メッセージ バックナンバー

2017年11月26日

 

自分の偉大な行為によって生きることのできる人間はひとりもいないし、またそのような教会もひとつもない。人間も教会も、ただ神が行った偉大なわざ、すなわちイエス・キリストの十字架によってだけ、生きることができるのである。

そしてこのことは、人間が見えないものによって、すなわちこの世では認められず、隠されたままの行為によって生きなければならないということを意味する。すなわち人間は誤謬を見ながら真理を信じ、死を見ながら永遠の生命を信じるという行為によって生きなければならないのである。人間は見ることはできないが、神のわざと恵みを信じて生きるのである。「わたしのめぐみは、あなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」(Ⅱコリント12:9)。

これは、福音を信じる教会にとっても同じである。教会は断じて、自分のわざによって生きることはできないし、また自分の愛のわざによってすら生きることはできない。むしろ教会が生きるのは、自分たちが見ることではなく信じることによってである。教会は苦悩を見ながら救いを信じ、誤謬を見ながら神の真理を信じる。教会は福音に対する裏切りを見るが、神の真実を信じるのである。福音を信じる教会は、目に見える聖者の交わりでは決してない。むしろ一切の外見に逆らって、恵みを信じ、ただ恵みによってだけ生きる罪人の教会なのである。かつてルターは、「聖者でありたいと願う者は、教会から外に出よ」と述べた。罪人の教会こそが、恵みに生きる教会であり、これこそが信仰の教会なのである。

「このように、いつまでも存続するものは、信仰である」(Ⅰコリント13:13)。―なぜなら、信仰は神によって、ただ神によってのみ生きるからである。…    (ボンヘッファー『主のよき力に守られて』)

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2017年11月19日

 

「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。」

(コリント人への第二の手紙4章18節)

 

聖書に偶像のことが書かれています(イザヤ44:9~)。金属・木・石などで造った像のことです。神や仏などの存在をかたどって造った像で、拝んだりするようなもののことです。つまり、偶像というのは、わたしたちが心の中で、こんな神様ならいいな、こんな形をしていて欲しいなと想像して、金属やき、石等で造ったもののことです。

モーセがシナイ山で、十戒をいただくための留守している間に、イスラエルの民は、金の牛を造って、神とした(出エジプト記32:1~6)という記事があります。人間は、見える像に安心するのです。わたしたちは、見えるものによって、心が動かされやすくなります。目立つもの、評判によっても心が動きます。そして何か頼れそうなものを求めます。それがお金であったり、学校や仕事であったりします。その頼れそうなものを、もっと強く求めるところに、神に代わるようなものができてしまいます。わたしたちはこのようにして、金の牛と同じようなものを、神として造ってしまうのです。

聖書の信仰は、わたしたちを創られた神様を信じるというものです。これがわたしたちの大切な信仰です。わたしたち人間が神を作り出すのではなくて、わたしたちを創られた神を信じるということです。この神様を宣べ伝えていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2017年11月12日

 

大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。『種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた。」(ルカによる福音書8章4~8節)

 

ある幼稚園の先生が、「一番幸せなことは良い大人と出会うことだと思います」と言っていました。上句の聖書の言葉で言えば「良い土地」というのは、こどもにとって良い大人に出会うことであるということだと思います。 今の若い世代の、幼稚園児、小学生、中学生、高校生の人たちのことを考える時に、困ったことだな、かわいそうだなと思ったり、どうしてこんなことが起こるのかと考える時に、本当に良い大人の人に出会ってほしいということを思います。そういうところにこそ良い土地があると思うからです。

イエス様は、「神様が蒔いてくださった種が良い土地で豊かに実を結ぶ」と言われました。神さまを信じる、イエス様を信じる、わたしは神さまのこどもになる、神さまの導きを信じる、そういうことが大切なのです。神さまが蒔いてくださった種がわたしたちの心の中で育ち、教会の中で育って成長していく、神さまからの種をいただいて、若い世代の人たちが大きく育って実を結ぶことができるように、ご一緒にお祈りし、神さまに礼拝をささげましょう。

                             (小川宏嗣)

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2017年11月5日

 

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」

  ローマの信徒への手紙515

 

パウロは「苦難を誇る」と言いました。それは、自分の信仰によってすべてが思い通りにいくことを誇るのではありません。苦しみも悲しみもある中で、なお生きる力が与えられていることを誇ったのです。苦難の中で、いつもイエス様が自分と共に歩んでくださることがパウロの誇りでした。

「忍耐という言葉のもとの意味は、<そのもとに留まり続ける>、<重荷を投げ捨てないで、それを負う>ということである」(D.ボンヘッファーという言葉があります。苦難からの解放こそが救いだと思います。しかし聖書は、救いとは苦難に遭ってもそれに立ち向かう力を持つことだと語ります。

