうか。

どうやったらそれは落ちるのでしょうか。イエス・キリストとの出会いによってです。サウロは、いきなり光の体験をします。一方的に、イエス様が近づいて来て、光にドーンと包まれて、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(9:4)とイエス様が聞き、「主よ、あなたはどなたですか」(9:5)とサウロは問い、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9:5)とイエス様は答えるのです。

目にうろこが入っていると、神様が見えません。神様が造った素晴らしい世界が見えないのです。神様から与えられた、このわたしの本当の輝きが見えません。サウロは、その光が当たって、見えたのです。その光が当たって、はじめてサウロは輝いたのです。

神の光が、このわたしを包んでいる、照らしている、このわたしを輝かせているという、それが見えるようになればと思います。それが見えたら、もう、とても静かな喜びと希望が溢れてくるのですから。神の光を全身であびましょう。                       (小川宏嗣)

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2021年5月2日

イエス様は言います。「あなたがたのうち、二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(マタイによる福音書1819)

わたしたちは色々なことを求めて祈ります。けれども、祈りはひとりで、自分のことを祈っていないでしょうか。もっと自分がこうありたい。この苦しみから救ってほしいと、ひとりで神様に祈る。それは普通のことです。しかし、その祈りはキリスト教の本質ではありません。

 

イエス様が強調するのは、二人が、心を一つにして求めるなら、天の父はかなえてくださる、ということです。だから、誰かと祈らなければなりません。でも、誰かと心を一つにして祈るためには、その誰かが、何を願っているか、何に苦しんでいるのかを知らなければなりませんし、その誰かを本当に信頼して、自分の心も開かなければなりません。そうでないと、心を一つにできないからです。

 

お互いのために祈り合いましょう。心を一つにして求めることが大事です。自分の祈り、自分の願いというより、隣りにいる、見も知らぬ人かもしれないけれど、この人の心の願いが叶いますように、という祈りがいいのです。そうすると自分も祈られることになります。

 

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」(18:20)。この教会が、イエス様が共にいる集まりであることに、わたしは感動しますし、そのような集まりとし、今日も祈りを献げたいと思います。お互いのために真心から祈りましょう。  (小川宏嗣)

 

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2021年4月25日

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書535)

 

イエス様の、「幸いである」という言葉に、イエス様ご自身の並々ならぬ決意を感じます。心底貧しいのに幸いだ、泣いているのに幸いだというのは、この世の常識からすると矛盾しているように聞こえます。

しかし、このイエス様の言葉に、この世界でどれだけ貧しくされようとも、泣くことがあったとしても、あなたたちは神の子であるから幸いなのだという、揺るがないイエス様の決意を感じるのです。

わたしたちには失敗も弱さも汚さもいっぱいあります。しかし、そのような表面的なことでは決して消えることのない誇りがわたしたちの中にあります。それは、神の子としての誇りです。

病気、老い、死という試練に遭うと、全て失うかのような恐れを感じますが、その恐れよりも恐いのは、その恐れによって誇りを失うことです。だから、人として失敗しても、この世でうまくいかなかったとしても、神様から生まれた神の子としての誇り、それだけは決して失ってはなりません。

神様はあなたを愛して生んだのです。だから、あなたには尊厳があるのです。それは、どんな暴力をもってでも決して奪うことができないし、どんな悪い環境でも汚すことができません。わたしたち人間が生涯、決して手放してはならないのは、そのような神の子としての誇りです。

 

イエス様は言われます。「悲しんでいるあなたに幸いあれ。今、あなたに、どんな悲しみをも喜びに変える祝福を与える。この祝福だけが、あなたを慰めることができる。だからわたしを信じなさい」。     (小川宏嗣)

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2021年4月18日

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書118節)。

 

聖書は、神様を見た者は誰もいないし(ヨハネ1:18)、手で触ることも耳で聞くこともできない(Ⅰヨハネ1:1)と言っています。それが切なく、歯がゆいところですが、聖書に向き合って生きていくうちに、神様を感じる経験をすることができます。イエス様は30数年の生涯を人間として生きたのですからイエス様の生き方を知ろうとすれば、少しずつ神様を知ることができます。なぜなら、イエス様は神様に対して、「父よ…」と呼びかけられたからです。

聖書と共に生きることのもう一つの醍醐味は、人生の様々なマイナスと思われることが、マイナスに終わらずプラスに変わっていくことを知ることが出来ることです。生きていく上での苦しみは多くありますが、その経験によって人を愛することを知ることができます。今まで知らなかった自分自身を発見することもあります。そして、人生そのものが、人と神様との繋がりによって織りなされていることも知るようになります。

人の目から見れば、醜いこと、弱いこと、苦しいこと、愚かなことは無価値に思えることでも、神様は、その無価値に見えることの真実の価値をわたしたちに示そうとされます。病気も老いも病も、わたしたちにとっては不条理そのものですが、聖書と向き合う時に、不思議な光を放ちはじめます。

しかし、どんなに言葉を尽くしても、わたしは聖書の魅力をお伝えできません。だから、どうか聖書を読んで下さい。そして教会で聖書を一緒に分かち合いましょう。                   (小川宏嗣)

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2021年4月11日

「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」

(マタイによる福音書2810節)。

復活したイエス様と弟子たちが出会う場所がガリラヤと言われています。ガリラヤとは、イエス様が生まれ育ち、多くの貧しい同胞と一緒に苦しい生活をした場所です。あちこちの街や村を訪ね歩き、人々を教えたり、病気の手当てをして、地道な活動をしました。そこはイエス様にとって、嬉しい思い出がいっぱい詰まっているところです。また、人々にとっても喜ばしい思い出が溢れているところです。そこでは、イエス様を中心にして、食べ、飲み、看病し合い、祈り合う群れが作られていました。イエス様は、人間にとって一番大切なこと、食べること、癒すこと、祈ること、つまりは愛することが人間にとって一番大切なことであると教えてくれたのです。そのガリラヤでこそ、わたしの原点がある、その原点に帰りなさい、と復活のイエス様が指し示してくれたのです

わたしたちは神に愛された教会、キリスト者です。だから、愛される喜びを伝えたいと思います。わたしたちがそれを実行できる場所が、わたしたちのガリラヤです。わたしたちは、それぞれのガリラヤで、イエス様が愛したように、自分も人を愛せるでしょうか。みな、神様に愛された人として、他の人を大切に扱うことができるでしょうか。働くことができているでしょうか。祈ることができているでしょうか。でも、もし、それができていなくても、チャレンジするわたしたちをきっと神様は赦してくれます。イエス様は  ここにはおらず、もう先に行って、愛の業を行なっています。だから、小さくても自分にできることを、ささやかでも、失敗を恐れず実行することで、イエス様の復活の証人となるのです。          (小川宏嗣)

 

 

2021年3月28日

…イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』」(ルカによる福音書1842節)。

 

ある牧師先生が、どうして牧師になろうと思ったか、ということを話してくださったことがありました。その牧師先生は大きな病気になり、その病気のために、目を見えなくするという大変な手術をすることになったのです。目を見えなくする手術をして、病気がそれ以上、悪くならないようにしたのです。その先生は、「見えるものを、見えなくする、それがわたしの十字架になったのです」と言われました。

苦しいこと、悲しいこと、つらいこと、どうにもならないこと、もうどうしようもない、というようなことを、わたしたちも経験します。それを十字架と言います。イエス様も死の十字架を経験されました。

でも神様は、わたしたちをそのまま十字架で終わりにされないで、このままで終わらないのだよ、と希望を与えてくださいます。このように、十字架をとおして見る希望を、復活といいます。

この牧師先生は、この希望を与えられて、牧師になろうと決心した、というお話でした。この牧師先生の信仰がご自身を救ったのです。そのことが、見えるようになることだと、わたしは教えられたのです。

見える、ということは、イエス様の十字架と復活において示されていることのように思います。たとえ、わたしたちの目に見える現実は十字架であったとしても、なお復活の希望を持つ時、そこに信仰によって見えるという世界が開かれていくからです。

 

神様がわたしを愛していてくださる、わたしを招いていてくださる、ということに気づいていきたいと思います。         (小川宏嗣)

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2021年3月21日

はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書2540節)。

 

どんな時に自分のことを小さく感じるでしょうか。恥ずかしい時、叱られた時、力を出しきれなかった時など、わたしは自分のことを小さいと感じます。また、愛を感じる時、わたしは自分を小さく感じます。神様を思い、その愛を思うと自分の小ささを感じます。人の愛でも同じことが言えると思います。

また、孤独ということも、人を小さくします。「飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、着るものがなくて裸でいる人、病気の人、牢に捕らわれている人」(マタイ25:3536)と、イエス様が聖書で譬えている人たちは、それぞれ孤独を背負って、小さく、弱くされている人たちです。

ひとりぼっちになった辛さは、誰もが経験しているのではないでしょうか。寂しかったことを思い起こして、世界のこと、日本のこと、地域のこと、職場のこと、学校のこと、家族のこと、友だちのこと、自分のことを考えると「小さい者」という意味がよく分かります。イエス様の言われた小さい者というのは「最も身近な、わたしのこととしての隣人のこと」であるのです。

更に、驚くべきことに、その最も小さい隣人の中に、イエス様が隠れているというのです。わたしたちは、最も小さな者の一人との出会いの中で、神様と出会うことができ、神様がわたしたちに、何を求めているのかを知ることができるのです。

この「小さい者」と言われる人、「隣人」のことを、今、ここに、イエス様がいたら、どうするだろうか、と考えることがイエス様に従う第一歩となるのです。                         (小川宏嗣)

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2021年3月14日

岡バプテスト教会での研修の時を終えようとしています。これまでの2年間、教会の財政状況が大変な中で研修神学生を受け入れてくださり、心より感謝いたします。研修期間中、福岡教会の皆様から、神学生に対する熱い思いをたくさん受けました。祈りや物的支援もたくさん受けました。定期的に食料をくださった方もおられました。この困難な状況を共にし、その中でなおも皆さんから熱い祈りと支えを受けたという体験は、私たち家族にとって生涯忘れることができないだろうと思います。 

一方で、私からはほとんど何も皆さんにお返しができなかったという思いが強く残っています。そればかりか、自由に振る舞ってしまう私を暖かく見守り、受け止めてくださった皆さんにあらためて感謝があふれてきます。 

今日の聖書でイエス様は「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)と語られました。 

最も小さい者を尊び、支える信仰。それを引き継ぐ者は神の国が完成する終末の時に、国を受け継ぐと記されています。教会という共同体の中で互いに支え合うと共に、この時にこそ私たちは外にも目を向けていたいと願います。 

神様は、私たちの全てを知っておられます。どんなに小さな思い、どんなに小さな声も、神様は受け止め、とらえていてくださいます。今できることは少ないかもしれません。しかし、私たちが小さき者と共に生きようとする時に神様はそれを喜び、それは「わたしにしてくれたことなのだ」と語ってくださいます。 

受難節を迎えています。私たちの回りには多くの声にならない痛みや苦しみが溢れています。痛みと沈黙の時を超えて復活し、私たちに生きる希望を与えてくださった主イエス・キリストが私たちと共にいます。究極の愛と憐れみを人間に示してくださった、このイエス・キリストに突き動かされて、恐れずに歩み出しましょう。

 

                            (奥村 献) 

2021年3月7日

「…あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカによる福音書750節)

 

聖書には、「罪深い」とされている一人の女性が、香油の入った石膏の壺を持って来て、イエス様の足を涙でぬらし、そして香油を塗ったということが記されています」(ルカ7:3650)。香油は当時、大変高価なものでしたから、きっとその人が大事にしていたものであったと思います。一番大切なものであったかも知れません。

なぜ、この人は香油を塗ったのでしょうか。聖書には、「わたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と、イエス様が言ったということが記されています(マタイ26:12)。わたしの罪の贖いのために、十字架の道を歩まれるイエス様を、最も香り高い香油をもって送った、ということでしょう。

そして、香油を献げることによって、自分の信仰の救いも経験したのです。今、わたしたちも、この人のように、イエス様に出来る、わたしたちの香油について考えたいと思います。

イエス様は、「最も小さい者の一人にしたのはわたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言われました。

わたしたちも、それぞれ置かれているところで、与えられている信仰の香油に気づいて、それを注ぎ出す者でありたいと思います。

コロナ危機の中、いと小さくされ、弱くされている人たちのために、わたしたち一人ひとりが、時間や場所、労力を工面して注ぎ出すことが、キリストの香りを放つということになるのだと思います。そして、そこに、「あなたの信仰があなたを救った」(ルカ7:50)という、イエス様の言葉が語られるのです。

                            (小川宏嗣)

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2021年2月28日

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳うちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

(マタイによる福音書102628)

上句の聖書には、「恐れるな」という言葉が三度も出てきます。神を信じるということは、神のみを恐れる、ということです。神を本当に恐れることを知っている者だけが、神以外のものは何も恐れなくていい、ということが分かるのです。

新型コロナウィルスは、この世界を恐れさせ、不安に陥れます。わたしたちの命を脅かし行動を制限させ、思い通りに事を運ばせず、誰もが厳しい状況です。教会も活動を制限されています。

しかし、わたしたちを中心に置くと確かに新型コロナウィルスは恐怖ですが、わたしたちではなく神を中心に置いたら、この新型コロナウィルスはどんな存在になるのでしょうか。

イエス様が12人の弟子を宣教に派遣する際(マタイ10:1)、ご自身が最も心配したのは、弟子たちの恐怖心でした。当時、いろいろな迫害が予想されたからです。

今、わたしたちも恐れながら生きています。しかし、恐れなくてもよいものに振り回され、真に恐れなくてはならないものを見失ってはいないでしょうか。真に恐れなくてはならないもの、それはわたしたちを創り、わたしたちを愛し、導き、支えてくださる神です。

 

肝心なのは、「あなたは神様から愛されている」ということです。「何だ、それなら恐れることはないのだ」と気づくことです。だからわたしたちは、コロナ危機の中にあって「全ての人が分け隔てなく神様から愛されている」ということを人々に伝え働いて行きたいと思います。      

                           (小川宏嗣)

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2021年2月21日

西南学院大学神学部の原田賢と申します。私は、2010年から2012年まで約2年間、福岡教会に在籍しておりました。懐かしい方々や、今日初めてお会いする方々と共に、主に礼拝を献げることができることを嬉しく思います。そして、4月からは日本バプテスト春日原キリスト教会に牧師として就任いたします。同じ福岡にあるキリストの群れとして、これからも交流の機会があるだろうと思います。今後ともよろしくお願いいたします。 

COVID-19が騒がれ始めてから、一年が過ぎました。この間、世界中がこの新型ウイルスに振り回され続けてきました。毎日、感染状況や感染対策に関する情報が、テレビや新聞、インターネットから入ってきます。世界中の人々が、それまでの生活形態を問われ、何かしらの変化を余儀なくされてきました。私たち、キリスト教会も例外ではありません。これまで当然と思ってきたこと、取り組んできたことが次々と出来なくなりました。今まで通りにはいかない。しかしどうしたら良いかも分からない。そんな不安を、私自身、ひしひしと感じながら歩み続けています。 

福岡教会の今年度の主題テーマは「みことばに生きる教会を立てる」だとお伺いしました。このような不安定な日々の中、「みことばに生きる」とはどのようなことなのでしょう。状況がどう転ぶのか、先行きが見えない中で、私たちの主は、何を語りかけておられるのでしょうか。 

今日は、エレミヤ書の言葉を一緒に聴いていきたいと思います。イスラエルという民族が二つに内部分裂し、さらに周辺諸国からの脅威にさらされ続けた時代。内側にも外側にも、不安と恐怖が渦巻いている状況の中で語られた言葉です。大変な現実のただ中で、「あなたの未来には希望がある、と主は言われる(3117節)」。そんな語りかけに耳を傾けながら、「みことばに生きる」ということの嬉しさに、一緒に思いを馳せることが出来たら嬉しく思います。                      (原田賢) 

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2021年2月14日

わたしは山に向かって目をあげる。わが助けは、どこに来るであろうか。わが助けは、天と地を造られた主から来る。」(詩篇12112節)。

 

この詩篇の言葉を、わたしは最初は希望の歌だと思い込んでいました。山に向かえばかすかな希望が湧いてくる、差し向けたのは、希望にあふれた眼差し、単純にそう受け止めていました。

 

しかし、詩人が実際に見たものは、ユダヤの荒野にそそり立つ峻険な岩山でした。見上げれば、赤茶けた岩肌が立ちはだかるばかり、ひとかけらの希望もそこからは感じ取れない、そうした思いに打ちのめされていたことでしょう。それでも、詩人は、山に向かって立ちました。あえて目をあげたのです。「助けはどこからくるのか」と、自らに問うたのです。

 

この詩人が自分に向かって、そのような問いを問うことができたのは、どうしてでしょうか。それは絶望の山に触れたからだと思います。自分には今、何もないのだ、心底そう思えたからです。自分には何もない、そう思える瞬間、人は初めて真剣に、自分に向かって問いを差し向けるのだと思います。

 

 

そこから生まれるのは、不足を補おうとする意志です。これは、自分自身の中で、不足を実感しない限り持つことはできません。不足から逃げず、むしろ不足に向かって立つこと、そこから何かが始まるのではないでしょうか。                          (小川宏嗣)

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2021年2月7日

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」

      (マタイによる福音書93538節)。

 

イエス様が回った町や村には、会堂があり、そこには祭司や律法学者や長老たちもいた。しかし、それにもかかわらず、その町や村の中に「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群集がいたという。

この荒戸には福岡バプテスト教会がある。牧師や執事も信徒もいる。もし、この教会の外にも内にも「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集」がいるとするならば、これは牧師や執事や信徒が、教会が、少しも人々の必要に応えていないということではないか。

イエス様の周りに集まってきた群集は、心の底から飢え渇き、助けを求めていた。ところが会堂はこの群集の必要に少しも応えていなかった。イエス様は、助けを求めている人々には与えなければならないと言っている。

さらにイエス様は言う。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)。わたしも“ただ”で救われたのだから“ただ”で与える人生を送ること。そう真剣に考え、生きる人がイエス様の時代にはいなかったのだろうか。誰も彼もが自分の利益のためだけに生きる。宗教家たちでさえそうだとしたら、さまよう人々も後を立たないのではないか。

この時代はどうか。飼い主のいない羊のように弱り果てている人々はどこにいるか。わたしたち自身がそうか。わたしたちの一度しかないこの人生をイエスの弟子として生きること、そして目の前の困っている人々を助けること、そのために自分の人生を用いることができる人は幸いだ。(小川宏嗣) 

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2021年1月31日

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された(ヨハネによる福音書316)

 

教会の奉仕の最も中心に来るべきものは「神の言」です。神の言とは、神の働きをあらわすことです。初代教会の使徒たちが奉仕を通して、最も大切にしていたことは、神の働きをあらわすことでした(使徒6:2)

しかし、次第にそれが出来なくなり、神の言が奉仕の中心からずれてきました。そのことが教会の交わりの破綻する大きな原因となりました(使徒6:1)。使徒たちは、もう一度、神の言を教会の中心に持っていくこと。神の言に仕える責任をおろそかにすることは、神の前に好ましくないことを再確認しました。

ところが、その時の教会の現実は、使徒が何でもやらなければならない、使徒を支え助ける人がいないというものでした。使徒も人間ですから、奉仕に限界が生じたのです。

そこで、「…信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ…ピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ…アンテオケの改宗者ニコラオを選び出し…(使徒6:5)とあるように、7人を選び、教会の奉仕の役割分担を考えたのです。

教会を支えているのは「神の言に対する信頼」です。執事という奉仕者を選び出そうとしている今、わたしたちは深くこれを覚えたいのです。

奉仕とは何でしょうか。わたしたちは自分が神様に愛され、支えられたという経験がまずあり、それに対して、一体何が自分に出来るのかという問いの中で、奉仕が起こります。また、苦しむ人間の現実を目の当たりにし、一体自分には何が出来るのか、という問いの中で起こるのです。

わたしたちキリスト者は、そのような奉仕を目指して、教会を立て上げて行きたいと思います。

                          (小川宏嗣) 

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2021年1月24日

 

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

      (エフェソの信徒への手紙58)

 

そんな中で、経営コンサルタントの先生のシリーズの本に出会い、その中に「昔から語り継がれている本には、人生における真理がある。例えば、聖書や・・・」と書いてありました。この「聖書」のところが、頭に残り、「聖書について」、「神について」、「イエス・キリストについて」をインターネットや本で調べるようになり、やはり、インターネットや本だけでは、独りよがりの自己満足に陥て、真理を理解できないと思い、以前から気になってました、自宅から徒歩5分程の「福岡バプテスト教会」に足を運ぶことになりました。

教会の中に入ると、なんだか懐かしい気分になり、そして、小川牧師の心地よくて、ためになる説教に耳を傾け、イエス・キリストの真理を学ぶたびに、バプテスマを受けたいと強く感じました。

いまだに暗闇にいる状態ですし、まだまだ、神について、イエス・キリストについて学び始めたばかりですが、とくに「エフェソの信徒への手紙」417節から520節の「古い生き方を捨てる」「新しい生き方」「光の子として生きる」に目が留まり、まさに、今の自分に語り掛けている気がしました。

今後、もっともっと父なる神、御子であるイエス・キリスト、そして、聖書について学び、小川牧師の説教を心で聞いて、「人生の真理」を学んでまいります。

私は、イエス・キリストが、私の罪の為に、十字架にかけられ、その三日後に復活された神の御子であり、救い主であると信じます。そして、その愛に応え、イエス・キリストを救い主として、私自身が生まれ変わり、正しい考え方、正しい判断、正しい行動をして、正しく生きること、社会人として正しいマネジメントができるように導いてくださるように、福岡バプテスト教会の一員として、正しい道を歩んでまいります。

 

(『信仰告白③』R.K 20201227日)

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2020年1月17日

「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。」

                   (エフェソの信徒への手紙58)

 

日本では無名ですし、たまたま選んだ大学院でしたが、地元のAzusa市では、有名なプロテスタント福音派の学校で、この周辺に住むクリスチャンの学生にアカデミックな教育を施すことをミッションとして創立された学校でした。近代的な白亜の校舎のあらゆるところに、建物はもちろん、廊下、ロビーや学食などにイエス・キリストの肖像画や十字架の飾りがあり、なんだか守られている雰囲気でした。学生のほとんどが地元の白人で、留学生は、1割から2割弱程度で、ヨーロッパ、南米、アジアから来ており、日本人は私一人でした。授業も毎回、教授や講師たちとのお祈りから始まります。

また、この留学中に、突然、父が他界し、その時のゼミの教授が、私のためにクラスメートとみんなで、祈ってくださいました。この時に、キリスト教の「暖かさ」・「愛」を強く感じました。留学中もいろいろありましたが、無事に卒業できて、帰国し、普通に日本の企業に就職しましたが、ここから、なぜか、好調の時と、不調の時を交互に経験するという不思議な時期に突入し、好調な時は、有頂天になり、自分は何でもできると思い込み、我がもの顔になり、他のスタッフに対して暴君になったり、たくさんの人々を傷つけてきました。

そのような行いをしてきたため、今度は、自分が不調な時期がものすごく長くて、何をやってもうまくいかない、うまくいったかな?と思うと途中で、邪魔が入ったりと抜け道のない暗闇の中にいる状態になり、事業にも失敗し、友人や親戚からも煙たがられ、縁もなくなり、資産も何もかも全てを失いました。

その時、知人に、自分の力でコントロールできない見えない力に邪魔されているのではと言われ、このような状態を脱出したくて、一人でもがき、いろいろな本を読んだりしていました。         

 

     (『信仰告白②』R.K20201227日)

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2021年1月10日

あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」(エフェソの信徒への手紙58)

 

56年の人生を振り返って、ほとんどの人生が失敗の連続でした。そのため、苦い経験も甘い経験もたくさんしてまいりました。人生の中で、34回ほど、キリストとの出会いがあったのだと思いました。

最初にイエス・キリストに触れたのは、幼稚園の時代で、入園したのが、プロテスタントの幼稚園で、お昼ご飯をいただくときに、お祈りをささげていました。また、母が寝る前に、海外の童話を中心に、そしてキリストに関する物語も語ってくれました。

それからは、高校入試で、ミッション系の高校を受験しましたが、中学の担任の先生の勧めで、公立高校に通うことになり、しばらくは、キリストに触れることは、無かったですが、大学受験では、都心の一人暮らしにあこがれて、東京の私立大学を希望し、合格して、選んだのが、プロテスタント系の青山学院大学で、経済学部に進学しました。

1年生の時に、必修科目で、関田寛雄教授の「キリスト教概論」を履修し、チャペル講和も参加しておりましたが、この頃は、スポーツ(格闘技)に熱中しており、キリスト教に関しては、興味がありましたが、まだまだ漠然とした思いで過ごしておりました。

大学を卒業してからは、地元の福岡に戻り、社会人として第一歩を踏み出し、普通に働いておりましたが、当時は、バブル時代の真っ盛りで、社会人留学制度が充実しており、また、父の勧めもあり、自身でも、アメリカで、最先端の経営学やビジネスセオリーを学びたいと思い、社会人3年目に渡米し、まずは、カリフォルニア州ロサンジェルス近郊に語学留学し、その間にいろいろな経営大学院を調べたり、足を運んだりして、選んだのが、ロサンジェルスの東側に車で40分程のAZUSA市にあるAZUSA Pacific経営大学院でした。  

                信仰告白①』R.K20201227

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2021年1月3日

「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。」(詩編961)

 

「けさもわたしの ちいさいくちよ 神のめぐみを ほめたたえよ 神さま きょうも み心を おこなう日に してください」(『けさもわたしの』こどもさんびか41節)。これは、わたしがこどもの頃、よく歌っていた讃美歌です。でも、今は、歌われなくなりました。

このような歌は「古い歌」というのでしょうか。なつかしい歌といった方がふさわしいように思います。では、古い歌とは、どういうことでしょうか。聖書の言葉で言えば、嘆いていた自分の歌ということになると思います。神様のことが分からなくて、自分のことばかり考えていた歌ということでしょう。

そのような歌を歌うことをやめて、神様のことを考えて、神様とわたしのことを考えて、神様と他者のことを考えて、歌を歌うようになったということです。ですから「新しい歌」なのです。その新しい歌は、喜びの讃美の歌です。

わたしたちの置かれている状況は変わらないのだけれども、古い歌を歌うことをやめて、新しい歌を歌う者へと変えられたということです。

辛く困難なことが待ち構えている。とても乗り越えられないようなことに囲まれる。聖書はそのようなことを「十字架」という言い方で教えています。自分の力ではどうすることもできない十字架です。でも、その十字架の向うに復活がある。神様からの力が示される。そう信ずるところに希望が生まれます。復活の希望です。この希望をもって歌う時、新しい歌となるのです。

新しい年、イエス様にある復活の希望によって、新しい歌、喜びと讃美の歌を歌う者に変えられて歩んでいきたいと思います。  (小川宏嗣)

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2020年12月27日

「…ヘロデは、占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして…ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。」(マタイによる福音書216)

 

自分が大事だと思っているものが失われそうになると、それを強引に守ろうとすることがある。ヘロデは王だった。生涯、王であり続けることを確信していただろうし、もし、王位を譲るとすれば、自分にとって、最も好ましい譲り方をしたいと考えていたと思う。しかし、不安なことが起こった。新しい王が誕生したという。他の国からやって来た人によって、聖書に書いてあると教えられた。

ヘロデは、絶対に許すことのできないことだ、と思ったのだろう。王になる可能性のある子どもたちを、皆殺しにしてしまえばいい、そうすれば、新しい王の誕生を阻止できると考えて、ベツレヘムとその周りに住んでいた幼い子どもたちを、ひとり残らず殺してしまう。

わたしは中学生の頃、この箇所を読んで、イエス様が生まれたのに、なぜこんなことが起こるのだろう、と聖書のことが分からなくなった。救い主イエス様を誕生させたのに、どうして神様は、たくさんの小さな子どもたちのいのちを助けてくれなかったのだろうと考えた。

その時、ある人が、「十字架ということなのだと思う」と答えてくれた。イエス様の十字架に神様がいてくださったように、こんなひどい悲しいことが、どうしてあるのだろう、というような出来事の中で、イエス様が苦しみを共にしてくれる。神様はその出来事を、復活に結びつけてくれる。そんな答えをしてくれた。

コロナ危機に見舞われている今、この言葉を思い返しながら、人々の嘆き、泣き叫びの中に、十字架のイエス様が共にいて下さり、神様が復活につなげ

てくれるのだと、信じている。            (小川宏嗣)

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2020年12月13日

「…イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイによる福音書1712)

「…私たちは、分岐点に立っている。私はこう思います。危機が進行中の今すでに、私たちがとりうる二つの異なる方向性が見えています。誰もが自分のことのみを考え、人を押しのけ、買い占めに走り、自分がほしいものの確保だけはする。そんな世界を目指すのでしょうか。それとも、人のため、社会のために役立ちたいという新たに目覚めた気持ちが、今後も人々の心にとどまり続け、はちきれんばかりの創意工夫と助け合いの精神が今後も維持されるのでしょうか。買い物を手伝ってあげた年配の隣人との交流は続くのでしょうか。レジ打ちの人や小包配達の人に、今後も然るべき敬意を払い続けるのでしょうか。また、看護や介護、食品・生活必需品の供給やライフラインの確保、福祉、保育、学校の現場において、欠かすことのできない働きを担ってくれている人々への然るべき評価について、感染拡大が過ぎ去ったあとも私たちは覚えているでしょうか。また経済的に今回の事態をうまくやり過ごすことができた人々は、とりわけ痛い打撃をこうむった人々の立ち直りに支援の手を差し伸べるでしょうか。…この感染症の世界的拡大は、戦争ではないのです。国と国が戦っているわけでも、兵士と兵士が戦っているわけでもないのです。現下の事態は、私たちの人間性を試しているのです。こうした事態は、人間の最も悪い面と最も良い面の両方を引き出します。お互いに私たちの最良の面を示していこうではありませんか。…今回の危機が過ぎ去ったあと、私たちの社会は以前とは異なる社会になるでしょう。不安や不信感のあふれる社会になってほしくはありません。私たちは、より多くの信頼と、思いやりと、希望にあふれる社会を実現できるのです。…しかしこれを実現できるかどうかに、ウイルスの威力は関係ありません。ひとえに私たち自身にかかっているのです。…」

(シュタインマイヤー独大統領『私たちは分岐点に立っている』

2020411

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2020年12月6日

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。

それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」

(コリントの信徒への手紙一923)

 

「世界バプテスト祈祷週間」献金は、ロティー・ムーン宣教師の中国伝道を支えた米国南部バプテスト女性たちの起こした「ロティー・ムーン・クリスマス献金」の信仰を受けつぎ、現在もバプテストの女性たちの中心的活動として継承され、世界宣教のために用いられています。

現在、日本バプテスト連盟は以下のように2組の宣教師、2組の国際ワーカー、計6名をアジアとアフリカに派遣しています。コロナ危機の中、共に歩んで下さるイエス・キリストを信じて、それぞれが働きを続け、祈りのリクエストを発信して下さっています(『国外伝道ニュース』202011月参照)。

わたしたち福岡バプテスト教会は、この世界宣教の働きを神様の大きな恵みとして受け取り直し、更に祈り、支えていきたいと思います。世界を覚えて祈り支える時、世界によってわたしたち福岡バプテスト教会もまた祈られ支えられていることを知ることができるのです。

                          (小川宏嗣)

 

◇インドネシア:野口日宇満 宣教師・野口佳奈 宣教師

◇カンボジア:嶋田和幸 宣教師・嶋田薫 宣教師

◇シンガポール:伊藤世里江 牧師

(アジア・ミッション・コーディネーター、シンガポール国際日本語教会)

◇ルワンダ:佐々木和之氏

(国際ミッション・ボランティア、プロテスタント人文・社会学科大学教員)

2020年11月29日

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ』。

これこそ、人間のすべて。」

       (コヘレトの言葉1213)

 

学生時代、課題を提出する際、資料の「結論」だけを読んで、何とか形にしたようなことがあった。コヘレトの言葉にはこの結論が記されている。

故伊藤邦幸医師(元日本キリスト教海外医療協力会ワーカー)がその著書『オカルドゥンガ診療所』で、ネパールの山村オカルドゥンガで暮らす人々を、「奇跡的なほど物欲が少ない」と書いているが、彼らは余計なモノは一切持たずに生活している。わたしたちにしてみれば、これは驚きだ。しかも、モノが溢れた国よりも、モノを持たない国の人たちの方が遥かに幸福度が高い。

わたしたちはいつの間にか、自分の満足のために身につけたもので身動きがとれない状態になっている。あれもこれもと身につけた結果、豊かになるどころか、逆に、自分が何をしたいのか分からない、自分の生き方が見い出せない、と心に迷いが生じ、悩むようになる。

では、人間とは、人生とは一体何か。その時こそ、心してこの「神を畏れ、その戒めを守れ」という結論を読むべき。

 

「神を畏れ」とは、本当のことを認めなさいということ。それは、わたしたちは誰もが生かされているということだ。ゆえにすべての人は尊い存在だということ。「その戒めを守れ」とは、だからお互いに大切にし合ってゆくということ。これが人間にとって最も大切なことだということではないか。             (小川宏嗣)

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2020年11月22日

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留め  よ。」(コヘレトの言葉121)

 

「空しさ」と向き合ったコヘレトが、その最後の12章で、青春の日々を過ごす若者へ語る。それは、「お前の創造主に心を留めよ」(1)。

本来、青春時代は何にだって一生懸命だ。恋も友情も将来の夢への取り組みも。死の予感はまだ遠く、希望に溢れている。「現実は甘くない」という大人たちの言葉を、敗者の遠吠えのように感じた。その感覚は健全なものだと思う。そして、その時期にこそ、一生懸命生きることの楽しさを感じるべきだと思う。夢中になれることの幸せを実感するべきだと思う。

わたしが信仰告白し、バプテスマを受けたのは12歳。その時、キリストを信じたからといって、わたしが誰に、何に創られたか、或いは、何のために創られたのか、などと問いはしなかった。

しかし、青春時代はやがて過ぎて行く。そこには諦めがあり、絶望がある。虚しさが襲って来て、なぜあんなに楽しかったのか不思議に思ったりする。そして、生きる意味を見失ったり、生きづらさを感じる経験をする時、自分の命の価値を知ること、生まれてきた意義を知ることが、自分の人生にとって大きな問題となる。不確かだが、一生懸命生きることの中で、その問いの答えを得ていくものなのだと、少しずつ確信していく。

だからこそ、青春が過ぎても、結局は一生懸命生きていかなければならない。その為には、絶対的な何かが必要だ。諦めや虚しさを越える希望が必要だ。コヘレトは、「お前の創造主」こそがそれだと語る。

 

                          (小川宏嗣)

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2020年11月15日

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。」

        (コヘレトの言葉111節)。

 

このみ言葉は、以前は、「あなたのパンを水の上に投げよ、多くの日の後、あなたはそれを得るから。」(口語訳)となっていた。誰が一体、水に自分のパンを投げるか。水に投げればパンはふやけてやがて正体をなくし、溶けてしまう。いくらたくさん水に投げても無駄になり徒労に、骨折り損のくたびれ儲けになってしまう。

ところがコヘレトは、後日「それを得る」と語る。言葉を換えれば、徒労に賭けよと言う。誰も徒労は嫌だが、心して徒労に賭けるなら、やがて実を結んでいくと言う。徒労に賭けよう。後の日にその徒労が報われる、と聖書が語るから。自分が生きている時に実現するか、死後に実現するか分からない。だが多くの日の後、それを得る。教会だけでなく、個人の生活でも、徒労にかけるという意欲を失ったら高価な宝物を捨ててしまうようなものだ。

「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない」(同11:4)。「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」(同11:6)とあるが、今、コロナ危機の中で苦しむわたしたちに、「神の言葉を蒔き続けなさい」という勇気を与える言葉に思える。

 

伝道も、雨雲、風向きを気にすれば活動できない。祈って、天候に左右されず、心を確かにして出かけるべき。神に委ねなければならない。大きく委ね、大らかになる。すると案外雲行きなどどうでもよくなる。酷い雨だから収穫があるかも知れない。今、すべきことをすればいいのだ。                      (小川宏嗣)

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2020年11月8日

「太陽の下、人間にとって飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは太陽の下、神が彼に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ」

          (コヘレトの言葉815節)。

 

わたしは、自分自身が忘れられること、覚えてもらえないことを空しいと思う。どんなに頑張ってきても、どれだけの苦しみに耐えても、その努力を思い出されることなく、一切気づいてもらえないまま埋もれていく、そんな寂しいことはないと思う。

コヘレトにも、忘れられること、覚えてもらえないことへの絶望があったのではないだろうか。どれだけ偉業を成し遂げても、どれだけ節制を貫いても、自分はいつか忘れられる。誰にも思い出されないまま、人々の記憶から消えていく。それこそが、コヘレトにとって報われない象徴だったのではないか。

そんなコヘレトだが、飲み食いに関する言葉だけはポジティブだ。食事は人々に素朴な喜びをもたらす。どんな宝や財産を手に入れても、それらはやがて消えてしまう。だから、今ある幸せを精一杯受けとめるのが、結局、一番なのだという。

しかし、死んだら終わりなのか。誰にも覚えてもらえないのか。わたしたちの神は、死後も、生きている者たちにも関わり続け、気づきと希望を与えている。

誰もあなたを見ない時、あなたを評価しない時、慰め励ましてくれない時、神はずっとあなたを見つめている。隠れたことを引き出され、あなたの歴史を語る。他の誰かに、生きている者につながって、あなたの人生を用いる。だから、今を生きよう。       (小川宏嗣)

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2020年11月1日

「人の言うことをいちいち気にするな。そうすれば、僕があなたを呪っても、聞き流していられる。あなた自身も何度となく他人を呪ったことを、あなたの心はよく知っているはずだ。」(コヘレトの言葉72122節)。

 

北海道浦河町に『べてるの家』という心の病を持つ人たちの作業所がある。日本キリスト教団浦河教会から始まり、35年以上の歴史がある。そこに集まっている多くは統合失調症の人なのだが、常日頃から幻覚や幻聴に悩まされ、妄想が湧き上がり、爆発することもあって、人間関係を結ぶことも難しく、大きな生きづらさを抱えてやって来た人たちばかり。

朝の作業開始のミーティングでは、自分の弱い部分を隠さずに情報公開することから始まる。「今日はちょっと調子が悪いから、昼寝をしたい」「今日はちょっとましだから、一日働ける」という風に、自己申告する。ここでごまかしや強がりを言ってしまうと、結局、全員に迷惑をかけることになるので、みんな自分の弱さを隠さない。こんなことから「弱さの情報公開」。

例えば「今日も順調に問題だらけだね」「いい落ち方をしてきたね」「安心して絶望できる人生」そんな言葉が発せられる。常に向上を目指す生き方が世の中では良しとされるが、ここでは「降りてゆく生き方」ということが言われる。そこには「わたしは弱い人間だ」ということが自然に受け入れられる場所がある。

「人の言うことをいちいち気にするな」(コヘレト7:21)。こんな言葉が聖書にあるのかと、おかしくて笑ってしまう。頑張れない時には、頑張らなくてよい。人の言うことをいちいち気にしない。自分のことを許すのだから、もちろん人のことは裁かない。そうやって弱さを互いに認め合いながら、優しい気持ちで生きてゆく。そんな生き方を大事にしたいと思う。

 

(小川宏嗣)

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2020年10月25日

「わたしは知った/人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と。」(コヘレトの言葉31213節)。

コヘレトの言葉は、「空しい」(1:2)という嘆きで始まったが、3章で、「分かった!自分は神のように全てを知り、分かり、治めたいと思って来たけれど、それは無理なのだ!」(1213)と言い始める。そして、幸福について、与えられた命の中で、喜び楽しんで生きることだと知ったと言う。

「喜び楽しんで一生を送ること」は、あまりにも当たり前で、幼稚にさえ見える。しかし、全ては分からなくても、喜ぶこと、楽しむことが出来るという自分を受け入れること。一生懸命働けば、疲れてお腹が空き、食事を美味しいと感じ、深い眠りが与えられるのは、神様の贈り物だという発見は、わたしたちの毎日を大きく変え、空しさから救うのではないか。

以前、自分の心の中には、晴々とした気持ちがあったように思う。中学・高校の頃、目標を持ってスポーツに打ち込んだり、恋をして、そのこのことをいつも考えて、一つのことがうまくいくと、世界が開けて、スカッとした気持ちになれた。知らないことや、分かっていないことが多くても、純粋に一生懸命に生きて行く中で感じた、晴れやかな気持ちがあった。

自分の力で人生を動かそうとやっきになって、無力を痛感して空しさを覚え、晴れやかにならないわたしたちの心には、「神のようになりたい」と望むことで、空しさに捕まったコヘレトと同じ嘆きが見え隠れしている。もし今、晴々とした気持ちになかなかなれないとしたら、そこには自分の分を超えた思い上がりや、小さな幸せを喜べない頑なな心が隠れているのかも知れない。

 

一生懸命過ごした一日の終わりに、その頑張りを褒めてあげること、疲れて眠りに落ちる幸せをちゃんと噛み締められること、そんな心を持っていたい。晴れやかに今日を生きられるように。          (小川宏嗣)

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2020年10月18日

「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては 空しい。」

        (コヘレトの言葉12節)。 

 

以前、『こころの時代』(NHK)という番組でコヘレトの言葉についての放送があった。番組の標題が、『それでも生きる』となっていて、とても深く心に残った。講師の小友聡さん(東京神学大学教授)が長年に亘るコヘレトの言葉の研究の中で、「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」と語り始めるこの書に響くメッセージを『それでも生きる』との一言に凝縮したのだ。それは「空しさ」と訳される言葉の幅に注目しての読み解きの結果だという。 

「空しさ」と訳されるのは「ヘベル」(ヘブライ語)。「空しい」「空虚」という意味と共に、「つかの間」「儚い」「神秘」「謎めいた」等の意味も持つという。確かにある面「空しい」「空虚」と言わざるを得ないのが人生だ。そうした人生をわたしたちは生きるが、それは神の御手にある永遠の時間に比べればほんの「つかの間」である。そうでありながら、わたしたちの人生には、全てを理解できない「神秘」的な面があり、また「謎めい」ている。そうした現実を「ヘベル」という言葉で、この書は語り継ごうとしているという。 

それを言葉の第一義の通り、「空しい」「空虚」と捉えるのか、言葉の幅の内にある「つかの間」そして、「神秘」「謎めいた」と受け止めるかで、この書の読み方は変化するという。 

 

わたしは、このコヘレトの言葉の中に、人生のマイナス面ではなく「ヘベル」(つかの間)の人生に、良きものと喜びを与え、導く神の恵みが語り継がれていること、このプラス面にこそ注目したいと思う。(小川宏嗣)

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2020年10月11日

「時に主はアブラムに言われた、『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。』」(創世記121節)。

上句の言葉を原文に従って訳すと、「出なさい、自分自身に向かって、あなたの土地から、あなたの親戚から、あなたの父の家から、わたしが示すであろうその土地へ」となります。

人は誰でも、色々と余計なものに引きずられて生きています。引きずられているうちに、何か固い殻のようなものが出来て、自分がスッポリとその中に包まれてしまいます。何を考え、何をするにも、常にその殻が上からかぶさってきて自分の動きを封じます。

殻は思いのほか固く、どう踏ん張っても自分の力では破れそうにない。無理に何かをやりかけても、結局はうまく行かず、悶々としてからの中に閉じこもるようになる、人生はそのくり返しかもしれません。そこで聖書は語ります、「出なさい」と。

どこから「出ろ」というのでしょうか。自分を保護してくれる両親、口うるさい親戚、自分に視線を注いでいる周囲の人たち、そこから生じた自分の立場、つまりは固い殻から出て来いというのです。とにもかくにも「出る」ことです。

この場合、殻を破ろうともがいてはなりません。どだい破れるわけがない、破れないからこそ殻なのです。殻を破って気分よく出ようなどと思わない方がよい、殻は殻としてそのまま残し、不安を抱いて出ることです。しかも、自分自身に向かってです。ありのままの飾らない自分をめがけてです。そうありたい自分でもなく、そうである自分へ向かうのです。自分を包んでいる殻をとくと見つめること、そこからすべてが始まるのです。

 

              (小川宏嗣)

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2020年10月4日

「鹿が谷川を慕いあえぐように、

       わが魂もあなたを慕いあえぐ。」

               (詩篇421節)。

 

砂漠には様々な顔があります。美しい砂に覆われた部分もありますが、大抵は凹凸の激しい大地、所どころ岩石の塊が隆起したような荒野です。砂漠の涸れ川には、水など一滴もありません。

途方に暮れる、といいます。行き先の見えない不安と、どうにもできない状況へのいらだち、そうした感情が折り重なって自分を包んでいるように思われるのです。もし砂漠に水が流れていたとしたら、恐らくそういう思いは抱かないですむのでしょう。手や足をひたせる水があれば、灼熱にあえぐ心と体を癒せるに違いありません。わたしたちの日常も、この水無し川と似たようなものではないかと思います。

鹿は、実際に水にありつけたのでしょうか。苦労して水をさがし、やっと見つけて水を飲んだのでしょうか。実は、谷川には水は流れていませんでした。鹿は、一滴の水にもありつけなかったのです。しかし、飲めないのに、それでもなお水をさがした、さがし続けたのです。

水を飲めると思うから人は谷川をさがし求める、水があると思えばこそ慕いさまよう。しかし、ないと分かったらそれ以上さがすでしょうか。恐らくさがさないでしょう。

 

では、飲めないのにあえてさがすとは、一体どういうことなのでしょうか。いや違います。飲めないからこそさがしたのです。飲めると知っていてさがすのは当り前、これでは本当にさがしたことにはならない。飲めないと分かっていて、なおさがすからこそ、さがすこと自体に意味が生じるのです。                     (小川宏嗣)

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2020年9月27日

わたしは12歳で、信仰告白しバプテスマを受けて、45年以上にもなります。しかし、とても恥ずかしいことですが、今になって聖書が分からなくなった、そんな気がしています。

というのは、聖書を読んでいると、気になる言葉が目に付くのです。それは、イエス様について、「いったい、彼はだれか」とか、「人々はわたしをだれと言っているのか」とか、「人々はわたしをだれだと思っているのか」とか、イエス様の弟子からも、敵対する者からも、イエス様ご自身の口からも、この同じ問いが繰り返され、弟子にとっても、他の人々にとっても、イエス・キリストが未知な人として絶えず現われてくることです。

 

イエス・キリストの最も大きな秘密というのは、「まことの神であり、まことの人である」ということにある、ということにかかっていると言うしかありません。

 

生まれて間もなく、両親のヨセフとマリアに伴われて神殿に献げられた幼な子イエス様について、預言者シメオンは次のように言っています。「この幼子は、多くの人々が倒れ、また立ち上がるための、逆らいのしるしとして立てられる。」(ルカによる福音書23435節)。

 