パウロはイエス様が共にいると信じることで力を得、苦難を何とかやり過ごしたり、乗り越える経験をしました。パウロは苦しみに遭うことが、神がいない証拠とは言いませんでした。苦難の中で神の愛が心に注がれていると言ったのです。神の愛が注がれることによって、人は生きていけるのです。        (小川宏嗣)

 

 

 

2017年10月28日

「わたしたちはかつて祭りを守る多くの人々と 共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起こして、わが魂をそそぎ出すのである。」(詩篇42篇4)

 

<神を呼び求める者は教会を呼び求める>

 

わたしはひとりである。自分が心を注ぎ出すことのできる人は、誰もいない。そこでわたしは、わたしの慕いあえぐ神の前で、心を注ぎ出す。誰ひとりとして聞いてくれるものがない状態にあって、わたしは苦悩を自分の心のうちに押さえこまず、むしろ自分の心を神に注ぎ出すのである。これはこれで、とても重要なことである。しかし孤独になればなるだけ、他のキリスト者と共に礼拝をささげ、共に祈り、共に讃美し、そのことによって神をほめたたえ、感謝をささげようとする渇望が、ますます激しくなる。そしてまたさまざまな祭りを共に守ることを強く望むようになる。わたしはこれらのことを心に描く。そして、これらのことに対する愛が、わたしのうちで大きくなっていく。

 神を呼び求める者は、イエス・キリストを呼び求め、イエス・キリストを呼び求める者は、教会を呼び求めるのである。・・・

(「ボンヘッファー説教」19356月2日)

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2017年10月22日

      召天者記念礼拝

「わたしたちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」

(コリントの信徒への手紙二418節)

 

ある方が、先に召されたご自身のご家族との関係について、「わたしたちはイエス様とつながっています」と言われました。その言葉が心に残りました。

イエス・キリストとの“つながり”は永遠のものです。生死を超えています。先に召された愛する家族がイエス様とつながっており、神様から命を与えられてこの地上を生きているこのわたしがイエス様とつながっているなら、故人とわたしはつながっているのです。

わたしたち人間は死を打ち破ることはできません。イエス様でさえ、死の力の前に無力でした。死は神と人、人と人とのつながりを断ち切るのです。しかし神様が、イエス様を死より起こしてくださいました。神様が手をさしのべて、神と人、人と人とのつながりを回復してくださったのです。一緒に歩む、共に生きる、互いに神様から命をいただいている、そのことを喜ぶために、神様はわたしたちに命を与えたのです。

もしわたしたちが、この命を神様を愛するために用いず、自分の利益を中心として生きてしまう時、神様とのつながりを断ち切ることになり、わたしたちは死んでいることになります。

しかし、イエス様を復活させた神の愛が、生死を越えてわたしたちの命を支え、愛が永遠に生きることを示してくださいました。この世で出会い、愛し合い、深いつながりを持った人々との縁は、神様の永遠の愛に生かされているのです。    (小川宏嗣)

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2017年10月15日

秋の特別集会

 

福岡教会の特別礼拝にお招き頂き、皆さまとご一緒に礼拝を守ることが出来て、大変感謝しております。4月に福岡を離れて、埼玉にある連盟・宣教部の働きにあたることとなり、不安と恐れを抱きながら、この半年、諸教会の働きと協力伝道の業に仕えさせて頂いております。

私は長崎で、牧師の家庭に生まれました。小さい頃から教会の交わりの中で育てられ、愛されてきました。また、小学3年の時に父を病で亡くしましたが、教会の方々が温かく見守ってくださり、悲しみや寂しさに明け暮れることもありませんでした。亡くなる直前、牧師であった父は「子たちよ、父なくして真の父を知れ」という言葉を残していたと聞いています。父を亡くす中で、真の父、つまり神を身近に感じるようにとの勧めでした。そして、この真の父のもとにある教会の交わりが、私にとっては家族のようでした。教会は、神の家族だったのです。

昨年4月、熊本で起きた地震を通じて、私は熊本に通い続けました。今年4月の埼玉への移動によって、こうした働きを志し半ばで終えることになりましたが、小川先生をはじめ、当時一緒に汗を流して下さっていた方々が、いまも関わりを続けてくださっていることに感謝しています。

教会が、また牧師が、あるいはキリスト者が、なぜこうした活動を行うのでしょうか。それは、神の家族を信じるからなのだと、私は思います。どのような人々も神に愛され、家族の一員として招かれている。だからこそ、たとえその相手がキリスト者であろうと無かろうと、教会の関係者であろうと無かろうと、教会は、悲しみや痛みを負った人々に寄り添うのです。神の前に分け隔ては無いし、また教会はその神の家族としての世界を信じるのです。今、私たちは分断の時代を生きています。今こそ、聖書の福音が私たちを新たにしてくれることを信じて、共に生きる神の家族として歩んでいきましょう。