イエス・キリストは、いつの世までも永遠に未知なるものであり、わたしたち一人ひとりに、今日もまた、「わたしをだれであると言うのか」と問いかけて、その心の扉をたたき続けている神なのです。  

 

 (小川宏嗣)

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2020年9月20日

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』」(ルカによる福音書195節)

 

  エリコの町にイエス様がやってくると、ひと目見ようと群衆が殺到しました。ザーカイもイエスがどんな人か見ようとしましたが、群衆に遮られて見ることができませんでした。すぐにザーカイは「走って先回りし、いちじく桑の木に登った。」とあります。彼は自分が人々から軽蔑されているということを自覚していたので、自分で解決策を見出すしかなかったのかもしれません。徴税人は人々から税金をだまし取ることが日常化していたため、人々から軽蔑されていました。ザーカイは、その徴税人の頭でした。

イエス様はそのザーカイを見つめて「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」とおっしゃいました。

先日、大きな台風が九州を襲い、スーパーやホームセンターに人々が殺到しました。多くの人が必死で養生テープや水などを人々が買い求め、売り場からはあっという間にそれらのものがなくなりました。皆が不安と焦りの中で視野が狭くなり他者を思う気持ちを忘れ、壁をつくってしまう姿は、この時に可視化されただけで、そもそも日頃から私たちの中に存在する姿かもしれません。

「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われたイエス様の言葉は、岩波訳聖書では「私は今日、あなたの家に留まることになっているから」と、留まることが前提とされた言葉となっています。人々からお金を騙し取り、軽蔑されていたザーカイ。人々のつくった心の壁の外にいたザーカイに、イエス様は声をかけられました。そのイエス様の愛が、誰からも目を止められることがなかったザーカイを変えました。

 

10節に「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」とあります。私たちも、目に見えない壁の外にある人々に目を止め、共に生きるものとして歩みたいと思います。                                                                                                               (奥村献)

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2020年9月13日

75歳で、アブラ()ムは、神から重大な言葉をいただいた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(創世記121節)。アブラムは、神の言葉に従って出発した。それは、「祝福の源となるように」(同2)という神の言葉が心に響いたからではないか。

75歳のアブラムに、神は「祝福の源となる」という「使命」をお与えになった。75歳になっても、祝福の源となるような生き方ができる。否、むしろ75歳だからこそ、祝福の源となるような生き方ができる、自分の周りの人たちに、祝福を伝える使命を担うことができるという面があると思う。

わたしたちは、祝福ということを若さ、元気さということと結びつけて考えるかも知れない。けれども、神の祝福とは、今、置かれている人生の中で、神の言葉を聞き、神の恵みに気づき、今、与えられている新しい使命に生きていく。そこにこそ神の祝福はあるのではないか。

アブラムの出発は、行き先をはっきりと示されずに出て行くというものだった。神の言葉を聞いて、神が自分を一つの使命に召して下さっていることを思い、それに従って、置かれた人生の中で生きていこうと決断した。

祝福の源となるという「神の使命に生きる」ことは何も、特に何か新しいことを「する」のでなければできない、ということではないと思う。表面的には変わらない生活かも知れない。否、かえって、衰えていくような生活であったとしても、わたしたちがそこで、謙虚に神の恵みに気づき、喜び感謝するならば、祝福の源にきっとなれる。

 

わたしたちは皆、順々に、老いの時を必ず迎える。けれども、わたしたちは、老いることを嘆くのではなく、喜んで生きる祝福の源になることができるのだと信じていきたい。                (小川宏嗣)

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2020年9月6日

…わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。」(詩篇568節)。

 

「皮袋」とあるのは、山羊の皮で作ったもので、昔から今に至るまで遊牧民が使用している入れ物です。その主な役割は、水を保存することです。水を満たした皮袋はかなりの重さがあるため、大きなものはラクダの背に載せ、普通のものは人間が肩に背負って運んでいました。

砂漠で一番の貴重品、それは水です。人間が生きていく上で、無くてはならないものが水です。この無くてはならない水を大切に貯える、これを大事に肩に背負う、皮袋の性格はこうしたものでした。

人は誰でも苦しい目に遭い、辛い思いを忍んでいます。それも途切れることのない苦しみの連続です。時として苦しみが耐え難く思われることもあります。人はいつ、耐えられなくなるでしょう。それは誰も分かってくれないという一点に尽きるのではないでしょうか。しかし、どんなに辛く苦しい目に遭っていても、誰かがそれを知っている、自分の思いを十分に分かってくれている、そう確信できたなら人は耐えることができます。

 

「わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください」(詩56:8)。わたしの涙は無駄ではない、ちゃんとそれを受け止めてくれる方がいる。すべて皮袋に大切に貯えて、自分の肩の上に背負って下さる方がいる。たとえわたしが、どんなに小さな忘れ去られた存在であろうとも、わたしの涙は「皆あなたの書に/しるされている」(同8)、きちんと記憶されている、そう語っているのです。もし、あなたがそう思えるとしたら、苦しみ耐え難さは半分に減るかも知れません。                    (小川宏嗣)

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2020年8月30日

「…福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。」

   (コリントの信徒への手紙 一415節)。 

 

パウロは、「わたしは世界中に、天使にも人にも、見せ物となった」と言います。また、「死刑囚のように、引き出される者となった」とも言います(Ⅰコリント4:9)。 

見せ物となり、侮辱されたことへの怒りの思いを、その気持ちを、わたしたちはどう整理したらいいのでしょうか。侮辱されたということは、人格を笑われたということでもあるのです。 

しかし、パウロは、「侮辱されては祝福し、ののしられては優しい言葉を返しています」(同13)と、言います。 

なぜでしょうか。それは「心の平和」を生きているからだと思います。パウロの言葉で言えば、見せ物となっているが、「愛と柔和な心」(同21)ということでしょう。 

 

中学生の頃通っていた教会の牧師先生のお連れ合いは、「人のお話」をあまりされませんでした。一人ひとりのことをお祈りされていたから、話題とされることはなかったのです。そう気づいたのは、ずっとあとのことでした。 

他者への祈りが誕生する時、パウロの言葉が、わたしたちの現実となり、心の平和を生きる者とされるのではないでしょうか。時折、その方のことを思い起こしては、わたしも心の平和に生きたい、そう思っています。                          (小川宏嗣)

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2020年8月23日

「あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。」(申命記61617節)。

 

負債は よいことをすることでなくなる

そう信ずるより他はない

それなら けすために働こう

そう思って いっしんにつとめを はたした

金で返せるものと 返せないものがある

二つながらを けしていった    (長谷川俊一郎『負債』)

 

けすことのできないものがある。それでもなお、けすために働こうというのです。ここに、この詩の持つ信仰告白があるのではないでしょうか。

よいことをする。神を畏れ、戒めを守る。神の約束をおぼえ、その歴史を忘れない。そうやって生きていこうというのです。よいことをすることで、それは見えてくるはずだというのでしょうか。

マッサにいた時、イスラエルの民は神を試みた(16)とあります。それは神のあらさがしをした、ということです。神の愛のあらさがしをした。それは、神を畏れなかったからだと、申命記は教えます。してはいけないことだったのです。

 

わたしたちもまた、してはいけなかったこと、いけないことを、聖書を通して、気づきたいと思います。そしてそれを、どういうよいことで、けしていけるのかと考えたいと思います。それが、聖書の言葉で生きる経験を深めることだと導き出せるなら幸いです。               (小川宏嗣)

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2020年8月16日

サムエル記上15章にイスラエルの王サウルと預言者サムエルの次のようなやり取りがあります。サムエルがサウル王のところへ出かけ、「アマレク人を滅ぼしつくせと言われた神のお告げを、なぜ、あなたは守らなかったのか」(19)と、厳しく叱責し、「あなたがアマレク人の王の命を助けたので、あなたは王の位をとりあげられるであろう」(23)と、神のお告げをサウルに伝えるというところです。

 

サムエルは、アマレク人の王アガグを引き出させ、「殺されずにすむ」(32)と喜んでやって来たアガグの首をはねるのです。わたしは、この神のお告げとされる言葉を読むことが、どんなに恐ろしく、また、アガグが「助けられる」と思いながら、サムエルに近づいてゆくさまを想像することが、どんなに恐れおののくべきことであるかを思います。わたしには、これが神のお告げであるとは、決して、信じられません。

「争いと平和」を考える時、一方が勝利して争いが終わったということは、平和になったということではありません。争いの終わりが新しい争いの始まりともなってしまうからです。平和は何よりも、そこに赦しと和解を必要とします。

 

イエス様は言います。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイによる福音書59節)。平和を実現するためには、自分の心に平和を持っていなくてはなりません。そうでなければ、人に平和をあげることはできません。この平和は、イエス様を信ずることによって与えられる平和です。ご自分を十字架につけて「赦すこと」「和解すること」を教えたイエス様に従って、実現していく平和です。このことをしっかりと覚えておきたいと思います。                  (小川宏嗣)

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2020年8月9日

「イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった…シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた。」(マタイによる福音書161316節)。

 

ローマ帝国の属州ユダヤの北の地方に、「フィリポ・カイサリア」はありました。その地方を支配していた、「ヘロデ・フィリポ王」が、ローマ皇帝のお墨付きをもらい、街をローマ風に作り、ローマの宗教の神殿を建て、ローマ皇帝が「神の子」として拝まれていました。ローマ皇帝のことを「カイザル」と言いますが、ヘロデ・フィリポが造成したローマのカイザルの為の街、「フィリポ・カイサリア」という名前をその街に付けたのです。

皇帝礼拝が行われていたその地方で、イエス様は弟子たちに、「あなたがたは、わたしを何者だと言うのか」(15)と問います。そこでペトロが、「あなたこそ、生ける神の子、キリストです」(16)と答えます。この告白の裏には、「ローマ皇帝ではなく、あなたがたが救い主です」という意味があり、皇帝礼拝への否定を意味します。

敗戦後75年を迎えようとする今、キリスト教会は、「イエス・キリストこそわれらの救い主」ということを、立つにしても、倒れるにしても、言い続けたいと思います。「キリスト告白」こそが、キリスト教会のなすべき第一の務めだからです。「イエス・キリストのみに従う」ということによって、キリスト教会は、本当に自由になれます。救い主キリストにのみ、心の目を向け、従うというところで、それ以外の惑わしや、様々な権力の脅かしや、それらから自由になれます。イエス様に従ってこそ、キリスト教会は自由です。そのことをこれからも貫いて行きましょう。

 

それは、キリスト教会が、立つにしても、倒れるにしても「われらはキリストのもの」ということに全てを賭けて生きて行くということです。

                           (小川宏嗣)

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2020年8月2日

先日の某新聞の一面に「7月豪雨災害」で被災した「人吉旅館」(1934年創業で国の有形文化財に登録)の記事が載った。壊滅的な打撃を受けながらも、おかみの堀尾里美さんの「それでも球磨川を恨めない…球磨川は父であり、母であり、嬉しさも悲しさも色々な思いを受け止めてくれるような存在」との言葉が紹介され、これからも川と共に生きようとする姿が心に残った。

先日、教会員のUさんを見舞う為、人吉を訪ねた。被災した事務所の中は片付けられ、Uさんは事務所を「地域の復興支援のベースキャンプ」にして、ボランティアが食事と休憩ができるスペースとトイレを提供する為に開放していた。驚いたことに、人吉に到着してすぐ、その事務所で人吉旅館のおかみ堀尾里美さんにお会いしたのだ。実は、事務所は人吉旅館の隣で、かつてUさんは人吉旅館の文化財登録を手伝っていた。Uさんは地域復興支援のベースキャンプのみならず「『人吉旅館』の復興支援プロジェクト」も立ちあげていた。

Uさん、堀尾さんを通して、生きとし生けるもの、自然の全てが、神様から愛されて造られた存在であって、その生きとし生けるものと、人間は手を取り合って生きなければならないこと、神様の愛の中でみんな繋がり合っていること、それぞれにかけがえのない役割があって、その為に命が与えられているということを考えさせられる。

わたしたちは神様の大きな手の平の上で生きている。だから、こう生きなければならない、なんてことはないし、どう生きても別にいい、神様に導かれるまま、それに任せながら、置かれた場所で懸命に生きていけばいいのだ。

 

だから、イエス様の言う「思い悩むな(マタイ6:25)は、本当に大切な言葉だ。それは、わたしたちが、どんな苦しみの中、どんなに懸命に生きているかを、神様はよく分かって、いつもそれを見てくれて、その生き方を導いてくれていて、「そんなに苦しいのによく頑張ってるね」と言ってくれているから。この「思い悩むな」を信じて、それぞれの人生を生きていこう。(小川宏嗣)

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2020年7月26日

そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』

      (マルコによる福音書1052節)。

 

先週と先々週、7月豪雨災害で被災した人吉市を訪ねました。教会員のUさんのお見舞いをしたり、人吉バプテスト教会の牧師ご家族の安否をお尋ねしたり、被災した建物等の片付のお手伝いをしてきました。

新型コロナウィルス危機、各地で起こった豪雨災害、大きな試練が続く中にあって、キリスト者として何をしたらよいのだろうと、考えあぐねてみますが、何をすればいいのか分からない、それが正直な思いです。これは、キリスト者として、と限定するのがいけないのであって、わたしは伸び伸びと自分自身を生きていければ、それでよい、と自然に思えてきます。

しかし、そう安心しながら静かに耳をすましてみると、社会の底の方から、何かを次々と要求されているのを感じます。この事態の中で弱い立場にある人が踏みにじられて、喘いでいる人々の声です。ようやく命をつないでいる人たち、声を挙げられない人たちのかすかな声が聞こえています。目立たないところで多くの人々が生きる希望を失いかけています。

わたしは、自分自身を恥ずかしい、と思いながらも、やはり、神様の望みにかなうことは何か、と祈らざるを得ません。この社会の中で人と人が共に生きていく上で最も大事なことは何か、多様な人を受け入れ合うために、何をなすべきか。自分の恥ずかしさを抱えながら、わたしは今のこの時を、祈りの時として、わたしに出来ることを考え、行ってゆくしかないと思っています。

 

人と人との繋がりの中に命があり、救いがあることをイエス様が示して下さっていますから。微力ではありますが、被災された一人ひとりと繋がっていきたいと思います。                (小川宏嗣)

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2020年7月19日

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

       (マルコによる福音書217節)。

 

イエス様が招いたのは、当時のユダヤ社会で人々から軽蔑された取税人や、罪人と呼ばれた人など、現状に満ち足りている人は一人もいませんでした。

人の機嫌をうかがうというのは、決して愉快な生き方ではありません。むしろ自分が委縮してゆくのが苦しくて切ないものです。でも、もしわたし自身が競争に勝つタイプの人間であったなら、自分は絶対に正しいと自信を持つことができたなら、自分が不完全で未熟であると認めるはずがありませんし、イエス様の食卓に招かれるチャンスは来なかったと思います。

イエス様は取税人レビの家の食卓についていました。はじめにおずおずと家の入口でためらっていた人たちが、イエス様の愛に満ちた温かい眼差しにうながされて、大喜びで同じ食卓についたのです。「わたしのような者がこの食卓についてもよいのでしょうか」という思いが絶えずその人たちの胸にあり、それだけに招かれた喜びもどれほど大きかったでしょう。

わたしたちは、人間の真実の姿が愚かで弱くて、不完全であることを直視しなければなりません。イエス様はそのふんぎりを求めているのではないでしょうか。その上で、わたしの食卓に飛び込んで来なさいと招いているのです。

わたしたちは、伸び伸びと生きてゆきたいと思います。イエス様によって少しずつ癒されながら、解放を自由を得ていきたいと思います。

 

                      (小川宏嗣)

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2020年7月12日

神はしばの中から彼を呼んで、『モーセよ、モーセよ』と言われた。彼は『ここにいます』と言った。」(出エジプト記34節)。

 

荒れ野の奥の柴の中から、神はモーセの名を呼びます。話す前に相手の名を呼ぶことは、聖書が神について語る場合の特徴です。先ず相手の名を呼ぶ、いきなり話しかけたりはしない、相手が返事をするまでじっくり待っている。呼ばれた人間は返事をしながら心の準備をする。神の言葉を聞くための用意をする。つまり相手に、心のゆとりを与えるための手段です。

「モーセよ、モーセよ」という二度重ねの呼びかけも、親しみを表すのみならず、相手の心にゆとりを持たせる表現なのです。

自分の名を呼ばれたモーセは、答えます。「ここにいます」と。原文では、「わたしはここにいます」という意味の語です。他の誰でもない、わたしがわたしとしてここに立っている、わたしの全存在をかけてここにいる、そういうかけがえのない自分を意識した返答です。

この時のモーセは失意のどん底にありました。エジプト人を手にかけ、遠くミディアンの荒野に逃亡者として暮らしていました。自分がヘブライ人であること、王女の養子であることを、誰一人知らない土地で、孤独な日々を送っていました。その状況の中で、彼は自分の名を呼ぶ声を聞いたのでした。「そうだ、俺はモーセだったのだ…」、その自覚が「わたしはここにいます」には込められています。

自分が自分であることの意味が見つけられれば、人は「わたしはここにいます」とはっきり言うことができるのです。

 

                   (小川宏嗣)

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2020年7月5日

主はモーセを呼び、会見の幕屋からこれに告げて言われた。」(レビ記11節)。

 

出エジプト記の続編に当たる<レビ記>は、上句の言葉で始まります。「主はモーセ呼んだ」。聖書は何度もこの「呼んだ」という表現を繰り返します。どういうことかと言うと、神が人間に触れてくるとすれば、それは呼びかける声だということです。モーセだけではありません、アブラハムも、サムエルはじめ、すべての預言者たちは、神の呼ぶこの声に聞いたのです。そしてこの人たちは答えました。「わたしはここにおります」(サムエル上3章)と。

この人たちはただ答えただけでした。何も特別な資格はなく、大した特技があるわけでもなかったのです。「わたしはここにいます」、それがこの人たちの答えのすべてでした。「ここにいる」とは何でしょう、それは明らかに、一人ひとりがまず足をとめて、立ち止まったということでした。

コロナ危機の試練の中、今、わたしたちは立ち止まらざるを得ません。しかし、この危機が起こる前には、ほとんど立ち止まることを知らなかったのではないでしょうか。心を無くし、何かに追われて突っ走っている状態では、小さな沈黙の声は聞こえるはずもないのです。

モーセはひたすら会見の幕屋の外で待ちました(出エジプト40:35)。「呼んだ」に至るまでの間、長い沈黙がありました。声を聞くためには、まず待つという姿勢が必要なのです。

今、神学校週間を迎えているわたしたち一人ひとりが、神の呼びかける声を聞き、わたしの献身について考えたいと思います。

 

                           (小川宏嗣)

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2020年6月28日

日頃より、神学校の学びを支え、祈りに覚えてくださり感謝いたします。

神学生の学びと生活は、皆さんの祈りとお支えなしには成り立ちません。コロナによる混乱の状況の中にあって、神学校の現場でもまた混乱が続いています。授業やチャペル、寮での礼拝がオンライン化し、年始には想像もしていなかったような環境の中で学びの生活を進めています。毎日、朝の礼拝から授業、そして課題や発表準備と一日中パソコンに向き合い、疲れを覚えることもあります。しかし、皆様からの祈りとお支えというひとつの献身によりこの生活が支えられていることに感謝をし、励まされつつ歩んでいます。

 大学院一年目の学びがはじまり、より具体的・実践的な授業内容が増えてきました。ひとつひとつの学びが大変興味深くなった一方で、これまでの宣教の「あたりまえ」を前提としない視点での学びが必要となっています。

 教会もまた、これまで続けられてきた事柄の中で、本当に必要なものは何であったのか、これから新たに必要とされるものは何なのか、そのようなことを今問われている気がします。

 不安の中にいる私たちに、今日の聖書は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と語っています。私たちは今、目の前のことや、自分のことで精一杯です。将来の様々な不安も考え出せばきりがありません。しかし神様はまず「神の国と神の義」を求めよと言われます。

 

 「神の国と神の義」を求め、生きることはただ自分自身が神を見上げて生きるということだけを意味しません。イエス様はどのように生き、どのような人々と歩まれたでしょうか。私たちをとりまく様々な事柄が削ぎ落とされ、一つ一つの捉え直しが起こっている今、私たちが本当に大切にすべきものは何であり、何に目を向けどのように生きるべきかをこの時に聖書から聞いていきたいと思います。                      (奥村 献)。

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2020年6月14日

シナイ山の麓でイスラエルの民が金の子牛を拝んだ時(出エジプト33:4)、モーセは怒りました。それは、掟を破る民に対するものと、半ばはリーダーである自分自身に向けられていたものと思われます。命がけのエジプト脱出、荒野の放浪、苦労の果てに辿り着いたシナイ山麓の宿営地で民は神に背いたのです。底知れぬ空しさ、リーダーとしての無力さ、モーセは完全に孤独でした。

 

この時、神はモーセに語ります。「お前はわたしの顔を見ることはできない…ただわたしのうしろを見るだろう」(出エジプト記3323節)。神の顔とは、人間に都合のいい、人間が勝手につくり上げた神のイメージです。神のうしろとは、より真実にその姿を映し出す神の背中のイメージです。人の、他人には見せない苦しみ、後悔、孤独、悲しさは、なぜか背中に現れます。同じように、正面からでは到底知り得ない神の真実は、ふっとその背中に浮かび出るのです。

人はいつ、神のうしろを見るのでしょうか。それは過去の、一番辛いところへ戻る時です。「あなたもかつてエジプトの地で奴隷であった」と聖書は繰り返し伝えています。

 

 

暗い闇の記憶を呼び戻す時、神のうしろは、わたしたちが背中で負っている苦しみ、後悔、孤独、悲しみに共感し、包んでくれるのです。闇が深ければ深いほど、人は神のうしろに出会うのです。闇は沈黙に他なりませんが、神は言葉のない背中でささやいています。神のうしろとは、わたしたちの孤独な闇の癒しの場所なのです。 (小川宏嗣)

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2020年6月7日 

わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は

その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。ヨハネによる福音書414節)。

 

イエス様の時代、ユダヤ人はサマリア人とは交際しませんでした。そのサマリアの女性にイエス様は声をかけ、井戸の水を求めます。

でも、その水を「かわく水」であると、イエス様は言いました。では、「かわくことのない水」とは、どのような水なのでしょうか。イエス様は、それは「わたしたちの内で泉となる水」であると言います。井戸は、礼拝の場となりました。

わたしたちは今、こうして礼拝を献げています。礼拝で大切なことは、聖書の言葉をしっかりと覚えていくことです。聖書の言葉を心の内に蓄えていくことです。わたしたちの生活が、苦しいことや辛いことがうねりのように押し寄せてくるような時、聖書の言葉が力となって、支えてくれます。イエス様の話してくれた言葉が、わたしたちの心の中で大きな力になります。心の内に蓄えていた聖書の言葉が生きてきます。わたしたちの内で泉となるというのは、このようなことです。礼拝も、聖書の言葉が泉となるところでもあるのです。

だから「かわかない水」というのは、イエス様のくださる言葉、神様の言葉、聖書の言葉です。イエス様は、サマリヤの女性に、礼拝ということを教えました。礼拝というのは、このかわかない水を飲むところなのだということを、イエス様からしっかり受け取りたいと思います。(小川宏嗣)

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2020年5月31日

 

失敗し、落ち込み、弱っていたキリストの弟子たちに、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」(使徒言行録22節)ました。聖霊が、激しい風が、すなわち神の息が、弟子たちに吹きかけられたのです。その時、弟子たちは、神様が自分と一緒にいて支えてくれる愛が分かりました。それが嬉しくて、嬉しくて、その喜びを伝えずにはいられなくなりました。

 

「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに…話しだした。」(同34)。聖書は、聖霊を「炎のような舌」と表現します。それは、イエス様に救われ、神様に愛されている喜びを話さずにはいられない気持、心が燃えてくるような嬉しさを表します。その嬉しさによって、イエス様の救いが伝えられ、それを聞いて信じた人々が、バプテスマを受けました。バプテスマを受けた人たちが使徒たちと一緒に集まり教会となったのです。すなわち、教会の誕生です。神様の恵みにより、失敗し、落ち込み、弱っていた現場に、突然、教会が現れたのです。以来、キリストの教会は2000年間、一日も欠けることなく続いてきました。そして、今日もここで実現しています。ペンテコステ、すなわち聖霊降臨日は教会の誕生日なのです。

 

わたしたち、これまで、教会が存在していることの有難さを忘れていたかも知れません。しかし、今、大きな試練の中で、改めて、教会が神様の愛によって立てられ続けている本当の理由、また、自分自身をはじめ、教会に集う一人ひとりが神様によって生かされている本当の理由を見出したいと思います。

 この教会の誕生日に、既にいただいている神様の恵みに気がついて、恐れではなく、感謝と喜びを持って、この時を歩んでいきましょう。(小川宏嗣)

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2020年5月24日

「そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」

(マルコによる福音書1052節)。

 

「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10:47)と声をはりあげるバルティマイという人のことが聖書に紹介されています。バルティマイは目が見えるようになることを願っていましたので、イエス様が自分の住むエリコにおいでになったと知った時、どうしても会いたいと思ったのです。しかし、まわりにいた人々は、そのバルティマイを叱りつけて黙らせようとしますが、バルティマイはなおも声を激しく叫ぶように、イエス様を呼び求めました。

今、大きな試練の中で、わたしたちも、イエス様に会いたいと叫んでいます。この事態の先行きが見えないから、イエス様に向かって、語りかけています。みんな、わたしの明日が見えるようになりたい、そうイエス様に話しているように思うのです。

見えるという事柄は、十字架と復活において示されていることのように思います。今、目に見える現実は十字架であっても、なお復活の希望をもつ時、そこに信仰によって、見えるという世界が開かれていくからです。

イエス様は、「あなたの信仰が、あなたを救った」(マルコ10:52)と言われました。今、わたしたちは、どうにもならない、どうしようもない、というような十字架の経験をしています。イエス様も死の十字架を経験されました。

 

でも、神様は、わたしたちをそのまま十字架で終わりにされないで、このままでは終わらないのだよと、希望を与えてくださいます。このように、十字架を通して見る希望を、復活といいます。恐れ、不安に生きるのではなく、イエス様を信じて歩みたいと思います。            (小川宏嗣)

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2020年5月17日

「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。

だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

    (ルカによる福音書2232節)。

 

みんなで教会堂に集まっての主日礼拝を休止してから、ひと月が過ぎました。わたしたちが、この一ヵ月をとても寂しい気持ちで過ごし、今も不安を抱えているのではないでしょうか。

ある方が、「改めて教会の空間は特別なものと感じます。…早く教会の中で礼拝が行われる日がきますように」との声を寄せて下さいました。改めて、今まで当たり前のように教会に集い、讃美を献げ、共に救いの喜びを分かち合ってきたことが、どれほど尊くかけがえのないことであったかと思い知らされる日々です。

新型コロナウィルス感染拡大によって、地上のものがねじふせられていく、人の人生までもつぶされていくという、わたしたちの力ではどうにもならないような、大きな力を持っているもののあることを覚えさせられています。

どうしたらいいのか。イエス様ならどうされるのか。そのように思う日々です。でも、イエス様は、きっと、弟子たちに言われたように、「お祈りだよ」(マルコ9:29)とこたえられるのだと思います。

そのイエス様の祈りとは、「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)。信仰がなくならないように、そして立ち直ったら力づけてやれる人になるように、それがイエス様のお祈りです。この祈りによって、わたしたちは癒され、支えられているのです。

この大きな試練の中、わたしたちは、イエス様の祈りによって立ち直らせていただいて、周りの人たちを力づけていく人になっていきたいと思います。

 

  (小川宏嗣)

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2020年5月10日

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」

   (コリントの信徒への手紙二416節)。

 

わたしがキリスト教に魅かれる一つの点は、立派な理想的な人物像を求められないところにあります。むしろ弱さや愚かさを抱え持った自分を、そのまま認めるように求められています。

この手紙を書いたパウロは、体のどこかに病気があり、その病気に苦しめられたが、病気があったからこそ、イエス・キリストを体現できたと告白しています。

また、パウロは迫害されたり、危機にさらされたり、次々と苦難を経験し、何度も体調を崩しては、今度こそダメだという状態に陥ったりもしました。しかし、そのパウロが、「外なる人は衰えても内なる人は日々新たにされていく」と言い切りました。

 

今、わたしたちは、新型コロナウィルス感染拡大により苦しみ、痛み、忍耐を強いられています。わたしたちの外なる条件は、大変厳しく困難としか言えません。しかし、その外なる条件がどんなに厳しくとも、人間の尊厳は損なわれることはないとパウロは宣言しました。それは彼自身が、神の力により、信仰によって守られていることを信じていたからです。

 

外なる条件は消滅に向かっていく、けれども内なる人は豊かに拡がっていく無限の可能性を秘めています。信仰によって生きる内なる人に向かって進んでいきましょう。                                     (小川宏嗣)

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2020年5月3日

 

「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』」(マルコによる福音書440節)。

 

今、わたしたちは新型コロナウィルス感染拡大で、恐れと不安の中にあります。しかし、このウィルスによる感染症を、必要以上に恐れていないでしょうか。本当に怖いのは恐れ過ぎて、排他的になっていくことです。感染した人への、医療従事者への差別と偏見が起こっています。

イエス様は聖書の中で繰り返し「恐れるな」と言われました。弟子たちの、「イエス様、何をしておられるのですか、どうしてわたしたちを助けてくださらないのですか」(マルコ4:38)という叫びは、今のわたしたちの叫びです。しかし、イエス様は、そのわたしたち人間の不安や恐れに向かって、「なぜ恐れるのか、神様を信じていないのか」(マルコ4:40)、そう叱られているのです。

病よりも怖いのは恐れです。問題はウィルスであって、人ではありません。必要以上に恐れて、人を差別するようにならないことを願います。

わたしたちは今、ウィルスに注意し、感染拡大しない工夫を最大限していますが、大事なことは、協力し合って一緒に生きていく最大限の工夫です。そこにこそ、キリスト者は力を発揮していきたいと思います。

この感染拡大が終息するまでは暫く時間がかかりそうです。大事な命を守るためのウィルス排除は完全にはできません。今、わたしたちに求められていることは、人を排除することではなく、共に生きることです。

弟子たちを叱ったイエス様の命は聖書に注ぎこまれて、永遠に生き続けています。このイエス様に大きな信頼を寄せていきましょう。

               (小川宏嗣)

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2020年4月26日

 

「…イエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。…あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる…そこでお目にかかれる…」(マルコによる福音書1618節)。

 

これまで、わたしたちの生活に暗さの実感は乏しかったのではと思います。夜の道は明るく、家の中も明るい生活をしています。24時間営業のお店もあります。もしかすると、わたしたちが悩みや苦しみといったことに脆いのも、夜の中すべてが明るく、暗さの経験が乏しかったからではないか、そんな思いがよぎります。

しかし、わたしたちは今、新型コロナウィルス感染拡大の影響によって、暗い出来事を経験しています。言い換えるなら、暗さを象徴している十字架の経験です。そしてその十字架は墓につながっていることを思います。絶望は、あきらめて終わります。あきらめは墓です。わたしたちは、あまりにも早くからあきらめを知ってしまっているのではないでしょうか。わたしたちは、イエス様の復活の希望と喜びを語りたいと思います。

「この墓では、イエスにお会いできない」(マルコ16:6)、「さあ、ガリラヤへ行きなさい」(同16:7)と聖書は告げています。わたしたちにとって、示されるところのガリラヤは、イエス様が働くところであり、イエス様と共に生きていくところです。

復活はただ単にもとの命を取り戻す、生き返りではありません。わたしたちにとって復活とは、死の墓をだけを見ないで、希望をもって神様を見ることです。イエス様が生きて働いていてくださることを信じて、イエス様と共に生きていくことです。復活を証ししていきましょう。

 

(小川宏嗣)************************************

2020年4月19日

 

「どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けば左に生きましょう。」(創世記139節)。

 

水の争いがもとで、アブラハムは甥のロトと別れる決心をします。その訣別のせりふが上句の言葉でした。

生まれ故郷を出て以来、あてどのない長旅、共に苦労を分ち合った唯一の肉親との別れ、アブラハムは文字どおり身を切られる思いだったに違いありません。自分の力の足りなさを嘆きながら、相手を棄て去る決断を迫られます。おそらく心の奥に深い痛みを感じていたことと思います。その痛みの中でアブラハムのとった行動は、相手に下駄をあずけることでした。

自分を取り巻く状況が、切迫して厳しいものになればなるほど、人はゆとりを失います。そのことだけに心を奪われ、ほかが全く考えられない、そういった心理状態に陥りがちです。「自分の思い通りにならなかったらどうしよう」、不安におののいて、心が恐れで閉じ込められてしまいます。

どうすれば抜け出せるのか、神様に下駄をあずければいいのです。わたしたちにはイエス様と共に生きるという道があります。イエス様がされたように、困っている者どうしが共に過ごし、互いに信じ合い、愛し合い、助け合う交わり、教会をつくっていく道のことです。

復活とは、イエス様ご自身の復活だけでなく、それを信じる教会の復活でもあります。この試練の時、復活の教会となっていきましょう。

                         (小川宏嗣)

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2020年4月5日

「彼は希望するもな 「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ…(ローマの信徒への手紙418節)。

 

パウロは望み得ないような絶望的な状況の時も、なおも望みを抱いて神を信じ続けました。律法を熱心に勉強し、それを守ることにかけては誰よりも誠実なユダヤ教徒でした。当時の新興宗教であるキリスト教を迫害したのにもかかわらず、ある時から急にキリスト教を信じることになりました。なぜ、と尋ねられても、最後のところは自分の努力や熱心をはるかに超えて、大きなうながしによって押し出されたとしか答えられなかったでしょう。

新型コロナウィルス感染拡大によって、今、不安と恐れがわたしたちの心を閉ざしてしまおうとするこの時、わたしたちは決して望みを捨てはしません。

収束の望みというより、生きることの望みを捨てないという意味です。なぜなら、死の瞬間まで、人は生きているからです。その時まで、その人の人生はその人のためにあるからです。

望み得ないことを望むとは、眼に見えないもの、かたちに現れないもの、手で触れ得ないものに望みを託すことです。真の癒しとは、神の約束を信じることによって、地上の歩みを確かにすることです。地上の歩みを豊かにすることです。

わたしたちの命は限られています。それがいつどこで打ち切られるのか誰も知りません。だから命を神に託した方が真に楽に生きてゆけるのです。これからも神に礼拝を献げ、聖書を読み、祈る営みを続けていきたいと思います。                   (小川宏嗣)

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2020年3月29日

「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのだめだと分かっていたからである。…ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。」

  (マルコによる福音書151015節)。

 

 イエス様が訴えられたのは、祭司長をはじめ当時のユダヤの指導者たちの妬みなのだと思います。そして妬みは、人の地位を危うくするものであることを、ローマ帝国の属州ユダヤの総督ピラトは知っていました。だから、イエス様の扱いには慎重で、自ら判断し行動せず、人に判断を任せるという仕方でイエス様を十字架につけようとします。

祭司長、律法学者、長老といわれる地位にあるものは、何よりも自分たちの生活の安泰を願って、人の権威におもねてイエス様をピラトに渡し、正義を装って囚人のバラバを許すようにと扇動します。

こうしてイエス様は十字架につけられます。利害関係において人の子を十字架につけようとする時、人は奇妙に一致して行動します。

 

ところで、彼らの思惑にのって、群衆は「十字架につけろ」(マルコ15:14)と叫ばされているのでしょうか。群衆はこのように、いつも利用される愚か者なのだということなのでしょうか。

 

わたしはそうは思いません。わたしもまた、自分の持つ不満や妬みといった罪の抱える心のはけ口を、あの時、イエス様にぶつけたのではないか。わたしも同じだった。その一人だった。わたしがイエスを十字架につけたのだ。祭司長が言ったから、ピラトがどちらかにせよと言ったからではない。わたしはそう聖書を読んでいます。       (小川宏嗣)

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2020年3月22日

「黙るに時があり、語るに時があり」(伝道の書37節)。

 

40代半ばの頃、腰を痛めてしまい、1週間ほど寝たきりの状態で、寝返りもできない辛さを味わったことがあります。人間の体の姿勢で何が一番苦しいかというと、一定の条件下で固定されている姿勢ではないでしょうか。そのままの状態を保っていなければならないという姿勢ほど辛いものはありません。

だから、体の部分々を必要に応じて動かしているからこそ、人間は生きていることができるのであり、動かさないでいれば、体はその部分の機能を失って、徐々に弱っていくしかありません。人間の心と精神にも、これと同じことが言えるのではないでしょうか。

 

聖書は、「黙るに時がある」(伝道の書3:7)と教えています。「黙る時」ではありません。後者は時に重きが置かれます。時の方が人の動作を決定するのです。しかし、前者は、黙るという動作に重きが置かれます。人の行動が軸になって時を決める、人間の業の中に時があるのです。

また、黙ると語るは反対の動作です。しかし、わたしたちが黙ることによって時を作るならば、それは語ることで時を作るに等しい。つまり、わたしたちが黙っている時に話しているのであり、語っている時に黙しているのです。

 

沈黙のうちに神の声を受け、沈黙のうちに決断し、行動していきたいと思います。(小川宏嗣)

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2020年3月15日

 

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一51618節)。

 

卒業の春を迎えています。今週、この礼拝堂で、汀幼稚園の卒園式が予定され、40名の園児お一人おひとりが幼稚園を巣立って行こうとしています。

「巡礼」という言葉がありますが、ラテン語ではペレグリチオといい、遠くへ行く、過ぎ去る、出発する、という意味をもっています。心の旅も、巡礼と呼ばれることがあります。人生という長い旅を、心聖くされてしたいなと思います。

旅といえば、聖書の中に、母マリアと父ヨセフが、少年イエス様を探し歩いたことが書かれています(ルカ2:4152)。テルトリアヌスという人が、そのことを旅という名で呼んだそうです。わたしたちにとっても、旅というのは、イエス・キリストを探すことではないでしょうか。

人生には、乗り越えることができない壁のようなものが立ちはだかることあります。でも、壁というのは、イエス様が向う側から打ち破って、やって来られるという、しるしでもあるとわたしは思っています。それを復活というのだと思います。

 

どうぞ神様に祈ってほしい、そう思います。わたしたちが、あきらめるところをしぶとく踏ん張ることができる原動力は、神様への祈りにあるからです。壁が立ちはだかる時、復活のイエス様に出会うことができると信じています。(小川宏嗣)

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2020年3月8日

「…イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい…』少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』」(マルコによる福音書143336節)。

 

十字架に架かる前、イエス様はゲッセマネで、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈りましたが、このイエス様には涙があるように思えてなりません。この杯は飲みたくないと、涙をもって祈るイエス様を想像するのです。

 

それは、わたしもまた、この杯は飲みたくないな、と思いつつ、キリストの涙で飲みくだすような、この世の事柄を抱えているからです。わたしたち人間には、耐えがたい病気があり、つき合いたくない人間関係があり、やりたくない仕事があり、逃げ出したくなるような生活があることを思います。どれも飲めない杯です。しかし、その杯を神様のご意志のままにと、イエス様は祈られました。

 

わたしたちにはイエス様の十字架を負う、というような言い方でしか説明できないような経験があります。しかし、十字架の向うには、必ず、神様からの復活が約束されています。苦しみは喜びに変わる。苦しいことにも必ず終わりがある。そのことを信じて、祈り、歩んでいこうと思います。

                            (小川宏嗣

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2020年3月1日

「…四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。ところが…律法学者が…心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。』なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に【あなたの罪は赦される】と言うのと、【起きて、床を担いで歩け】と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。』そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。』その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。…」(マルコによる福音書2112節)。

まず、「罪は赦される」という表現について「罪=病」とはどういうことなのかという点について話し合った。科学的に病の原因を証明することができず、先祖が罪を犯したことによって病になると思われていた時代であったことに注目し、その中において、この中風の人を運んでいった“四人の男”の信仰に学ばされた。彼の病を治してあげたい、イエスに治してもらいたいという思いによって、中風の人はイエスと出会うことができた。私たちもそれぞれ教会や神様との出会いは違うが、今ここに繋がっている神の家族だということに励まされる。   

 

また、7節で「神だけが罪を赦すことができる」と言う律法学者に対して、イエスは「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている…」と10節で言う。ただの人間のくせにと思われているわけだが、イエスは人間としてこの世界に来てくださり、また神様によって赦されて復活させられた。私たちも同じようにすでに赦されており、“人の子”として起き上がらされ、“神様による赦し”を伝えていっていいのだというメッセージを受け取ることができた。(青年会2月例会報告)。

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2020年2月23日

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネの手紙一310節)。

しばらく前に、小学校の校長先生をしていた方が次のお話しをしてくださいました。

授業の終わった放課後、その校長先生が教室をまわって歩いていると、六年生の教室で、ひとり、ある先生が泣いておられました。理由をおたずねすると、生徒のことで悲しんでいる。苦しんでいる。何度話してきかせても分かってくれない。どうしたらいいのだろうと、思い悩んで心を痛めている。そういうことでした。わたしたちには、どこかで、わたしたちが知らないところで、こうして心配していてくれる人がいるのですね。

その校長先生は、このことをお話しくださりながら、この先生の姿に愛と祈りを感じたのです、と言われました。

汀幼稚園のこどもたちは、今までに聖書の言葉を読んだり、イエス様のことを教えられて、イエス様のことを知った、あるいは、イエス様を好きになったということがあったと思います。

そのイエス様は、わたしたちのことを、どうして、みんな神様の言葉に背いて、離れていってしまうのだろうと、悲しまれ、どうしたらそのわたしたちを、救うことができるのだろうと、ご自分を十字架につけて、神様に執り成してくださったのです。ここに本当の愛があると、聖書は教えています。

 

汀幼稚園のこどもたちが、このイエス様の愛に気づいて、これからもイエス様のお名前でお祈りして、イエス様の心を自分の心の中に大事に育てていくことができますようにお祈りしています。(小川宏嗣)

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2020年2月16日

 

「兵士たちは出て行くと、シモンというキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。」(マタイによる福音書2732節)。

 

夜の礼拝堂で、こんなに遅く、と思われる時間に、お祈りをしている人に会うことがあります。話を聞いてほしいと訪ねてくる人もいます。

礼拝堂には、忘れ物もあります。忘れたのではなく、故意に置いていかれたのではないか、と思うようなものもあります。夜の礼拝堂は、人の悲しみを包んでいるように思われてなりません。

信仰生活というのは、自分の十字架を背負って、イエス・キリストに従って行くことであると考えています。そして、負いきれない十字架はイエス・キリストが一緒に負って歩んでくださると思っています。

しかし、聖書の中には、イエス・キリストの十字架を背負った人もあります。キレネ人シモンという人です。夜の礼拝堂に触れるようになって、このシモンのことを考えるようになりました。

わたしたちは、病気や人間関係、家族の重荷などを負っていかなければならない経験をします。無理に負わされてしまったとしか考えられないような、十字架の経験です。自分の十字架ではなく、イエス・キリストの十字架を負うというような仕方でしか説明できないような経験です。

 

しかし十字架は、必ず復活の光が解決します。夜の礼拝堂が朝を迎えるように。十字架の向うには、神様からの復活の出来事が約束されていることを信じて歩んでいきたいと思います。(小川宏嗣)

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2020年2月9日

「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」 (コリントの信徒への手紙二517節)。

 

以前のこと、初老の男性が訪ねてきた。「牧師さん、昨日から何も食っていないんです」と、それだけ言った。わたしは、持っていたものをそのまま渡した。会話もほとんど交わさなかった。ただ、その人が帰ってからも、無性に腹が立って、いらだちが消えなかった。

人に負い目を与えるようなこと、無償で施しものをしてはならないと思っている。礼拝堂の掃除、草取りでもいい、何かわたしを手伝っていただいて、報酬という形で差し上げるべきだったなと思う。無償で施しをしてしまったら、その人の人生は起てないと思っているからである。何か仕事をしてもらい、かすかな、 一時的にせよ心の和らぎを与えることはできる。

施しは金銭に限らない。何かで人のお世話をしたことのある方は、腹の立つ経験をしたり、或いは、なぜ自分が恨まれるようになったか理解できずに、おろおろとした経験があるのではないか。

ところで、施しを受けてしまった人が、或いは人生に負い目をもってしまった人が、起ちあがりを経験するのは至難なことである。しかし、何かきっかけがあれば、とわたしは思う。この人にも何かきっかけさえつかめれば、立ち直り再出発ができるのではないか、そう信じていく人間の触れ合いの在り方、出会いを考える。このきっかけを信じようとするのが、キリスト教ではないかと思う。人は常に古い自己に死に、新しい自己に生まれ変わりたいという願いを、心の奥深くに持っているはずだから。聖書はそのことができるのだという希望を語っているのだと思う。  (小川宏嗣)

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2020年2月2日

「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い/泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

      (詩編12656節)。

 

(先週より)けれども、死が目前に迫った時、「私は召天できる」と確信して語るようになった。死の五日前、妻の生前よく歩いていた公園の散策路を車いすで共に回った。妻は「空気は冷たいけれど、気持ちがいい」と力強く言った。召天するイメージを描けたのかもしれない。それが最後の言葉になった。妻の心の中でどんな変化があったのか。キリストが十字架にかかった時、人類すべての罪を背負い、復活を約束した。妻は信仰の原点を見つめ、祈りを深め、救いを求めたに違いない。それを私自身が知るためには、自らキリスト教徒にならなければ分からない、と考えた。

 私の71年間の人生で、罪は多かった。一つだけいうならば、多量の酒を飲み、家族を心配させたり、友人に迷惑をかけたりしたことである。キリストは赦してくれた、と信じたいが、本当にそうだろうか。最近、心臓の変調が起きた。並行して認知症状の進化、身体能力の低下が顕著に現れている。

私は、母を亡くした子どもたちのためにも今しばらく生きたいと思う。年来の楽しみである鉄道旅など趣味の世界もさらに満喫したい。今年夏からメンタルクリニックに通い、酒を断つ方法を身につけようとしている。循環器内科も名医として知られるところに変え、指導を素直に受けている。

これからは、キリストと十字架のことを日々忘れることなく、聖書を読み、祈りを捧げ、礼拝に来ることを、多くの人に約束したい。主の赦しを得るにはまだまだ祈りが足りないと思う。また、教会のために何かできることを見つけ、奉仕もしたいという気持ちを強めているところである。 

 

(「信仰告白②」20191222)*******************************

 

2020年1月26日

「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い/泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編12656節)。

 

 

私は、少年時代の10歳の時から、大学を卒業するまで、この福岡バプテスト教会のすぐそばで暮らしていた。白い壁、赤いレンガ、十字架を日々見上げていた。そして、憧れを感じていた。ここには豊かな人、心清き人が集っている、と思ったからだ。当時、我が家は貧しく、不幸が重なっていたせいであろう。しかし、信徒になることはなかった。その術を知らなかったし、自分には縁遠い場所と思い込んでいたのである。

 今年2月、50年ぶりに荒戸の地に戻ってきた。昔と変わらぬ教会の姿を見て、今度こそ教会員になろうと思った。私の長年の思いを忘れず、叶わせてくれる神の愛を感じる日々である。全知全能の神は私の望みを分かっており、導いてくれたと感謝を捧げたい。