 

(日本バプテスト連盟 宣教部長 松藤一作)

 

2017年10月8日

 

「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである…』」(ヨハネによる福音書9章3節)。

次週の主日は秋の特別礼拝です。ご奉仕いただく松藤一作先生(日本バプテスト連盟宣教部長)の為にお祈り致しましょう。

さて、わたしたちの準備は、この礼拝に誰かをさそうことです。友人・知人・家族をさそうのは、とても勇気がいることです。しかし、礼拝にさそうということは、イエス様のところに一緒に行くことでもあります。わたしたちの中にも、誰かのさそいによって、イエス様と出会い、イエス様のことを思う人となった経験があることでしょう。だから、わたしたちも臆せず、友人・知人・家族に声をかけられたらいいと思います。

わたしは以前、どうして、わたしだけこんなことで苦しまなければならないのか、と思う経験をしたことがあります。わたしが悪いのだろうか、親や、同僚に責任があるのではないだろうか、と考えたのです。

その時、「神の業がこの人に現れるためである」という聖書の言葉と出会い、身体がふるえる思いがしました。どうしてこんなことが、という思いと、イエス様の救いの奇蹟は、このようにしてわたしの身にも起こるのだろうかと思い、心がかるくなったように感じました。神様は、このように聖書の言葉をとおしてわたしに語ってくださったのです。見える、ということは、神様がわたしを愛していてくださる、ということに気づくことなのだ、ということを受け取りました。

 

この礼拝で、特別にイエス様の言葉を伝えたいと思います。そのためには、わたしたち自身が、み言葉に生き、生かされていることが大切です。それが伝道の出発点になるからです。(小川宏嗣)

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2017年10月1日

 

「イエスは...言われた。『見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神のみ心を行なう人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。』」

(マルコによる福音書3章33~34節)

 

私の母は脳に重い「障がい」を持つ人たちの施設で働いていた。わたしは母の仕事を嫌っていた。なぜそんな人たちの世話をするのか、理解しようとしなかった。偏見を持っていた。おしっこ、うんこまみれになる汚い、臭い仕事。母は高校の個人面談の時、仕事着のまま現れた。「どうして、もっとちゃんとした格好で来れないのか」と、母に食ってかかった。うんことおしっこの臭いがしみついているような気がしたから。

その後、わたしが看護師を目指して看護学校で学ぶことになった時、脳に重い「障がい」を持つ人たちが生活をする施設で実習をした。そこで一人の方と出会い、関わりをもち、その実習を通して、その方がかけがえのない存在であることを身をもって知った。母がどんな思いで、その仕事をはじめて、定年まで働き通したのか聞いたことはない。しかし改めて、自分の母にたくさんの支えと励ましを受けて、今日まで歩んで来ることが出来たか、そして母のうしろ姿を通して、様々なことを教えられてきたことを思う。

イエスは、「わたしの家族とは神の御心を行なう人です」と言った。神の御心を行なう人はみんな神の子どもであり、イエスの家族ということ。家族が真に愛し合う家族となっていくために必要なことは、「血のつながり」ではなく、神の愛。この神の愛を信じ、神の愛に生き、互いに愛し合う。これが、神の御心ではないか。神の御心を行なう人とは、互いに神によって創られた素敵な人間だ、大切な人間だということに気づく人のことだ。(小川宏嗣)

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2017年9月24日

 

「この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役ただずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物、古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとに行くために。おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。すべてを成し終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』と。(『最上のわざ』ヘルマン・ホイヴェルス神父)。

 

「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ」とありますが、教会には祈り祈られる関係があります。たとえ何もできないような状況であっても、祈ることが許されています。孤独となり、内にこもり、外との関係が失われているように見えても、神さまがわたしたちに働きかけていることを知っている、そして神様に祈ることを知っている、それは素晴らしいことであり、何という恵みでしょうか。

 

「老いの重荷は神の賜物」と言うのは簡単ではありません。しかし、人それぞれに与えられた重荷を神様が与えたこととして受け止めることは、その人の

生きる姿勢、また老いに対する向き合い方を変えてくれるに違いないと思いま

す。       (小川宏嗣)

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2017年9月17日

 

愛し愛されること  創めること  耐えること

 

7月18日、「望ましい生き方と人生の終え方」を提案、まさにそれを実践された日野原重明さん(聖路加国際病院名誉院長、文化勲章受章者)が、ご自宅で105歳の人生を全うし召天されました。

 