 

 私はそれだけでバプテスマに臨むわけではない。私の妻が昨年秋にがんで亡くなる直前、私には分からない言動があったからである。妻は50年来のプロテスタント信者であるが、病が重くなるころから、「私は召天できるかしら」と不安を漏らすようになった。当時、無宗教の私には理解できなかった。妻は何か心曇るものを抱えていたのであろうか。(次週に続く)

        (「信仰告白①」20191222日) 

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2020年1月19日

「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、『どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った。」

     (マルコによる福音書216節)。

 

クリスマス、お正月と続いたので、親しい人と食事をする機会を持った方も、多かったことでしょう。親しい人と食事をすることの楽しみは話をすることにあると思います。心が通い合って、語り合うことのできる、楽しさであるのかもしれません。一人で食事をし、話す相手がないということは、時にはとても辛いものです。

聖書の徴税人レビは、イエス様と食事をして、その喜びに満たされたのではないでしょうか(マルコ2:1317)。レビは、イエス様のことを、「あの人は、わたしには関係のない人、食事を一緒にすることなどあり得ない」と思いこんでいたでしょう。ところがイエス様は、「わたしに従いなさい」(同2:14)とレビに声をかけ、一緒に食事をしたのです。それは、レビというひとりの人を人として生かしていくことであり、レビにとっては救いの出来事であったのです。

レビは「収税所に座って」(同2:14)いました。そのレビを招き、招かれたレビは食事を準備し、イエス様は食卓を共にされます。そしてレビの人生に最も大切な場所を与えられました。そこは、「わたしに従ってきなさい」と言われる、イエス様の言葉を聞き取ることのできる場所です。「ここへ座りなさい。ここにあなたの場所がありますよ」と語りかけられるのです。

 わたしたちもこの食卓を中心にした愛の交わりを作って行きたいと思います。                      (小川 宏嗣)

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2020年1月12日

「…上着を奪い取る者には、下着も拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。」(ルカによる福音書629節)。

 

本日、二十歳を迎える若い世代のお二人の上に神様の祝福を共に祈ります。かつて、お二人は幼児教育を受けて、基本的なこと、基礎的なことをたくさんに身につけられたと思います。けれども小学校・中学校・高校・大学と教育年齢が進むにつれて、それらのことは見えなくなっていきます。しかし、見えないだけで、身体に肌着のようにぴったりとついているのです。けれどもわたしたちは、人がどんな肌着を身につけているか、などということでは評価しません。どんな上着を着ているかで判断しようとします。

イエス・キリストの教えの中に、「上着を欲して奪いとりたいと考えている者は、下着をも欲するのだから、拒まないで、これが下着ですよ、といってあげるようにしなさい」という言葉があります。上着というのは、世の地位、名誉、富のたとえです。下着とは愛や信仰の意味です。それは、世の地位や富を欲して奪いとろうとさえする人間、しかしそういう人間でもそれなりに愛や信仰も欲しているのだ、だから、下着の方は拒まないで差し出してあげなさい、という意味なのです。

よごれた下着しか持ちえない人間、下着すらない人間は多く、上着ばかりを追いかけている。それは、わたしたちの姿かも知れません。イエス・キリストはそんなわたしたちに、この下着を身につけるようにと言うのです。

 

誰かに愛をわけあたえることができるように、他者のために祈ることができるように、そういう下着を身につけるように、人生の節目に立ち、新しい出発をするお二人の上に、神様の導きをお祈り致します。(小川宏嗣)

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2019年12月29日

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。」(マルコによる福音書737)

 

 「『この方のなさったことはすべて、すばらしかった』とわれわれはこの年の終わりに、過ぎ去ったあらゆる『時』について語ろう。われわれはこう語りたくないと思う「時」があるかもしれないが、そのような『時』が全くなくなるまで、祈りの中で、『この方のなさったことはすべて、すばらしかった』と語ろう。われわれにとって困難だった日々、われわれを苦しめ、不安にした日々、また、われわれの中に苦しみの痕跡を残した日々は、われわれが今日、感謝しつつ、謙虚に、『この方のなさったことはすべて、すばらしかった』と告白するようになるまで、過ぎ去らせてはならない。われわれはそれらの日々を、恐れるべきではなく、克服すべきなのである。このことは感謝によって起こる。われわれは過ぎ去った日々の理解することのできない謎を解こうとして、苦しい思いわずらいの中に入り込むべきではなく、われわれに理解できないことはそのままにして、安心して、神の手に委ねるべきなのである。このことは神の前で謙遜になって、『この方のなさったことはすべて、すばらしかった』と告白することになって、可能になるであろう。」(ボンへッファー『抵抗と信従』)。

 

2019年を神様へ感謝を献げて終えたいと思います。この一年、神様はわたしたちの信仰の正しさや完全さの中にではなく、罪や弱さの現実の中で、共に寄り添い、恵みを与えてくださったからです。新しい年も、その神様の真実に、いつも心と信仰の目を向けて歩む一人ひとりであり、また教会の信仰の歩みでありたいと願います。

 

2020年が希望に満ちた祝福の年であり、平和であることを心よりお祈りします。                         (小川宏嗣)

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2019年11月17日

 

聖書の中に、イエス様の、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」(マルコによる福音書121011節)という言葉があります。

 

人が人を、「役に立たない」と言い、石ころだと評価します。しかし、神様はその石を用いて、家を建築なさるというのですから不思議です。人には無限の可能性が秘められており、神様がその石ころをどこに置いたかということで、その人の新しい人生が始まるのだということだと思います。だから、石ころでいいのです。そこに信仰の新しい世界が開かれていくのです。

 

「聖書はね、倫理のお手本の書物ではない。神の愛を表現したものなのだよ。それでいい。それだけ分かってくれれば十分だ」。そう教えてくださった恩師がいます。「あなたの父と母を敬え…殺すな…むさぼるな…」(出エジプト20:1217)とありますが、これは倫理の基準として聖書が記しているものではありません。人は、誰かを殺したいほど憎むという経験をすることがあるかも知れません。でも、そういう気持ちをもって神様を見ると、神様が静かに首を横に振っておられるのです。「それはいけないんだよ」とです。その首を振る姿を表現したのが聖書なのです。どんな人にも価値がある。どんな人生にも意味がある。それをイエス様は言いたいのです。

 

わたしたちはそれぞれに置かれている意味があります。だから、自分らしくしっかり生きよう、そう思います。(小川宏嗣)

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2019年11月10日

「…イエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。…」

 (マルコによる福音書637節)。

 

イエス様のところへやってきた五千人以上の人々は、時間も遅くなり、食べ物が必要となっていた。「どうしよう」解散して、皆で自由に食べものを探すより仕方がない。そこは人里離れたさびしい所であったので、そう弟子たちは考えたよう。

しかしイエス様は、そうすることをゆるされなかった。「パンはいくつあるか。見てきなさい」と言われた。見つかったのは「パン五つと魚二匹」。それしかなかった。その五つのパンと魚二匹を手にとって、イエス様は祝福された。

ある時、教会を訪ねてきた人が、「仕事を切られ、いつ部屋を追い出されるか分からない、行く当てがない」と言った。なかなか家に帰ろうとしない。帰る家がないのだ。「さようなら」と別れ、「あとは自分で」ということになっても、帰るところがない。探すあてもないということは、わたしたちの時代が抱えているさびしさなのではないか。

「解散しましょう」という弟子たちの言葉は、ある意味では良識だが、良識には愛があるとは限らない。イエス様は「あなたがたの手で」と言われた。この言葉を大事に聞きたいと思う。

わたしはこのパンと魚を、恥ずかしいと思ってしまうような、自分のタラントのことと考えたい。それは、こんな少しでは何の役にも立たない、こんなんじゃだめだと思っているものだ。

でも、イエス様に従って、そのタラントを差し出す時に、イエス様はそれを祝福して用いて下さって、同じようにさびしいところでイエス様と会っている人々の糧として満たして下さるということ、このことを聖書を通して、信じる

  者でありたいと思う。(小川宏嗣)  

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2019年11月3日

 

「見よ。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこに行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

      (創世記2815節)。

 

もう成人した自分のこどもたちとして来た会話の中で、思い出すひとつの言葉があります。それは、わたしが何気なく使っていた「あとでね」、「また、あとで」という言葉です。

忙しさにかまけて、幼な子と言い交わした小さな約束を、わたしは何度破り続けてきただろうか、と振り返ることがあります。相手は幼な子だから、わたしは大人だから、きっと事情がゆるされるのだ、そう思っていたのだと思います。いや、大人になった今も、人に対して「あとでね」「また、あとで」と事情がゆるしてくれることとして、言い続けているのかもしれません。

 

しかし、幼な子は待つのです。そして、そこに小さな裏切りの世界があることを経験していくことになります。大人がする「あとでね」との約束は、やがて信用されない言葉となっていきます。

 

時として人間は、神様から離れることがあり、罪のうちに遠のいていくことがあります。しかし、わたしたちの信じる神様は、ご計画をかえず、約束を守られるお方です。そこに神様の真実があります。

 

もし、わたしたちが、「あとで」と約束することがあったら、必ず守る、ということを大切にしたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年10月27日

わたしは幼い頃より、父親から、「決して声を出して泣いてはいけない」と叱られてきました。涙が出るのは仕方がありません。どうこらえても溢れてくることがあります。しかし、声を出してはいけない、そう言われ、諭されてきたのです。その意味は、やがて大人になって、少しは理解できるようになりました。

「嘆いてはならない。泣いてはならない。声をたてずに嘆け」(エゼキエル24:15~)という聖書の言葉があります。戦争の悲惨な時代に、声をたてずに嘆く、悲痛な思いを経験した人がたくさんいたのです。人間の平和と命を考える時に、その時代、戦争に反対したキリスト者たちは、このエゼキエル書の言葉を自分自身のこととして読んだというのです。父自身も戦争の時代を生きた人でした。

人生には超えて行かなければならない峠のようなものがあります。声を出さずに泣く強さというものは、幼児の時から、身に付けて欲しいと、父が思っていたのだな、ということに今頃になって気づいています。

しかし一方で、「人は泣くだけ泣いてしまうと、決して死なないものだ」(ルイ・フィリップ)と言った人もいます。声を出して泣くことを奨励しているのです。人、様々ということでしょうか。

 

聖書の中に、イエス・キリストが涙を流したという箇所があります(ヨハネ11:35,ルカ19:41)。ということは、わたしが苦しくて悲しい時、イエス様が一緒に涙を流してくれる。一緒に泣いてくれるということです。わたしたちの信じている神様は、一緒に涙を流してくれる神様なのです。このことをお伝えしていきたいと思います。(小川宏嗣)    

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2019年10月20日

 

「…イエス…は復活なさって、ここにはおられない…あなたがたより先にガリラヤへ行かれる…そこでお目にかかれる…」

(マルコによる福音書1667節)。

故天野有先生(元西南学院大学神学部教授)が神様のもとに召されてから1年が過ぎました。天野先生は、カール・バルトというドイツの神学者の神学の研究を一生懸命しておられました。

わたしは神学生の時、天野先生より教義学を学びましたが、正直に言いますと、天野先生のお話というのは、とても難しいお話でした。難しいのですけれども、天野先生はとにかく一生懸命でしたので、わたしたち学生も一生懸命お話を聞いたのです。

 わたしは、「真剣」ということはとても大切なことだと思います。分からなくても、一生懸命その人が真剣に生きていたり、その人の言うことや行いを見て、その人が大事にしていることに気がつくのではないでしょうか。きっと、天野先生はそういうお話をすることの中に、神様からいただいた愛を持っておられたのだと思います。

わたしは、天野先生よりその愛をいただいたと信じています。そして先生が語られた言葉の一つひとつがわたしの中によみがえっています。聖書の言葉で言えば、死の墓ではなく、ガリラヤに行かれて、イエス様は会ってくださったのです。

わたしたちは死の墓を前にして失望します。死の墓だけではありません。様々な悩み苦しみ、失敗の中で、もうだめだと思います。でも、わたしたちがだめだと思うそのことを、神様はもっとよいことにかえてくださいます。死の墓を見ないで、希望をもって神様を見ること、このことがわたしたちのよみがえりの信仰です。ガリラヤは、イエス様がわたしたちと会ってくださるところです。

 

                           (小川宏嗣)

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2019年10月13日

「イエスは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ』と言われた。」(マルコによる福音書929節)。

 

わたしたちが神様と結びつくのを妨げる。人と人との間を壊していく。その人の人格をかえてしまう。そういう悪い力があります。イエス様のところへ、そういう悪い力に苦しめられている人々がたくさんやって来ていました。時々口がきけなくなって倒れる子どもと、そのお父さんもそうでした(マルコ9:1718)。イエス様の弟子たちがそのこどもを助けられなかったのです。

弟子たちはイエス様に、「どうしてわたしたちには、助けてあげることができなかったのでしょうか」(同9:28)と尋ねます。イエス様は「それはね、お祈りによらなければだめなんだよ」(同9:29)と答えました。

今、わたしたちの教会には、わたしたちがとてもかなわないような大きな力、事情によって教会から遠くなってしまっている人たちがおられます。どうしたらいいのだろうかと考えます。

イエス様ならどうされるのでしょうか。きっと、弟子たちに言われたように、「お祈りだよ」と答えられると思います。では、そのイエス様のお祈りとはどんなお祈りなのでしょう。

「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)。信仰がなくならないように、そして立ち直ったら力づけてやれる人になるように、それがイエス様の祈りです。このイエス様の祈りによって、色々な強い力、悪い力から守られて助けられているということなのです。

口がきけなくなり倒れてしまうこどもとお父さんも、このイエス様のお祈りによって、立ち直って、みんなを力づけていく人になったことでしょう。

                             (小川宏嗣)

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2019年9月29日

「...イエスは言われた。『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。

今後はもう罪を犯さないように』。」

    (ヨハネによる福音書811節)。

 

早朝の神殿にイエス様がおられ、そこへドヤドヤと人が群がってやって来て、ひとりの女の人を連れ出して、「この女の人は姦淫の場で捕まえたけれども、あなたはどう思うか」ということをイエス様に問いかけました。

イエス様は、「あなたがたの中で罪のないものが、まず女に石を投げつけるがよい」と言いました。ところが、イエス様が「石を投げればよい」と言ったのに、誰も投げませんでした。それどころか、ひとり、ふたりと去って、最後には誰もそこには残らなかったのです。そして最後に大事なことをイエス様は言いました。「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

中学生の頃、学校である事をしでかして、職員室に呼び出されて、先生にひどく叱られた経験があります。叱られているわけですから、反抗しないで黙って下を向いています。最後に「帰りなさい」と言われて、ホッとしたという経験をしました。「お帰りなさい」という言葉には、そのように人をホッとさせるような、そういう優しさが含まれていると思うのです。

しかし、「お帰りなさい」と言われても、一体どこに帰ったらいいのか、わたしたちにも、女の人にとっても、そういう問題があります。もし、帰る家すらなかったら、一体どこへ帰るのでしょうか。その「お帰りなさい」はどこなのか。女の人はどこへ帰るのか。わたしは「教会」であると思います。

この「お帰りなさい」という言葉の中に、いつでも教会に帰っていらっしゃいというイエス様の言葉が、わたしたちに語りかけられていると思います。「お帰りなさい」という言葉の中に、信仰をとく鍵があり、この言葉を言い続けるために、教会は宣教をしているのだと思います。(小川宏嗣) 

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2019年9月22日

 

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネによる福音書2118節)。

 

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この世で最上のわざは何? 

楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。

まことのふるさとに行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、

真にえらい仕事。

こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。

それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛する人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ。わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

 

(ヘルマン・ホイスヴェルス『年をとるすべ』)

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2019年9月15日

「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイによる福音書544節)。

 

 自分に好意を抱く人を「隣人」として愛することは容易なことです。しかし、「敵」を愛することは容易ではありません。子どもがケンカをした時、「みんなと仲良くしなさい」と叱るのは簡単かもしれませんが、自分自身が「敵」とする人々と仲良くすることは容易ではありません。

 最近はニュースやインターネットなどで、他国に疑いを抱かせ、差別を陽動するような情報が増えています。人間は他者と線を引き「敵」と定め、みんなで貶めることで安心を得ることがあります。特に自然災害や不穏なニュースなどでみんなが不安に襲われた時、不安の裏返しとして、極端な悪いかたちでの共感が現れます。

 192391日、関東大震災が起きました。混乱の中でデマが広がり、朝鮮人の方々が暴徒化し、盗みを働いているという誤った情報が人々を不安に陥れました。結果多くの朝鮮人、また朝鮮人であると疑われた方々が日本人の手によって虐殺されました。この出来事から100年近くがたちましたが、残念ながら今も日本の中の歪んだナショナリズムや差別意識は当時と変わらず色濃く残っています。最近では、関東大震災後に日本人による「虐殺」はなく、それらはすべて正当防衛であったと主張する人も出てきています。人種で人を切り分けて、罪のない人を殺した上に、未だにデマを広げようとする動きがあります。

 イエス様は仲間だけではなく、様々な隔ての壁を超えてすべての隣人を愛するようにと言われます。その隣人とは自分が敵対し、憎しみを憶える人をも含みます。罪を繰り返す私たち人間を諦めることなく、イエス様は大切な教えを語ってくださいました。長い不況が続き、個人主義が蔓延し、多くの人々が不安に包まれたこの時代にあってこそ、このイエス様の教えを私たちは真摯に聞いていきたいと思います。(奥村献)

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2019年9月8日

 

「イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」

      (ヨハネによる福音書58節)。

 

ベトザタの池のところに、38年間も病気で苦しんでいる人が横たわっていました。はじめは、「きっと治る、元気になって家へ帰ろう」と思って、池へやって来たのだと思います。水が動いた時、池の中に入ると、治るのです。でもその人は、自分では池の中に入ることが出来ず、また誰もその人を池の中に入れてくれなかったのです。そして、病気が治らないまま、長い年月が経ってしまっていました。「誰も助けてくれない。もう病気の治ることなどないかも知れない」そう考えていたのかも知れません。

イエス様はその人に、「良くなりたいか」と声をかけます。その人は答えられず、「池の中に入れてくれる人がいないのです」と訴えました。自分にも人にも失望して、「もうそういう機会は、与えられそうにないのです」と言っているのでしょう。このように、環境や状況というものが、わたしたちの思いや願い、意欲などを変えて行ってしまうことを思います。

事柄をわたしたちに置きかえてみれば、「学校が」、「仕事が」、「時間が」、「健康が」と、環境・状況の困難さを答えるわたしたちの姿がそこにあります。この問題が解決すれば、わたしの本当の生き方ができるようになる、そう考えている、わたしたちの挫折があります。

イエス様は、そんなわたしたちに「そのような答えをして、しゃがみこんでしまわないで、起き上がりなさい」と言われます。

主の日礼拝が、「起き上がりなさい」と言われるイエス様の言葉と出会う時となるように、礼拝に仕えたいと思います。(小川宏嗣) 

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2019年9月1日

 

私が教会に来るきっかけになったのは、私が汀幼稚園の卒業生だったことです。

中学生までは欠かさず教会に来ていましたが、高校の時は全く教会に来ていませんでした。また教会に来ることはないと思っていました。けれど、ある時、道端でばったり教会の人と会って、「最近教会来ないけどどうしたの?もう教会来ないの?」と言われました。この人との出会いがまた教会に行くきっかけを作ってくれました。私は教会のことを忘れていました。けれど、教会の人は私のことを忘れずに覚えていてくれました。そのことがとても嬉しかったです。

それから私は休まずに教会に出席するようになりました。礼拝に出席して、聖書を開くことが多くなっていき、自分の知識だけではわからないことや、青年会の学びだけでは分からない聖書のことを、よりくわしく知っていきたいと思うようになりました。そこで、牧師先生に相談し、信仰クラスで学ぶことになりました。またわくわくカフェに参加することによってより教会が身近に感じるようになりました。

最初は、牧師先生との1対1の学びは、バブテスマを受ける人だけが学ぶものだと思っていましたが、「学ぶだけでもいいよ」と言われたので、学びたいと思いました。信仰クラスの学びをするようになり、イエス様のことをより身近に感じるようになり、私を支えてくれる存在になっていき、イエス様のことを信じたいと思いました。

私は、一度教会を離れイエス様のことを全く考えることを忘れてしまった罪人です。けれども、イエス様は私のことを忘れてはいませんでした。また私を見捨てることなく受け入れてくださいました。これまで、イエス様が私を愛してくださっていることがわかりませんでしたが、学ぶうちにイエス様が私を愛してくださっていることがわかるようになっていき、私はバプテスマを受けようと決心しました。

私はイエス様を救い主と信じてこれからも歩んでいきます。またイエス様の喜ばれることをしていきたいし、教会を休むことなく礼拝に出席していきたいと思います。

最後に、私が小学校卒業の時に、出会った聖書の言葉を紹介して信仰告白を終わります。「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」(ルカによる福音書631節)。       

             (A.H『信仰告白』2019825

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2019年8月25日 

「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

(マルコによる福音書153739節)。

 

わたしたちのまわりでは、自分の意見を述べる時など、「みんなが言っているから」というような言い方が、よくされています。ひどい場合には、それが自分ひとりの意見であったりします。それは人間の狡さなのでしょう。

同じようなことですが、「みんなも見ていた」というようなことが言われます。「わたしは見ていた」とは言わないのです。

何もしないで、ただ十字架のイエス・キリストの姿を見ていて、「エリヤ来て、何かするかもしれないから、見ていよう」(マルコ15:36)と言った人は、そのような人たちだったのだと思います。そういう人たちのことを見物人と言います。

しかし、見物人とならないで、「このイエス様は、神の子としか考えられない」ということを、百人隊長は言いました。自分ひとりの言葉として言ったのです。このようなことを信仰告白と言います。

わたしたちは、百人隊長のように言うことができないかも知れません。でも、このような信仰告白をする人になってほしい、というのが、わたしたち教会の祈りです。

どうか、教会で、教会学校で、祈祷会で、イエス様のお話を聞くだけで終わらないで、そのイエス様に従って、信仰の旅をする人になって下さい。

                        (小川宏嗣)

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2019年8月18日

 

 「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。...『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』...」(ルカによる福音書4章16~24節)

 

 見い出そうとすること、求めようとすることに困難な人々が、安息日に、礼拝堂で、イエス様の話を聞いていることが知らされます。

 しかし、その時、イエス様のことを「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)とナザレに住んでいる人は言ったのです。イエス様の育ったところなので、知っている人も多かったのでしょう。「わたしたちのよく知っていた子だ」。彼らは驚きのうちに言うのです。礼拝を献げるところで、このような戸惑いが起こったという事でしょう。

 イエス様が十字架の上にあった時にも、「待て、エリヤが降ろしに来るかどうか見ていよう」(マルコ15:36)と人々は立っていました。しるしを求めたという事でしょうか。人は誤解しようと待ち構えているのです。復活の光に照らして見なければ、イエス様は見えなかったということでしょうか。

 復活という出来事とは信仰経験です。納得できるような説明、しるしを求める限り、わたしたちもまた、あのナザレの人々のように、イエス様にヨセフの面影を探すことになるのではないでしょうか。

 イエス様は、わたしたちに、信仰によってご自身を見ることを求められるのです。このイエス様の求めを、人との交わりにおいても、信仰によって互いを見ることとして、受け止めたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年8月11日

 

「それゆえ、主なる神はこう言われる。お前たちはむなしいことを語り

欺きの幻を見ているので、わたしはお前たちに立ち向かう、と主なる神は言われる。…平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰を上塗りするようなものだ。漆喰を上塗りする者に言いなさい『それは、はがれ落ちる』と。…」

(エゼキエル書13章8~16節)

 

生活が豊かになり、自分の事ばかり中心に考えるようになると、平和を作りだすことを忘れて、何もしなくてもこのような平和な状況がいつまでも続いて行くように思われがちです。そこに、平和を「欺きの幻」としていまうことが」起こるのです。

 「はがれ落ちる欺きの幻」(エゼキエル13:11)とエゼキエルは言います。偽りの平和が語られていたということです。それが、当時、エルサレムに預言するイスラエルの預言者たちの姿でした。

 「偽り」という文字は、「人の為」と書きます。わたしたちが、「人のため」というとき、更にもっと大きく、「国の為」という時、実はそこに偽りがあるのではないでしょうか。その偽りに気づきたいのです。

そのような偽り、欺きの幻をわたしたちに気づかせてくれるのは、エゼキエルのような預言者的行い、生き方をとおしてです。

 イエス・キリストは、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)と言われました。平和を作りだすことの第一歩は、自分の罪を認め、告白し、悔い改めていくことです。

 神の子の喜びの日を信じて、欺きの幻ではなく、イエス様の言葉を歩みたいと思います。   (小川宏嗣)

2019年8月4日

 

「何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。…主は喜ばれるだろうか…人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書668節)。

 

思い出すと悲しいこと、思い出して自分が嫌になること、そういうことは、誰にもあることだと思います。預言者ミカは、神様の喜ぶことを考えた時、多くの喜ばれないことを思い出し、「ああ、これではいけない」と自分に語っているように思われます。

そこで、神様は何を喜ばれ、何を求められるのだろうかとミカは考えます。そしそれは、「へりくだって神と共に歩むことである」と気づきます。神様の前にへりくだるということは、自分にとって都合のいいところだけを聖書の言葉にしない、ということでしょう。そして、聖書の言葉を「ここのところは、誰々さんに読ませてやりたい。反省するだろう」というように読まないということだと思います。聖書の言葉は、みな神様がわたしに語って下さる言葉なのだという思いを持つことだと考えます。

神様が見えるかたちで一緒に歩いて下さるわけではありませんから、神様と共に歩むということは、「何かにつけて、神様のことを思う」ということです。どんな時にも神様のことを考えるということです。

神様もどんな時にも、わたしたちのことを思い考えて下さいます。このことが「神と共に歩む」ということなのです。嬉しいことがあった時、辛い時、嫌なことのある時、何かにつけて神様のことを思うこと、このことを神様が求めておられるということなのです。(小川宏嗣)

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2019年7月28日

「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』」(マルコによる福音書440節)。

 

わたしは19歳から21歳まで漁船で漁師をしていました。船というのは積荷を積まないと走らないということがあります。風が強い場合には、船の積荷を加減して走らせるのです。この積荷が聖書のいう重荷です。教会もイエス様と一緒にわたしたちのそれぞれ持っている重荷を積んで走って行く。船はよく言われるように教会であると考えると、わたしたちもイエス様と一緒に船に乗って人生の沖に出て行く。一人ひとりが自分の重荷と一緒に船に乗っている。そうして走らせている。その船にはイエス様が乗っておられる。これが教会という船であるということを思います。

重荷ということを考える時に、わたしたちも色んな重荷を負っています。そして人の重荷は気づかず、それゆえに、それぞれ負っている重荷は孤独であるということも思います。しかし、重荷を降ろした船、積荷がない船は波のまま風のままです。小さな風に翻弄されてしまいます。

わたしはそれぞれ負っている重荷を、そんなに単純におろせるのだろうかと思います。わたしは重荷というのは、おろせないのではと思います。だから、重荷をおろしてイエス様のところに行くということは、そう簡単に出来ないと考えます。しかし、その重荷があるからイエス様と乗るわたしたちの船は走って行くのです。

 

重荷を負うことは、孤独なことですが、イエス様が一緒に船に乗っているということにいつも気づいていたいと思います。そして、これからもイエス様と一緒に、教会の皆さんと一緒にこの船に乗って行きたいと思います。                         (小川宏嗣)

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2019年7月21日

 

「…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい…」

(マタイによる福音書628節)。

 

イエス様は、「野の花をごらんなさい、そして野の花はどうして育つか考えてみなさい」と言われましたが、それは、どうして野の花が咲いているのか、どこに、どのようにして育っているのか、わたしの人生の野原で考えなさいということだと思います。

教育に影響を与えた人に、マリア・モンテッソリーという人がいます。モンテッソリー教育は日本でも取り入れられています。

モンテッソリーが学生時代、ある日の夕方、ローマの町の家路を辿っていると、そこに子どもを背負った母親が物乞いをして、道端を通って行く人に声をかけています。モンテッソリーが通ると、やはり手を伸ばして、「お嬢さんお恵みを」と言って手をさし出します。モンテッソリーはその時、その母親ではなくて、母親に背負われている子どもの方に目を留めます。子どもは一枚の色折り紙を手に持っていて、それをずっとくい入るように見ているのです。モンテッソリーはその姿を見て、どんなに自分の周りが暗く絶望的で変わらないとしても、そしてこの小さな子どもにとって、自分の環境を変えることができないとしても、この子に一枚の折り紙を与えるならば、この子の世界は明るく輝き、この子の世界は命を持ち、この子の世界は将来を持ち、広がっていくのだということを気づきます。モンテッソリーの感受性が心深く受け止めてそのように見たということでしょう。わたしたちもそのような経験を大切にしたいと思います。

わたしたちの野の花はどこに咲いているのでしょうか。わたしは、やはりそれは教会の中に咲いているように思います。教会そのものが野の花でありたいと祈っています。(小川宏嗣)

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2019年7月14日

「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。

けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」(ヨハネによる福音書69節)。

 

叱っても、説得しても人を変えることは出来ません。人を変えるということは、イエス・キリストがしたように、自分を十字架につけることによってのみ出来得ることではないでしょうか。

ある日、イエス様のお話しが終わって、人々が帰り仕度に気がつくと、もう夕やみが迫って来ていました。夕食の準備をしなければならない時間となったのです。「どうしようか。誰も食べ物なんて持ってやしない」。弟子たちは困惑してしまいます。その時、ひとりの少年が、五つのパンとさかな二匹をイエス様に差し出したのです。

それを見て、何もないと思っていた弟子のひとりが、「あの包みの中に、確か何か残っていたはずだ」そう思い出して取りに行きます。「ああ、そんなのでいいのなら」他の弟子たちも同じことをし始めます。そこに集まっていた人々は、皆、ゴソゴソやるのです。すると、パンは籠の中に溢れるほどに集まってしまう。まさか、誰も持っていなかったはずなのに。

これが自分を十字架につけて人を変えるということではないでしょうか。

そして、こういう聖書の読み方は、イエス・キリストの奇蹟を否定するということになるのでしょうか。そうではないと思います。奇蹟は頭で信じるものではなく、生活で信じることなのです。イエス・キリストの言葉に従う生活が奇蹟を起こすのです。

イエス様の言葉を生活の中で信じていきたいのです。(小川宏嗣)

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2019年7月7日

 

そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく、七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。…』」(マタイによる福音書18章21~22節)。

 

中学生の頃、教会で次のようなお話を聞きました。「ペテロがイエス様に向かって、『人をゆるす時に何度までゆるしたらいいか』ということをたずねた時に、イエス様が『七度を七十倍までゆすしなさい』と言われたけれど、その意味は、自分の経験から、イエス様は『ゆるしぐぜがつくように』というように話されたのだと思う」と、そんなお話でした。

 

わたしはその後、神学校で聖書のことを学ぶようになりましたので、イエス様が言われた「七度」というのは「完全数」であるとか、いろいろな理屈めいたことを知るようになりました。しかし、教会で聞いた、「七十倍ゆるしなさいというのは、ゆるしぐぜがつくように」とのお話は、それからいろいろな経験をしてきて、本当にそうだなと思うことです。

 

聖書というのは、もちろん専門的に学ぶことも必要です。けれども、自分の経験とか、人との出会いとか、そういうことから学び、そしてそれを証しすることもどんなに大切かということを思います。教会はそのことを教えてくれるところなのです。(小川宏嗣)

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2019年6月30日   

 

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、きょうだいたちを力づけてやりなさい」

                   (ルカによる福音書2232節)。

 

大切な特別礼拝にお招きいただき、感謝します。中條智子(ちゅうじょう ともこ)と申します。福岡市南区の長住バプテスト教会で、夫もともに牧師をさせていただいています。

生まれ育ったのは福井県です。実家はキリスト教とは縁のない家庭でしたが、たまたま入れられた幼稚園が教会付属幼稚園でした(今は学校法人になっています)。月曜日の朝は、ふだんは入ることのない、椅子がたくさんある部屋(礼拝堂だと思います)で、園長先生からお話を聞く時間がありました。紙しばいも見せてもらったと思います。おぼろげながら、日本の昔ばなしとはまったく違う登場人物の服装や名まえやストーリーに、不思議さを感じた記憶があります。そういえば、手渡される聖書には、その日の個所に、折り紙を細く切ったしおりが入っていました。先生たちが一冊一冊開いては、挟んでくださったのでしょう。新約のみの聖書とはいえ、おとなが使うのと同じものでしたから、読めるわけもないのですが、「きょうは、紫色のしおりのところです」と言われて聖書を開き、「わたしはぶどうの木」というお話をきいたことは憶えています。卒園するときは、それぞれが、いろいろな色のしおりがたくさんになった聖書をもらいました。

その後は、公立の学校だったこともあり、キリスト教に触れる機会はほとんどなくなりました。そんな私が、社会人となって教会に通うようになり、キリスト者となり、神学校で学んで牧師となるとは、自分自身も含めてだれも想像していなかったことでした。それとも、あのころ幼稚園の先生たちは、園児たちの中からキリスト者がでるようにと、祈っておられたのでしょうか。

 

(中條智子・長住バプテスト教会牧師)

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2019年6月23日

 

主のみ名を心から讃美します。

去る5月は、天皇の代替わりによる改元が行われました。天皇の神格化ともとれる礼賛と改元フィーバーの様子がメディアで一斉に報じられた1ヶ月でした。問題は何一つ解決されないまま置き去りにされ、新しい時代が到来したかのような気分のみが持ち上げられ、前を向かされているようです。

人の心も時間も偶像に支配され、国民主権、信教の自由、政教分離が侵され、日本全体が一つの方向へと乗せられていく恐ろしさ。沖縄の人びとが平和を求め、状況を変えようとあげる声に目を覚まさせられ、祈りを共にしていきたいと思います。

今年は623日の主日が「沖縄(命どぅ宝)の日」です。622日~25日まで行われる沖縄学習ツアーが守られますようにあわせてお祈りくださいますようお願いいたします。

(日本バプテスト女性連合 623「沖縄(命どぅ宝)の日」推進委員会)

 

~*~*~ 祈り便 第49信 ~*~*~

<一年を通しての祈り>

・沖縄の平和は私たちの平和です。沖縄の人びとの声に耳を傾け、真実を見ていくことができますように。

・沖縄の地に立てられている教会の福音宣教を覚えて。

<時々刻々の祈り>

・沖縄の人びとは選挙のたびに「戦争につながる基地はいらない!」と民意を表明し続けています。今日も座り込みで平和を訴える人びとに、日本全体が真剣に向き合う流れが起こりますように。

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2019年6月16日

「…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」(マタイによる福音書62829節)。

先週、汀幼稚園の園児の皆さんが素敵なお花をもって、牧師の住まいを訪ねてくださいました。来てくださったのが、年少のことり組さんでしたので、こどもたちが天使のようでかわいらしかったのです。お花をいただくととても嬉しい気持ちになります。その日は、幼稚園の「花の日礼拝」で、園児たちが持ち寄ったお花をもって、地域の方々を訪問したのです。

教会のお隣の園庭では、幼な子が先生方の近くに寄ってお話ししている姿を毎日見ることができます。こどもたちのあげる声、動きまわる姿、わたしは時々、それらの一つひとつのふるまいが、花のように見える時があります。「そうだ、ここに神の国があるのだ」(マタイ18:14)と幼な子を祝福するイエス様の声が聞こえてくるようです。

イエス様の好きだった花は、イスラエルの野に咲く、アネモネの花であったと言われています。イエス様は、「野の花をごらんなさい」と言われました。

人は、かけはなれた人とではなく、身近なところで比べやすい人とのものさしをもって、優劣をきそい、比較し、優越感や劣等感、高慢、嫉妬といったものを抱えこんでしまいます。「視点を変えて、野の花を見てごらん。野の花は野の花として咲き続けている。それでいいのだよ」とイエス様は言われているようです。

 

小さな花も神様の愛をたくさん受けて咲いて、わたしたちを癒してくれるように、わたしたちも神様からいただいた愛を、隣人に、地域の方々にお届けしたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年6月9日

2018年の春に西南学院大学に入学し、2年目を迎えました。福岡教会の皆さんに暖かく迎えられ、お祈りとお支えに励まされながら歩みを進めています。福岡の中心地にあり、長く深い歴史を持つ教会で研修をさせていただくということで、とても緊張していましたが、その緊張を皆さんが様々なかたちで解きほぐしてくださり、豊かな学びと信仰生活の時を与えられています。

神学生の学びは、自教会はもちろん推薦教会や全国の諸教会・伝道所の皆さんの祈りとお支えにより成り立っています。神学部の教授も、神学生一人一人を憶えつつ、学問を教えるということ以上の様々な牧会的なケアをしてくださいます。様々なかたちで支えてくださっているお一人お一人に、またそのお一人お一人の中に生きて働いてくださる神様に心から感謝致します。

全生活においてよく学び、遣わされたそれぞれの場でひたすら神様にお支えすることこそが、私たち神学生に託された皆様からの思いをお返しすることだと思っています。神学生はそれぞれに将来への不安や恐れの中にありますが、互いに励ましあい、祈り合いつつ日々の歩みを進めています。

 

本日は「ひたすら走ること」と題してお話をさせていただきます。これはフィリピの信徒への手紙3章14節からの言葉ですが、パウロはどのような意味でこれを語ったのでしょうか。毎日、一生懸命歩んでおられる皆さんは「もう走ってます!」と言いたくなるかもしれません。フィリピの信徒への手紙はパウロが獄中で書いた手紙です。大変な困難の中にあったパウロが、様々な問題を抱えていたフィリピの信徒たちへ特別な思いをもって書きました。パウロが自分自身、苦しみの中にありながら、フィリピの信徒に伝えたかったイエス・キリストの福音とはどのようなものであったのでしょうか。皆さんと共に考えたいと思います。(西南学院大学 神学生 奥村献) 

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2019年5月26日

 

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」

(ガラテヤの信徒への手紙52223節)。

 

「人が天国に持っていけるのは人柄だけだと思う…医師をとしてずっとやって来て…人というのは、二通りあって、自分のことばかり話す人と、人のことを話す人と、その二通りしかないのではと思う…そして人柄は個性であり、個性は大事だと言われるけれども、個性というのはしばしば私たちの欠点ではないか…」(故伊藤邦幸 元JOCSネパール派遣医師)。

個性を大事にと言われます。こどもにとって個性が大事だと言われる時、それが大きくなった時に欠点にならないような、そういう意味合いも含めて個性が大事だということを思います。わたしたちは個性としての欠点というものを持っています。欠点、穴だらけの自分ということを思います。

そういうわたしたち、穴だらけの人間が、人と人との言葉を通わせていくということがどんなに困難なことでしょうか。しかし、そういう欠点を持っているわたしたち、穴だらけのようなわたしたちのところに神様は風を送って下さいます。フルートという楽器のように、穴だらけであっても、中を風が通るといい音が出るのです。

 

わたしたちは罪の問題を抱えて、罪の穴だらけの体を持っている者ですが、そういうわたしたちの中を風が吹き抜けていって、よい音を出して下さって、人と人とを結び付けていく心の言葉を与えて下さる。そういう風を信じたいと思います。そういう風の経験、聖霊がわたしたちのうちに働くことを信じたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年5月19日

 

「わたしの愛する者たちよ、そういうわけだからいつも従順であったように、わたしが一緒にいるだけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい。」(ピリピ人への手紙213節)。使徒パウロがピリピ教会の人々に対して、獄中から、捕らわれの身でありながら、手紙を送っている一節です。

愛というものは、悲しいものだということを思います。それは、愛というものは本来は報いられないものだ、そこに悲しいものがあるのだと思うからです。

たとえば、親がこどもを一生懸命に育てて行く。しかし、こどもは離れて行ってしまう。自分たちの思ったようには育って行かない。愛の思いが深ければ深いほど愛が悲しみを持ってくる。そういうことがあります。人を愛していく。しかし、その愛というものが受け入れられない。愛することは悲しいものだということは、わたしたちの経験することです。

「愛する者たちよ」というパウロの呼びかけには、そういう思いが込められています。単なる仲間の人たち、普段、わたしたちの思いを理解している人たち、というわけではありません。わたしを裏切るかもしれない。わたし自身が愛せなくなるかもしれない。愛というものはそういう悲しいものを含んでいる。しかし、愛するあなた方に言いたい。「わたしはいつも一緒にいるわけではなく、これからいなくなってしまうのだから、どうか、このことを分かってほしい」と、獄中から、捕らわれの身でありながら書いているのです。あなたが存在して生きている、それだけでわたしは慰められ、勇気づけられ、励まされている。そうパウロはピリピの人々を励ましています。

 

このような人と人との関わる世界を大切にしたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年5月12日

 

創世記11章に『バベルの塔』の物語があります。人間が神様のところまで高く達しようと考えて、煉瓦を積み上げて行く。段々と煉瓦は積み上がったけれども、言葉が通じなくなって人々はみな、それぞれ散らされて行ったと記されています。

この出来事について、次のような逸話があります。「煉瓦を高く積んでいくわけだから、段々と高くなって行くと、足を滑らせて下に落ちる人も出て来る。また落ちるだけではなくて、命を失う人も出て来る。そうすると、それを見た人々は誰かが代わって登ってくればいい、そう考えた。ところが煉瓦が落ちると、せっかくここまで煉瓦を運んで来たのに、何てもったいないことをしたのかと怒りすらもった。人よりも煉瓦を大事にするようになってしまったので、人々の言葉が通じなくなって、そのバベルの塔を作っていくということは出来なくなり、人々はバベルの塔からみな降りて、散らされて行ったのだ。」(マックス・ピカート)という逸話です。

人よりも煉瓦、命よりも物を愛することによって、人は堕落し、そして言葉を失って、それぞれが散らされて行くということを思います。この逸話は、わたしたちは今、お互いの心が通じず、言葉が通わない、病んだ時代を生きているのだと警告しているようです。

ですから、言葉が通じ合うためにはどうしたらいいのでしょうか。わたしたちは物を愛することを止めて、人を愛そうではありませんか。そのために聖書の言葉に立ち帰って、神様の言葉をいただいて、人と人との心を通わせ、一つになって心が通じ合って行く、そういう世界を求めて行こうではありませんか。                   (小川宏嗣

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2019年5月5日

 

「ところが他の種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書13章8節)

 

 

福岡バプテスト教会の会員であり、恩師である故天野有先生(西南学院大学神学部教授)が昨年10月に神様のもとに召されてから6か月以上が過ぎました。

 

 天野先生は、カール・バルトというドイツの神学者がとても好きで、その人の神学の研究を一生懸命しておられました。正直に言いますが、天野先生のお話というのは、とても難しいお話でした。難しいのですけれども、天野先生はとにかく一生懸命でしたので、わたしたち学生も一生懸命お話を聞いたのです。

 わたしは、「真剣」ということはとても大切なことだと思います。分からなくても、一生懸命その人が真剣に生きていたり、その人のいう事や行いを見て、その人が大事にしていることに気がつくのではないでしょうか。きっと、天野先生はそういうお話をすることの中に、神様からいただいた愛を持っておられたのだと思います。

 以前、ある幼稚園の園長先生が、「子どもにとって幸せなのは、良い大人に出会うことだと思いますよ」とお話し下さったことがあります。本当にそうだと思います。わたしも、天野先生の出会いを通してそのことを実感しているからです。

 一番幸せなことは良い大人に出会うこと、それを聖書の言葉で言うと、そこに大切な「良い土地」があるということだと思います。良い土地というのは、こどもにとって良い大人に出会うことなのです。今の若い世代の人たち、特にこどもたちの前に、わたしたちも真剣に生きる大人の一人でありたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年4月28日

旧約聖書の中に「ノアの物語」があります(創世記69章)。

ノアという人は大変信仰深い人で、神様の言葉に従って生活をしていました。ところが、その信仰深いノアがある日、酒を飲んで、裸になって醜態をさらし、ひっくり返って眠ってしまいます。するとハムという一人の息子が、二人の兄弟の所に出かけて行って、そのことを告げ口します。その話を聞いて二人の兄弟、セムとヤファトは、父が裸になってひっくり返って眠っている、その姿を見ないようにして、着物を後ろ向きになってかけてあげた、裸を見なかったというのです(創世記9:23)。

 

わたしたちは誰でも見られたくない欠点というものがあります。過ちを犯すこともありますし、自分の裸もさらけ出したくないということがあります。ところがそれを嘲ったり、告げ口をしたりすることが現実にあります。立派な人だと言われているけれども、あの人だって分かったもんではない、そういう言い方をされます。裏側がありますよ、そういう評価をする。人の裸を笑うということがあります。

 

 

わたしはノアの物語を読む時に、後ろ向きで着物をかけてあげたセム、ヤファトのように生きたいなということを思います。後ろ向きで、裸を見ないで、着物をかけてあげられるように、そういう人生を送れないものだろうか、そのように考えています。(小川宏嗣)

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2019年4月14日

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコによる福音書1436節)。

 

イエス様はゲッセマネで、「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36)と祈りましたが、その時、イエス様の目には涙があふれていたように思われてなりません。「この杯は飲みたくない」と、涙をもって祈るイエス様を、わたしは想像するのです。

それは、わたしもまた、「この杯は飲みたくないな」と思いつつ、涙を流しながら飲みくだすような、この世の事柄を抱えているからです。

人は誰でも、付き合いたくない人間関係があり、やりたくない仕事があり、逃げ出したくなるような生活があるのだと思います。耐えがたい病もあります。どれも飲めない杯です。しかし、その杯を、神様のご意志のままにと、イエス様は祈りました。

新約聖書の中に、イエス様の十字架を「無理に」負わされたキレネ人シモンという人が出てきます(マルコ15:21)。わたしたちには、イエス様の十字架を負う、というような言い方でしか説明できないような経験があります。キレネ人シモンもまた、飲めない杯を、涙を流しながら飲んで、イエス様の十字架を負ったのではないでしょうか。もし、負いきれないような苦しみをもつことがあったら、「イエス様の十字架を負う」こともあるのだ、とこのキレネ人シモンのことを思い出してほしいのです。

 

しかし、十字架の向うには、必ず、神様のからの復活の出来事が約束されていることを信じて、お祈りしています。(小川宏嗣)

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2019年4月7日

 

「互いに別れの挨拶を交わし、わたしたちは船に乗り込み、彼らは自分の家に戻って行った。」(使徒言行録216節)。

 

本日は2019年度最初の主日礼拝を神様に献げます。新しい教会生活の始まりです。教会生活の真実とは、教会で神様に与えられた交わりの中で、真実を確かめ合って、それから分かれて、それぞれが自分の場に戻って行く。或いは、本当の自分になって出発して行く。それが教会生活であると思います。

「交わりというのは、あなたもイエス・キリストによって罪がゆるされているということを確かめ合っていくことだ」(浅野順一)という言葉があります。教会の交わりとは、ただ「元気ですか?」ということを確かめ合うことを超えて、あなたもイエス様によって罪がゆるされているということを、本当に深いところで確かめあっていく。そこに教会生活の真実あるのだということを思います。

 

わたしたち教会の今年度の歩みはどのようなものになるのでしょうか。一見、平凡に見え、単純に見えるようなことの中に、真実とか、誠実さがあるのではと思います。

 

わたし自身、今年度も教会の働きを続けることができることは喜びです。そのことの背後には、これまで、わたしを導いてくださった方、信仰の先輩の方々、或いは、今、ご一緒に、この教会を支えて歩んでいる方、その一人ひとりの存在が、わたしに新しい力を与えてくださっていることを忘れないでいたいと思います。そして、今年度も教会の皆さんとご一緒に教会の働きを誠実にして行きたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年3月31日

 

…上着を奪い取る者には、下着も拒んではならない。求める者には、誰にでも与えなさい。」(ルカによる福音書629節)。

 

過日、汀幼稚園の卒園式が当礼拝堂で行われました。36名の卒園生の立派で豊かに成長した姿に心から感動しました。こどもたちは幼稚園で、基本的なこと、基礎的なことをたくさんに身につけたと思います。けれども小学校・中学校・高校に進むにつれて、それらのことは見えなくなっていきます。しかし見えないだけで、身体に肌着のようにぴったりとついているのだと思います。しかしわたしたちは、人がどんな肌着を身につけているかではなく、どんな上着を着ているかで評価してしまいます。

イエス様は、「上着を欲して奪いとりたいと考えている者は、下着をも欲するのだから、拒まないで、これが下着ですよ、といってあげるようにしなさい」と教えました。上着というのは、世の地位、名誉、富のたとえです。下着とは愛や信仰の意味です。それは、世の地位や富を欲して奪いとろうとさえする人間、しかしそういう人間でもそれなりに愛や信仰も欲しているのだ、だから、下着の方は拒まないで差し出してあげなさい、という意味なのです。

よごれた下着しか持ちえない人間。下着すらない人間は多い。上着ばかりを追いかけている。わたしたちの姿でしょう。イエス様はそんなわたしたちに、この下着を身につけるようにと言いたいのです。

 

 

愛をわけあたえることができるように、祈ることができるように、そういう下着を身につけるように、この4月に新しい出発をする一人ひとりに神様の導きを祈りたいと思います。(小川宏嗣)

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2019年3月24日

 

ある年のとても暑い夏のこと。10歳の少女が学校から帰ってきました。「お母さん、お友達と泳ぎにいってもいい?」でもお母さんは留守でした。実はお母さんから川に泳ぎにいってはいけないと言われていたのですが、友だちに誘われた少女は、約束を破って川に泳ぎに行ったのです。川でボチャン、ボチャンとふざけていたら、突然ストンと河口の渦の穴に落ち込んでしまいました。川が海とぶつかるところには渦が沢山巻くのです。渦の穴は深く、上から見たらおかっぱの頭が渦の中でくるくる回っていました。◆少女はその中で怖い目にあっていました。廻りから黒い毛むくじゃらの腕や緑色の腕が何本も出てきて自分を捕まえようと迫ってくるのです。たすけて~、怖いよーと叫んでも、誰も助けに来ません。いつの間にか意識を失っていた少女は突然目を覚ましました。砂浜に寝かされていました。誰かが助けてくれたのです。◆この少し前、おじさんが釣りにやってきて、川で子供らがワーワー叫んでいるのが聞こえました。おじさんが駆け寄ると、川の渦の穴の中に子供の黒い髪の毛が見えました。急いで近づき、その子の頭を引っ張り上げたのでした。◆おじさんは、しばらくして気がついた少女を、自転車の後ろに乗せて、その子の家に送っていきました。お母さんは留守だったので、隣のおばちゃんが出てきて、事情を聞きお礼を言いました。◆それから何日かして、元気になった少女は、お母さんと助けてくれた人にお礼を言おうと、住所と名前が書かれた紙を頼りにおじさんの家を探しました。けれどもそこは空き地で家はありませんでした。近くの人に尋ねてもその人を知る人はいませんでした。◆その後少女は、ずっといつもその出来事を考えていました。そしてわかったのです。あれは神様が助けてくださったのだと。あの時命を落とさなかったのは、今この世界でその少女にする事、なすべき事が沢山あるのだと理解したのです。◆その少女はおとなになりました。そしていつも、しなければならないこと、すべきこと、したほうがいいことは何かとずっと考えているのです。(江副史子)

・・・主のことを来るべき世に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。詩編2231

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2019年3月17日

 

「イエスさまと同じ時代に生きていればなあ。」

イエスさまが一緒にいてくれて何もかも説明してくれるし、何をすればいいかを教えてくれるだろう。さらに、不思議な業や癒しを徴として目の当たりにすることもできる。それなら、まことの神さまを信じることは、ずっとたやすいに違いない。福音書を読むとき、時々そのように思ってしまう自分がいます。また、それは、イエスさまの教えを聞いても、なかなかその意味を理解すること、悟ることのできない群集や弟子たちを軽んじている時でもあります。

 弟子たちから引き離されてしまうことを強く感じる中で、イエスさまは弟子たちに語ります。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と。「わたしの掟」とは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(13:34)」というものです。自分は愛されたことがない。だから、他者も自分も愛することができない。そのような現実が拡がっている中で、イエスさまは、父なる神さまの決して絶えることのない愛を示し続けられました。イエスさまは、世にあって苦しみ、悩む人々の傍らに生きられました。そのイエスさまが約束されています。父にお願いして、別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてもらうようにしようと。

 

 別の弁護者、真理の霊、つまり、聖霊は、私たちを互いに新たに結び合わせます。イエスさまの生涯とその教えを思い起こし、それらを通して示された神さまの深い愛を悟るのは、聖霊の働きによるものです。神さまは、すべての(今を生き、かつてを生き、これからを生きようとしている)人々を愛しておられる。聖霊の助けによって、そこから現実を見渡すとき、世界がそれまでとは違った色合いを帯びて見えて来るのに気づくでしょう。    (元川 信治)

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2019年3月10日

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。

休ませてあげよう。」 

   マタイによる福音書1128節)

昔、教会学校で、「クリストホロス伝説」という話を聞いたことがあります。

簡単に紹介すると、クリストホロスという人は、若い時に大変放縦な生活をしていました。晩年になって、そういう自分を反省して悔い改め、それから修道者の生き方をしていこうと決心して、川のほとりに庵を作り、川を渡れないで困っている人がいると、案内をしてあげていました。そこへ、ある日、小さなこどもがやって来て、クリストホロスに、「おじいさん向う岸へ渡してください」と頼むわけです。クリストホロスは小さなあどけないこどもを見て、ニコニコしながら抱きあげて肩車にして、川を渡っていきます。

ところが、中程まで来た時に、急に川の流れが速くなり、水かさが増していきます。クリストホロスは、今にも、流されそうになります。押し流されて沈んでしまいそうになります。その時、自分が背負って肩車にしていたこどもがだんだんと重くなって、その重荷が身にかかって流されないのです。クリストホロスはやっと川を渡り終えて岸に着き、こどもを肩からおろしてやりながら、「あなたはいったいどなたですか」とたずねると、そのこどもがイエス様の姿に消えて行った。そういうクリストホロス伝説です。

 

わたしたちも楽しい教会、楽しかった教会生活ということを覚えていると思いますが、楽しく聞いた聖書の言葉、平穏な生活の中でイエス様との出会い、教会生活、それらのことが、自分が流されそうになるような人生の経験の中で重さになるのです。そして、その重さが自分を留めておいてくれる、支えてくれるのです。クリストホロス伝説はそれを教えてくれています。キリストを背負う者として歩みを取り戻したいと思います。        (小川宏嗣)

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2019年3月3日 

 

わたしたちは、嫌なことがあったり、人に話してもわかってもらえないだろうと思うような時には、黙ってしまうことがあります。話すことが嫌になったり、黙ってしまいます。悲しいこと、驚くようなことに出会って、声が出なくなることもあります。心とつながっているからです。

人から何度も注意されたり、叱られたりすると、話を聞くのが嫌になります。それで他の事をかんがえたりしていると、話が聞こえないという事があるでしょう。或いは、何かに熱中していて、周りの声も聞こえないということもあります。

人の嬉しそうな話を聞くのが辛くて、離れて声を避けるという経験をした人もいるでしょう。或いは、わたしは聞きたかったのに、話してくれなかったという寂しさを味わった人もいることでしょう。このように、話すことが出来ず、人の声が聞こえないということを、わたしたちも心の経験として持っているのです。

聖書に、イエス様のところへ連れて来られたある人は、「耳が聞こえず下の回らない人」(ルカ7:31~37)であったとあります。大変な苦しみにあったのです。イエスは、その人が、話ができるように、聞くことができるようにと癒したとあります。どんなに嬉しかったことでしょう。

わたしたちの周りには、苦しいことや辛いこと、悲しいことがあって、聞きたくないこと、が話したいこと、その反対に、聞きたいこと、話したいことがたくさんあります。そういうわたしたちをイエスは招いてくださいます。わたしたちには、わたしたちの話を聞いてもらえるところがあるのです。それは「祈り」です。安心して、たとえ口ごもることがあっても声を出して、神と話が 出来るところ、「祈り」へとイエスはわたしたちを招いてくれるのです。そこでは神の言葉も聞くことができるのです。(小川宏嗣)

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2019年2月24日

 

「何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書668節)。

 

ある小学校の教師をしている方から次の話を聞きました。「こどもに、『お母さんの喜ぶことは何か』と尋ねてみようと考えるなら、改めて聞くまでもない。それは『学校の成績がよくなること』と殆んどのこどもが答えるだろうから」というものです。こどもたちは、『勉強』という言葉の前に、あらゆることがゆるされてしまうということを、よく知っているのです。

最もよきささげ物とされる一歳の子牛をささげるなら、神は喜ばれるだろかと、聖書は問うています。そのような問いは、では幼児をささげ物とするならば、神は喜ばれるだろうかという問いにきわまっていくものだと、更に語ります。旧約聖書の時代、幼児供犠がなされていたのです。

より高価な犠牲を払うことにおいて、より大きな幸せを得ることができると期待をもって、それを喜びとしていないでしょうか。わたしが喜びとするところのものは、神も喜ぶところのものだとすることは、偶像信仰です。神はそのようなことを求めもせず、喜びもしないと聖書は語ります。

わたしたちは、こどもたちと、どんな時も「神を思う」ことを覚えていたいと思います。神の喜ばれるものを、こどもたちと一緒に、気づきたいのです。

 

(小川宏嗣)

 

2019年2月17日

 

「…愛がなければ、無に等しい。…愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。」 

(コリントの信徒への手紙一1318節)。

 

(先週より)私たちは平和には愛が欠かせないのではと思い、コリント信徒への手紙一1318節を読みました。ここで書かれている愛は「自分の利益を求めず真実を喜ぶ」とあります。神様が唯一の息子イエス様を地上に送ってくださり、私たち罪人の為に十字架にかかり復活されました。私たちは善人の為に手を差し伸べることすらためらうのに神様は罪人の私たちに救いを与えてくださいました。私たちが平和を作るためにできることはこの神様の愛を伝えて実践していくことだと思いました。この中で私たちは拒絶されたり、悲しんだり、傷ついたりしますが絶望することはないと考えました。なぜなら私たちは私たちの働きや結果に希望を置かず、神様の約束に希望を見出せるからです。

イエス様が地上に来て伝えられた愛は私たち人間の中に存在する罪が欲するものと敵対し、この愛を信じ生きていくことで世界から憎まれることもあります。このことはイエス様が「剣をもたらすために来た」と言われた理由の一つではないかと考えました。

最後に人間と神様が考える平和は決して別のものではないと思いました。単に神様の愛と平和は私たちの想像を遥かに超える素晴らしいものだということです。私たちがこの世界で見る全ての出来事は良し悪しに関わらず神様の計画の一部分であり、それらは全て神様が描く平和へと繋がることを私たちは期待しながら前に進めるのではないでしょうか。

 

私たち青年会は単に話し合うだけではなく、身近な家族や友人に対して愛をもって接していくことから始めたいです(「127日青年会報告②」

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2019年2月10日

 

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために

来たからである…」   

 (マタイによる福音書103435節)

 

今回の青年会はM.Sさんがリードし参加者で一緒に考え意見を交換しました。聖書の箇所はマタイによる福音書10章34節~39節で、テーマは「平和とは何か?」でした。

Sさんは「神様は平和を望んでおられると思うが、なぜこの聖書の箇所には『平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ』(マタイ10:34)と書いてあるのか疑問に思いました。そこで人間と神様が思う平和は違うのではないか」と思ったそうです。

まず初めに、平和をどのように定義するか話し合い、平和とは争いがなく人々全員が互いに助け合って生きていくものではないかと考えました。日本では現在戦争がなく平和と言われていますが、日常生活を見てみると身近の些細な争い、いじめ、あおり運転、自殺等が頻繁に発生していて、決して平和とは言えないのではないかと考えました。歴史を振り返ってみてもこの世界で争いはなくならないのではと考えました。

そこでなぜ争いが起きてしまうのかについて話し合いました。他人の考えや意見を受け入れられずに争ったり、自分に属さないものを欲して争うなど自分の利益を追求する中で争いが起こっています。もし自分の利益を追求せずに他人の為に尽くせば、完璧な平和は作れないが、平和な世界に近づけることができるかもしれないと話しました。…

             (※次週に続く「127日青年会報告①」

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 2019年2月3日

 

「イエスは出て言って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、

『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。」

(ルカによる福音書52728節)。

 

先日、汀幼稚園の一人の園児が、「どうしてクリスマスにイエスさまは生まれたの?」と尋ねてくれました。わたしは、「神さま、どうしてもイエスさまを生れさせたかったんだよ!」そう答えたのですが、分かったような、分からないような幼な顔をしていました。

イエス・キリストの誕生に飼い葉桶が用いられたその理由を、聖書は、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(ルカ2:7)と記しています。

場所がなかった。場所を与えられなかった。迎え入れてはくれなかったということです。そのような誕生をしたイエス様の生涯は、人を受け入れて行く、殊に、いと小さき者を迎え入れて、共にいることのできる場所を与えてくださる、というものであったと思います。

新約聖書の中に、イエス様が、「収税所に座っていた」徴税人レビを招き、弟子とした出来事が書かれています(ルカ5:2732)。招かれたレビは食事を準備し、イエス様は食卓を共にされました。レビにとって、イエス様に招かれて食卓に連なるということは、それまで考えられないようなことではなかったか、そう思います。イエス様は、レビの人生に最も大切な場所を与えられたのです。イエスの食卓は、「わたしに従ってきなさい」という、イエス様の言葉を聞きとることの出来る場所です。イエス様がレビに声をかけ、一緒に食事をしたということは、本当に人を生かしていくことであり、救いの出来事だったのです。

 

わたしは、あの園児に、「わたしたちを救うためにお生まれになったんだよ」そう話したかったのです。(小川宏嗣)

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2019年1月27日

「イエスは言われた。『わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない』…」(ヨハネによる福音書146節)。

わたしは外出先で、或いは旅先で、よく、道をたずねる、ということをしています。「人に道をたずねると、その人が本当に親切な人か、あるいは頭が悪い人か、よくわかる」(俳人・山頭火)という言葉を聞いたことがありますが、人に道をたずねると、それだけでその人柄がわかるということがあります。

また、道をたずねる、そのことによって目的地に迷わずに到着する、ということもあります。ところが、人を間違えると、とんでもない方へ行ってしまう、或いは回り道をしてしまう。そういうこともあります。どういう人に教えられるか、そういうことによって、道も目的地もずれてしまうということを思います。

弟子のトマスは、「どのような道を歩むのか分からない」(ヨハネ14:5)と言いましたが、これは自身の実存を問う言葉です。わたしたちも、「本当に歩むべき道を歩んでいるのか。本当に知るべき真理を知っているのか。本当の命を生きているのか」と、常に問い、問われているのではないでしょうか。

そのトマスに対して、イエス様は迫りをもって、「わたしこそが、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と言われました。

信仰の道とは、キリストが共に歩いてくださる道です。復活のイエス様が共に歩まれた「エマオの道」です(ルカ24:1335)。この道は人の言葉の道ではなく、神の言葉の道です。わたしたちが互いに聖書の言葉を話す時、心があたたかくなる道です。どなたもご一緒にこの道を歩んでみませんか。

                            (小川宏嗣)

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2019年1月20日

昨年末、西南神学部長の金丸英子先生より、「西南神学部の来年度の入学者は、2月の一般入試を残して、現在、1名である」という報告がありました(第104号「全国壮年会連合NEWS」巻頭言)。更に、「…『献身者が出ない。入学志願者が少ない』という状況は、他派の神学教育機関では常態化しています。それを聞くたびに『バプテストは頑張っているな』と思っていたところ、他人事ではなくなりました。これが単年度の『たまたま』なのか、それとも苦しい道程の始まりなのか、予測は立ちません。しかし、使命は変わることなく目の前にあります。福音宣教に生涯を献げる献身者の減少は、より広く、豊かに福音を届ける取り組みの縮小につながります。このことは、神学部教員には、主の御用に卒業生を送り出せない痛みと悲しみであり、同労の仲間が少なくなる淋しさでもあります。…しかし、いかなる『鎖』もつなぎとめることのできない、十字架と復活の主を伝える使命に呼び出された学生と共に学ぶ日々は、大きな喜び、深い恵み以外の何ものでもありません。諸教会の皆様には、これまでにも増して神学部を覚え、お祈り頂けますようお願いいたします。そして、『キリストの御名を伝える恵みと喜び』に、私たちとご一緒に与って参りましょう。」(同NEWS)ともありました。

 

 

この5年間、福岡バプテスト教会は、西南神学部の元川信治さん、杉本拓哉さんの2名を研修神学生として受け入れ共に歩みました。わたしたちが神学生の為に、神学校の為に真剣に祈り、伝道者養成の働きの為に真剣に献金を献げていくこと。何より、わたしの献身について本気で考え、真剣に祈っていくことが、今、まさに求められています。(小川宏嗣)

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2019年1月13日

 

聖書は、見えないものの中にある真実、ということを言っています。その見えないものの中にある真実の一つに、神の栄光も見えないということを語ります。たとえば、「わたしの栄光がそこを通り過ぎるとき、わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、わたしが通り過ぎるまで、手であなたを覆うであろう」(出エジプト記3322節)という言葉です。

聖書の教えによれば、人間は神を見ることはできません(ヨハネ1:18)。同様に、神の栄光が通り過ぎる時に、わたしたちは岩の裂け目に入れられてしまって見ることができないのです。岩というのは、その上に教会が建てられていくところの土地であり、礼拝堂の築かれる場所でもあります。

岩の裂け目にわたしたちが入れられてしまう。神様が手で覆ってしまう。 神様が最もわたしたちに深くかかわろうとされる時には、岩の裂け目にわたしたちがいる時です。覆われて神様が見えない時に、神様の栄光というものが わたしたちに示されているのです。

この岩の裂け目とはイエス・キリストの十字架のことだと思います。岩の裂け目はわたしたちが何も見えなくなってしまう、神様も見えなくなってしまう、辛く、苦しく、悲しい状況のことです。人生における十字架は、人を絶望させたり、暗く見えなくさせようとします。しかし、その十字架を、イエス様の復活の光をもって照らすということが神の栄光です。自分が一番苦しんでいたあの十字架の時に、神様は復活の光をもってわたしを照らして下さった、 それを聖書は十字架と復活ということにおいて、わたしたちに示しています。

 

ですから、わたしたちが岩の裂け目にあるということは、その時、神様が 共にいて下さる、まさにその時に神の栄光にあずかっているということを聖書は伝えているのです。                 (小川宏嗣)

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2019年1月6日

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」 (フィリピの信徒への手紙213節)。

 

わたしたちのまわりにはお祈りができないという方がいると思います。自分は信仰をもっていても人前でお祈りができない、また、自分の心が今はとてもお祈りなどできるような状況ではないと思っている方もいると思います。お祈りを強制されてしている方もいるかもしれません。仕方なしにしている方もいるかもしれません。或いはお祈りをしなければと、戸惑っている方もいるかもしれません。そういうわたしたちの内側に働きかけて願いを起こさせ、実現させてくださる方、イエス・キリストの導き、聖霊の導き、そういうことを聖書は信じてほしいと言っています。

 

わたしたちに信仰があるとかないとか、或いはお祈りができるとかできないとかということの前に、取るに足らない者であっても、全くふさわしい者ではないかも知れないけれども、そういう者を用いて、願いを起こしてくださって、そして、よしとなさることを実現してくださる方の導きに従っていこうと思うこと、これがキリスト信仰です。

この導きを信じる、神様がわたしたちに働きかけてくださるということを信じようと思う、そういう思いを共に持つことができたら、この新しい一年の教会も、家庭も、学校も、職場も、信仰によって支えられた愛のある世界が創り出されていくのではないでしょうか。

                         (小川宏嗣)

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2018年11月25日

世界バプテスト祈祷週間(1125日~122日)は、アメリカ南部バプテスト連盟のロティ・ムーン宣教師を記念して始められました。

中国伝道に生涯を捧げ、世界宣教のためのクリスマス献金を提唱したロティ・ムーン宣教師を、アメリカ南部バプテスト連盟の女性たちが、永遠に記念したいと考えました。そこで、このクリスマス献金を『ロティ・ムーンクリスマス献金』と呼ぶことにしました。

ロティ・ムーンは今も世界宣教の働きが語られるところで生きています。彼女の献身の生涯の証しは、主のために献身する者には大きな励ましとチャレンジを与え続けています。

日本バプテスト連盟も、ロティ・ムーンの信仰を受けつぎ、1931年に、女性連合の源である婦人会同盟によって世界バプテスト祈祷週間が開始され、その後もバプテストの女性たちの中心的活動として継承されてきました。現在、わたしたち日本バプテスト連盟は2組の宣教師、2組の国際ワーカー、計6名を送り出しています。

わたしたち福岡バプテスト教会も、女性連合が祈りと幻をもって取り組んでいる世界宣教の働きのために献げます。同時に、日本バプテスト連盟の国内外における宣教活動のためにも献げます。(小川宏嗣)

 

◇インドネシア:野口日宇満宣教師・野口佳奈宣教師

◇カンボジア:嶋田和幸宣教師・嶋田薫宣教師

◇シンガポール:伊藤世里江牧師

          (アジア・ミッション・コーディネーター、

シンガポール国際日本語教会)

◇ルワンダ:佐々木和之氏(国際ミッション・ボランティア、

 

プロテスタント人文・社会学科大学教員)***********************************

 

 

2018年11月18日

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

    (ルカによる福音書18:1314)。

 

祈るために二人が神殿に上ります。一人はファリサイ人、自己満足の思いのうちに、もう一人の徴税人は嘆きをもって胸をうちながら、境内に入っていきます。イエス様が譬えたお話しです。

ファリサイ人の過ちは、どこにあったのでしょうか。誰もが、わたしのようになれるはずだと思っていることだと思います。わたしのようになれないのは、生活態度が悪い、努力が足りない、勉強しない、遊んでいるから、欲ばりだからというように、考えていたからだと思います。人に迷惑をかけるような人を、だらしなく見ていたのだと思います。わたしは、そういう人にならないで本当によかった、ということなのだろうと思います。

 

徴税人は、わたしだってファリサイ人に負けやしないと思ったでしょうか。ファリサイ人を批判したりしたでしょうか。そんな心を持っていませんでした。神様、わたしは過ちを犯しています。わたしをかえりみてください。そうお祈りしているのです。神様を必要としているのです。ここに礼拝の大切な心があります。自分を低くする者というのは、神様を、イエス様を必要としている者です、ということなのです。徴税人は遠く立っていますが、神様から遠く立っているのは、ファリサイ人の方なのです。「義とされて帰る」のは、この礼拝の真実にふれて、新しく生きるようにということなのです。(小川宏嗣)

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2018年11月11日

 

「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」  (ピリピ人への手紙213節)

親がこどもを一生懸命育てていく。しかし、こどもは離れていってしまう。自分の思ったようには育っていかない。愛の思いが深ければ深いほど愛が悲しみを持って来るということがあります。人を愛していく。しかしその愛というものが受け入れられない。愛することは悲しいものだということは、わたしたちの経験するところです。

ある小学校の校長先生をしていた方から聞いたお話しですが、ある日の放課後、クラスを一つひとつ回っていたところ、あるクラスで一人の先生が泣いておられた。あなたはどうしてこんなに遅くまで帰らないでいるのですか、と声をかけたところ、その先生は、自分が担任をしているこどもの一人が、何度言い聞かせても嘘をつく、嘘をつくだけでなく教師に反抗する、逆らう、自分はどうしていいか分からなくなってしまった。そう言って涙を流してひとりクラスに残っていた事情を話された。その校長先生は、もしかしたら、これがキリスト教でいう、愛とか祈りとかいうものではないでしょうかと、話してくださいました。

 

あのこどもが救われなければわたしは救われない。あの人が苦しんでいるならわたしはとても生きられない。そういう関係のことを救い、愛というのだと思います。愛というものはなかなか報いられず、悲しいものであるのかもしれません。しかし、とるに足らない、ふさわしくない者を用いて、愛するという願いを起こしてくださり、そして、愛することを実現してくださる方の導きに従っていこうと思います。神様の導きを信じる、神様がわたしたちに働きかけてくださることを信じようと思います。         (小川宏嗣)

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2018年11月4日

 

「…あなたは初めの愛から離れてしまった。そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起こし、悔い改めて初めのころのわざを行いなさい。…」

    (ヨハネ黙示録245節)。

 

「初めのころのわざに立ち戻りなさい」(黙示録2:5)。

今日このように語ることが、どうしても必要である。今日の教会を知っている人であれば、誰も<教会は何もしない>といった苦情を言おうとは思わないであろう。それどころか教会は、全く献身的に、しかも真剣に、限りなく多くのことをしているのである。しかし、われわれはみな、多くの第二、第三、第四のわざを行なってはいるが、「初めのころのわざ」は行っていないのではないか。まさにそれゆえ、教会は、決定的なことを全くしていないのではないか。われわれは祝日を守り、威厳を持ち、影響力を得ようと努力し、その結果、福音的な青少年教育に従事し、福祉事業や、貧民救済を行ない、無神論に対しても批判を続けている。-しかし、一番大切なこと、すなわち、あの初めのころのわざは行っていないのではないか。あの初めのころの情熱的な、燃えるような愛をもって、神を愛し、兄弟を愛していないのではないか。もしわれわれが、今も、初めのころのわざを行なっているなら、もっと様子が変わってくるに違いない。何かが起こってくるに違いない。もちろん、何かを起こすのは神である。しかしわれわれの側も、自分を神に奉仕する者とし、あの初めのころの愛をもって神を神とすべきである。おそらく、そのようにする時にのみ、「信じる者の群れは、心を一つにし、思いを一つにし、いっさいの者を共有していた…」(使徒4:3233)ということが、再び、本当のこととなるであろう。

 

D.ボンヘッファー『説教』1932116日)

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2018年10月28日

 

「さて、過ぎ越し祭の前のことである。イエスはこの世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」

     (ヨハネによる福音書131節)。

 

イエスは正に過ぎ越し祭の日に神の子羊として十字架の上で血を流されようとしていました。イエスはその時がついに来たことを悟り、世にいる弟子たちを、この上なく愛し抜かれました。「この上なく」という表現を英語では、He loved them to the end.或いはHe loved them to the very end.「終わりの時まで」或いは「最後の最後まで」「十字架にかかって息を引きとるその最後の瞬間まで」というふうに読むことができます。

そして、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネによる福音書15:13)と語り、自らの命を十字架にかけられたのです。そのことによって私たちが私たちに対する神の最高の愛を知るようになるためでした。そして言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネによる福音書13:3435)。

 

 

人は誰かに愛されていることを実感する時、心が和み自分の周りの人々に対しても優しくなることができます。愛をもって接することができます。私たちは神様の最高の愛を知ったのですから、「どうか私に人を愛する心を与えて下さい。」と絶えず祈ってゆきたいものです。(諸岡邦子)

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2018年10月21日 

 

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生まるるに時があり、死ぬるに時があり…」(伝道の書312節)。

 

「神への感謝、生まれて初めての入院、手術、そして抗がん剤治療、そうして神によってこのように生かされていることに感謝。今回の入院で示されたみ言葉が、『生まれるに時があり、死ぬるに時がある』である。

ともすれば人間は自分勝手な思い込みにより生活している。しかし、それは全て神が備えてくれている『時』があることを実感した。

 

わたしにどのくらいの時間が与えられているのか、わたしには分からない。神が備えてくれている『その時』まで、しっかり生きてゆきたい。

頻繁に見舞ってくれた牧師とわたしを覚えて祈りを捧げてくれる教会のみんなに感謝。・・・

妻への感謝、こうしてわたしは病と生涯を抱えながら、現役サラリーマンとして生きている。病と障害を抱えて生きることができるのは、妻のおかげだ。妻への感謝。毎日の献身的な看護に感謝。

結婚の約束の時、『健やかなる時も病める時も』と牧師が述べ、誓った。あの時はこんなことになるとは思ってもいなかった。・・・

職場のみんなへの感謝。病と障害を抱えて働く場を与えてくださる神に感謝。また助け支えてくれる職場のみんなに感謝。・・・」

 

(故南側重行『病と障害を抱えて生きる~大腸がんになった~』2017/10/19

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2018年9月30日

「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」

      (マタイによる福音書13章8節)

 

『トマト博士』の野澤重雄さんは、一粒のトマトの種から13,000個も実のなるトマトの巨木を育てました。準備したものは、大きな水槽の中に栄養分たっぷりの水と、温度と光の調節だけだそうです。

野澤さんは言います。「技術的には何の秘密もないし、難しいこともないのです。…結局一番大切なのは育てている人の心です。成長の初期段階でトマトに、いくらでも大きくなっていいんだ、という情報を与えてやりさえすれば、あとはトマトが自分で判断します。

トマトも〝心を持っています。だから…できるだけトマトと心を通わせ激励してやってください」と。

 イエス様は種蒔きの譬えの中で、「良い土地に落ちた種は必ず実を結ぶ。種の持つ力を信じよう」(マタイ138)と話してくれました。良い土地の事を考える時に、わたしは教会を思い起こします。「自分の事を褒めてくれた人、わたしの話を一生懸命聞いてくれた人、真剣に聖書の話をしてくれた人」との出会い。それがわたしにとっての教会のイメージです。だから、わたしにとって「良い土地」というのは「良い人と出会った」という事です。

 種蒔きには、無駄はありますし、時間もかかります。しかし、必ず実りを見る。そう信じて種を蒔く。だからそこには大きな喜びもあります。

 

イエス様は、いつもみ言葉を聞く人の中に実が実る事を信じて、神様の言葉を話していました。そのイエスに倣って、わたしたちも希望の種蒔きをして行こうと思います。                     (小川宏嗣)

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2018年9月23日

 

「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」

       (レビ記1932節)。

 

聖書は、神様を敬うのと同じ心をもって、高齢者を敬いなさいと教えています。

それは、「老いたる者には知恵があり、命の長い者には悟りがある」(ヨブ12:12)からです。

 

同時に、高齢者に対しては、「自らを制し、人をそしらず、良いことを教える者となるように」(テトス2:13)とも勧めています。数々の人生経験の中で得た、「苦難に耐える力、周囲の人々と和を保つ力、善悪を見極める力」(テトス2:2)を若い世代の人たちに伝え、教えていく事において、尊敬を受けるに相応しい存在となると伝えているからです。

 

わたしたちの教会にも、はつらつとした高齢の方々がおられます。長い間、教会生活を続け、常に神様に祈り、聖書を読み、讃美を献げ、自己を吟味しつつ、他者との交わりを喜びながら歩まれています。

そのはつらつさとは、まず神様に自分が受け入れられ、ゆるされ、愛されている事に感謝する事、そしてその喜びを周囲の人々と共有しようとする事から自然と得られるものだと思います。

そのお姿から、人を受け入れ、人をゆるし、人と共に楽しむ事は、全ての人が目標とすべき生き方なのだという事を、わたしたちは教えられています。

                             (小川宏嗣)

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2018年9月16日

 

『わたしがあなたがたを選んだ』

 

今年の「全国高校野球選手権記念大会」は第100回、テレビの前からなかなか離れることが出来なかった。何しろ全国3781校から選ばれた56校の選手たちが、一人一人全力を尽くした球宴。なかでも金足農業高校の寺田輝星投手の、直球、変化球を巧みに交えて打者を打ち取る美技に感動するばかり。素質、そして並々ならぬ努力、選び抜かれるとはこう言うことかと、感心するばかりであった。

学校ではクラス委員、会社では役職への昇進、社会では地域のお世話役など、その人が他の人より何かに優れているからこそ、認められ選ばれることになるのではないだろうか。

しかし、主イエスが最初に選んだ弟子は、ガリラヤ湖で網を打っていたペテロ、アンデレ、そして船の中で親と一緒に網の手入れをしていたヤコブ、ヨハネの4人の漁師であり、マタイは世間の人からさげすまれていた徴税人だった。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵あるものが多かったわけでなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけではありません(コリント信徒への手紙11章)」。

欠点だらけで、自分でもいやになるほど欠けた器、しかし私どもが神様から選ばれたのは、何も人より優れたところがあるからではない。主イエスが最後の晩餐の席で弟子たちに言われた、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)との言葉どおり、まさに神様によって一方的に選ばれているのだ。このことのすごさ、神様の愛の深さを、礼拝の度ごとに感謝とともに改めて確認したいものである。

                                                         (蓑原善和)

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2018年9月9日

「初めに、神は天地を創造された」

(創世記1章1節)

わたしたちが心の中で、こんな神様ならいいな、こんな形をしていて欲しいなと想像して、金属、木や石等で造ったもののことを偶像と言います。人間は、見える像に安心します。見えるものによって、心が動かされやすくなります。目立つもの、評判によっても心が動きます。そして何か頼れそうなものを求めます。それがお金であったり、学校や仕事であったりします。その頼れそうなものを、もっと強く求めるところに、神に代わるようなものができてしまうのです。

聖書は、このような、人によって造られたものは、辱められ、耐えられず、滅びていくと教えています(エレミヤ10:1415)。なぜなら人間は、比較しつつ信仰したり、比較しつつ愛するものだからです。そのような信仰、愛を信頼し得るでしょうか。偶像とは、神を比較しつつ信仰することなのです。人間に対しても同じです。わたしたちは人を比較しつつ愛するのです。比較しつつ愛する人間の愛を信じられるでしょうか。比較しつつ信仰する人間の信仰を信用できるでしょうか。

 

わたしたち教会の信仰は、わたしたちは、わたしたちを創られた神様を信じるというものです。これがわたしたちの大切な信仰です。人間が神を作り出すのではなくて、わたしたちを造られた神を信じるということです。わたしたちは、この神様を宣べ伝えていきます。          (小川宏嗣)

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2018年9月2日 

 

わたしは以前、「神様とわたしたちの間は、シーソーのようなもので、自分が偉くなると、神様が低くなって、見えなくなってしまう。『神様ごめんなさい』という気持ちになると、神様が高くなってよく見えるようになる」という話を聞きました。わたしはこの話を、自分の心の中に不満や妬みの思いが起こった時に思い出しました。

 

中学生の頃、誰がイエス様を十字架に付けたのかという事を考えるようになりました。わたしは祭司長ではないかと思いました。

イエス様が訴えられ、裁判にかけられたのは、祭司長たちの妬みなのだと思ったからです。それに、わたしも中学校で嫌いな先生や嫌いな友だちがいたのです。あの先生さえいなければ、あの友だちがいなければ、どんなに学校が楽しいかも知れないと思っていたのです。でも、ピラトも狡いと思いました。イエス様を十字架に付けたのはピラトかもしれないと思いました。

 

そんな時、ある人が、わたしもイエス様を十字架に付けた、と話してくれました。自分に都合の悪い事が起こってくると、ピラトや祭司長、長老、律法学者、群衆のようにイエスを様を十字架につけるような事をしてしまう。だから、わたしもイエス様を十字架につけたという事でした。その人は神様を見上げて考え、わたしは神様が低くなって、見えなくなっていたのです。

大切な事は、聖書の話をたくさん聞いて、心の中にしっかりと持っている事です。聖書の言葉によって、心も力を持つようになるからです。

                             (小川宏嗣)

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2018年8月26日

 

「…侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています。…。こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分のこどもとして諭すためなのです。…そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者となりなさい。」(コリントの信徒への手紙一41216節)。

 

パウロは、「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています」(Ⅰコリント4:1213)と言いました。なぜでしょうか。それは、パウロが心の平和を生きているからだと思います。愛と柔和な心(同21)で生きているということでしょう。

 

わたしは小学生の頃に通っていた教会のある方のことを時々思い出すことがあります。その方は女性で、とても優しく、語弊があるかも知れませんが、その方のことを教会のお母さんのように思っていました。その方は、人のお話をあまりされませんでした。それは、教会の一人ひとりのことを本当に祈っていたから、話題にすることはなかったのです。

 

教会には、この心の平和をもった多くの教会のお母さんがいることを覚えます。あるいは、教会のお父さん、お兄さん、お姉さんもいて、そういう方々によって、教会の一人ひとりが支えられていることを思うのです。

キリスト・イエスに結ばれたわたしたちも、パウロに倣って心の平和に生きようではありませんか。(小川宏嗣) 

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2018年8月19日

 

聖書には、イエス様の「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」(マルコによる福音書440節)と、弟子を厳しく叱る言葉があります。わたしたちが聖書を読んで、イエス様に叱られるという経験することはとても大切だと思います。

しかし、イエス様は叱るだけではありません。イエス様が十字架に架かる前に、弟子のペトロにこう言いました。「しかしわたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカによる福音書2232節)。

「信仰がなくならないように祈る」。イエス様は叱るだけではありません。「なぜ、あなたは信仰がないのか」、そう言って叱るだけのイエス様だけではないのです。その叱ったイエス様が同じように、その信仰がなくならないように祈ってくださるのです。

わたしたちも病気、健康、あるいは結婚、試験、就職、子どものことなど、いろいろな問題で悩むことがあります。そういう時には比較的よく同情されたりします。しかし、こと信仰に関しては、自分の信仰を失いそうだと言って相談しても受け止めてもらえない、ということを経験したことがあると思います。

人は信仰のことを理解してくれないのです。けれども、人が信仰を失うような問題のために、イエス様は叱られるだけではなく、その信仰がなくならないように祈ってくださるのです。相談しても叱られるのが普通である世界にあって、祈って励ます世界、そのような在り方をイエスご自身が自ら示してくださったのです。ここにイエス様の愛があります。  (小川宏嗣)

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 2018年8月5日

 

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方をご自分において一人の新しい人に創り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2章14~16節)

 

広島平和記念公園に次の詩の碑があります。

『ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながるにんげんをかえせ にんげんのにんげんのよにあるがぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ』

(峠三吉『人間をかえせ』原爆詩集)

 

戦争とは、一方が勝利して争いが終わったということはありません。 平和になったということではないのです。「戦争は終わっていない、未だ続いている」と、73年経った今も、戦争の苦しみの中で生きている人がいます。平和は何よりも、そこにゆるしと和解を必要とするのです。

イエス様は言います。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)。平和を作りだすためには、自分の心に平和を持っていなくてはなりません。そうでなければ、人に平和をあげることはできません。この平和は、イエス・キリストを信ずることによって与えられる平和です。ご自分を十字架に付けて、ゆるすこと、和解することを教えたイエス様に従って、作りだしていく平和。このことをしっかりと覚えたいと思います。 (小川宏嗣)

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2018年7月29日

 

「…ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。…」(マルコによる福音書104652節)。

目の見えないバルティマイが、イエス様が自分の町エリコにおいでになったと知った時、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(マルコ10:47)と叫びました。彼は、目が見えるようになることを、どんなに願っていたか知れません(同51)。イエス様なら助けてくれると思ったのです。だから、どうしても会いたいと思ったのです。

しかし、周りにいた人々は、そのバルティマイを叱りつけました(同48)。静かにしなさい。黙りなさいというのです。でも、バルティマイは、なおも激しく叫ぶように、イエス様を呼び求めました。

人々はどうして叱ったのでしょうか。静かにじっとしていたら、イエス様を連れて来てくれたのでしょうか。静かにしてほしいのは、そこにいた人々の自分の気持ちの都合だったのです。自分の気持ちの方を優先させたのです。

こんなにうるさくするのなら、どこかに行ってほしいと考えます。そして、そのように考えることによって、イエス様とバルティマイを離れさせ、自分は静かにイエス様を見て、満足するという、過ちを犯してしまうのです。

 

わたしたちはどうでしょうか。教会はこのバルティマイの声を聞き取ることのできるところであってほしいと思います。(小川宏嗣)

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2018年5月20日

(先週の続き)

昨日まで私の横で生きていた夫が忽然と姿を消して影も形も無くなり、サラサラの灰の粉末になってしまったのです。温もりのあった彼の命も姿も形も無くなり、無になったのです。それはそのまま明日の私自身の姿なのだと、この時ほど強く深く自覚したことはありませんでした。しかしその当時、私の信仰は余りにも未熟で、私は「人の命は肉体の誕生で始まって肉体の死で終わり無となる」という枠組みの中でしか夫と自分自身の死をとらえることはできませんでした。故鈴木正久牧師も50年前、56歳の若さで死の床にあって自らの死と対峙している中で、「死とは無である」と言い切っています。

死とは何か、生とは何か。私は恥ずかしながら60歳を過ぎて初めて、自分の生と死と命をじっと見つめることになりました。すると当然、疑問が沸いてきます。死とは無なのか。人間の命は肉体の誕生で始まって肉体の死で終わり、無となる、本当にそれだけだろうか。私は答えを探し求めて、本を貪り読み、自分探しの長い旅に出ては世界中をさ迷い歩きました。するとそこには、若い日にイエスと出会い、救い主イエスを信じることによって命を与えられている夫と私がいました。私は私の信仰生活の原点に立ち返ったのです。

「私は蘇りである。私を信じる者は、たとえ死んでも生きる。又、生きていて私を信じる者は何時までも死なない。」(ヨハネによる福音書11:2526)。

 

故鈴木正久牧師は亡くなる3週間前、入院先の病院から教会の人たちに宛ててテープ録音した説教の中で、「まあ、肉体の死というものはあるわけですが、死の蔭の谷を歩んで主に導かれて行く、というふうに、死をも超えて生きてゆくわけです」と淡々と語っています。この言葉は、夫が天に召されていく日の夜、ちょうど死の15時間位前になりますが、一晩中片時も休むことなく、もはや視力を失ってしまった両目をキッと見開いたまま、両腕に前方に高く揚げて、私がいくら制止しようとしても、それを驚くほどの力で振り切って、暗闇の中を文字通り必死でまさぐっていた姿を思い出させます。あの時、夫も間違いなく、まさに死の陰の谷を歩いて主に導かれて行っていたのだと、今は固く信じることができます。あの時彼の肉体に残されていた全ての力を振り絞って、暗闇の中をまさぐるあの両腕の力の何と強かったことでしょう17年を経た今でも鮮明に思い出されます。

                    (諸岡邦子『メメントモリ』③)

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2018年5月13日

(先週の続き)

では、今私自身はこの「メメントモリ」という言葉をどのように生きているだろう?

-特にクリスチャンとして-と自問してみます。

亡き夫と私は2000年の3月に、9年間に及ぶイギリスでの生活に一応の区切りを付けて帰国しました。やがて2人とも引退生活に入ったら、永住権もあることだしイギリスと日本を往き来しながら過ごせるようにと、向こうで購入していた家はそのままにしての帰国でした。ところが、帰国してわずか2ヵ月後の5月に、誰にもまして健康には自信のあった夫の体が進行性の癌に蝕まれていることが判明しました。そして7月に開腹手術を受けた時には既に癌細胞は全身に広がっていて余命3ヵ月、場合によっては1ヵ月ももたないかもしれないと宣告されました。結局、それから6ヵ月間の闘病生活を経て、2001年の1月末に天に召されて行きました。

私は何の備えもなく、何の心の準備もなく、ある日、突然途方もない形で夫の死と向き合うことになったのです。夫は多くを語らず終始平静でしたが、私の心は慌てふためきました。のた打ち回った、と言った方がよいでしょう。挙句の果てに私に遺されたもの、私に突き付けられたものは、最愛の夫の死という厳然たる事実だけでした。それは、私のそれまでの人生の時間の中で最も決定的な瞬間であり、最も決定的な出来事でした。私の人生はこれによって完全に止めを刺されました。

人の死は「一人称(私)の死」と「二人称(あなた)の死」と「三人称(彼ら)の死」に分類される、とよく言われます。私は夫の死の1年前に立て続けに兄と姉の死を見ていました。それより20年前には父も亡くしていました。その父や兄と姉の死は私にとっては間違いなく「二人称の死」でした。私は彼らの死を嘆き悲しみ、それを受け入れるのに長い時間を要しました。しかし、神さまによって結ばれ、40年間互いに刺激し合って仕事に励み、家庭を築き、同じ方向を向いて生きてきた夫の死、言わば命を分け合ってきた夫の死は、もはや私にとって「二人称の死」ではなく、「一人称の死」、つまり私自身の死に限りなく近いものとして私に迫ってきました。そしてその「一人称の死」は、それまでに私が見てきた「二人称の死」や「三人称の死」とは似ても似つかぬ異質のものでした。

(次週に続く)。(諸岡邦子『メメントモリ』②)

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2018年5月6日

 

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ない

うちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。」

伝道者の書121

福岡市志免町にある栄光病院でホスピス長、院長、理事長を務められ昨年第一線を退かれた下稲葉康之先生が、ある会合で、ご自身の長年にわたる医療生活を支えて きた思いのひとつとして「メメントモリ」という言葉に言及されました。

メメントモリ(memento mori)、どうやらラテン語のようです。ネット上のWikipediaの説明によると、その意味するところはこうです。「自分がいつか死ぬことをわすれるな」「死を覚悟せよ」「自分自身に死を突き付けて、そこからどう生きるかを考えなさい」。 

ここに余りにも有名な話があります。アップルコンピュータの創立者、故Steve Jobs19552011)は、2005年にスタンフォード大学の卒業式に招かれた  記念講演で、「毎日を人生の最後の日だと思って生きよう。いつか本当にそうなる  日が来る」と訴えたのです。そして、“Stay hungrystay foolish.”(いつもハングリーであれ、いつも愚か者であれ)という言葉で30分に及ぶそのスピーチを結びました。それより2年前の2003年にすい臓がんを宣告されて一時は死を覚悟したSteve Jobsは正しくこの「メメントモリ」を「毎日を人生の最後の日だと思って  生きよう。いつか本当にそうなる日が来る」と表現したのだと私は思います。しかも、それを、人生の終わりの日に近づいている私のような老人に向かってではなく、世界最高とも評されているスタンフォード大学を今まさに卒業しようとしている前途洋々の若者たちに向かって訴えたのです。(次週に続く)

 

(諸岡邦子『メメントモリ』①)**********************************