先生はクリスチャンとして、色々な陋習に断固戦いを挑まれ、脳卒中、心臓病など成人病と言われる病気は日常の習慣によって改善されると、現在使われている「生活習慣病」の名称を提案、日本で初めて人間ドックやホスピス病院を作られました。 また80歳で発病、93歳で亡くなられた奥様の介護をされつつ、つねにプラス思考で平和運動まで様々な活動をされました。

冒頭の言葉は、「新老人の会」の3のモットーです。この年齢になって、先生がこの3つのことを選ばれた深い意味、そしてこれを実行することの難しさを改めて考えさせられています。 また、先生は多くの名言を残されましたが、「私たちに与えられた恵みを数えてみれば、どんな逆境にあったとしても、受けている恵みの方が、与えているものよりも多いことに気付く。受けた恵みを、どこかで返そうと考えたいものである」、心に響く言葉です。                  (蓑原 善和)

 

国連では、65歳以上を老人としているが、実態にそぐわないとして、75歳以上の自立して生きる老人を「新老人」と名付け、2000年に「新老人の会」が発足した。九州の現在会員は約2,000名。

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2017年9月10日

 

見よ、わたしは、あなたとともにいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない創世記28:15

 

もう成人した自分のこどもたちとしてきた会話の中で、思い出すひとつの言葉があります。それは、わたし自身が何気なく使っていた「あとでね」、「また、あとで」という言葉です。

忙しさにかまけて、幼な子と言い交わした小さな約束を、わたしは何度破り続けてきただろうか、と振り返ることがあるのです。「相手は幼な子だから、わたしは大人だから、それに牧師という大切な働きをしているのだから、きっと事情がゆるされるのだ」、そう思っていたのだと思います。いや、大人になった今も、人に対して「あとでね」、「また、あとで」と事情がゆるしてくれることとして、いつも言い続けているのかも知れません。

しかし、幼な子は待つのです。そして、そこに小さな裏切りの世界があることを経験していくことになります。大人がする「あとでね」との約束は、やがて信用されない言葉となっていきます。神様は上句の言葉のように、約束したことは必ず果たすと言っています。目には見えませんが、神様はわたしたちと共にいて、いつも支え導いてくれることを証ししています。

 

もし、わたしたちが、「あとで」と約束することがあったら、かならず守る、ということを大切にしたいと思います。             

                          (小川宏嗣)

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2017年9月3日

 

新約聖書の中に、イエス・キリストによって、安息日に、手の萎えた人が癒される話があります(マルコによる福音書316節)。

 

わたしたちは、「なぜ、このようなことが起こったのか」、「奇跡を信じることができるか」、「イエスの奇跡の意味することは」等、このような解釈をしてしまいます。

 

その話に登場する人々も、イエスがこの人を癒すかどうかを見ていたとあります。イエスがしようとすることが、律法に違反するかどうかを見ていました。そのことが、良いのかどうかを見ていたのです。その人を見るのではなく、律法に違反したかどうか、という気持ちばかりで、手の萎えた人のことは全然見ていないのです。それは、上記のような解釈をしてしまう、わたしたちと同じであると言えるでしょう。病気が癒されたことをその人と一緒に喜ぶ気持ちがないのです。

 

わたしたちは人を見る時、いろいろな物を基準にして見ると思います。髪の毛の色、肌の色、偏差値の数字、どこの学校を出たか。だからこんな人だ。でもそのように、表面的なことだけで人を判断していると、その人の本質は見えなくなってしまいます。そのような人々の「かたくなな心」をイエスは「悲しんだ」とあります(同3:5)。「安息日はこうあるべきだ、教会はこうあるべきだ」と思うことで自分が安心でき、自分を正当化することができるかも知れません。でもそういう考えで、本当に人を見ることができないなら、大切な命が見えていないなら、それはただの「かたくなな心」でしかありません。

「なおってよかったね」というところから、どうして聖書を読み取ってこなかったのだろうか、と振り返らざるを得ません。聖書をとおして、イエスの思いと新しく出会っていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2017年8月27日

 

「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。」(ガラテヤ人への手紙216節)。

 

信仰とは、神がわたしたちを守っていること、愛していること、罪をゆるしていること、それを信じること。でも、わたしたちは、自分の力で自分を守ろうとする。自分が守られていることが常に最優先で、自分が守られるためには、他人はどうなってもいい、他の人の苦しみは見ようとしない。

 

「信じる者だけが従順であり、従順な者だけが、信ずるということである」(ボンへッファー『キリストに従う』)という言葉がある。「信仰は行動で、行動は信仰です」ということ。イエス・キリストを信じることは、イエスに倣うこと、イエスを真似すること。でも、わたしはイエスじゃないし…と言い、出来ない、と言ってしまう。

 

 

イエスを信じることはイエスに従うこと、イエスに従うことはイエスを信じること。イエスの行動を真似ること。パウロは、「律法の行いによっては救われない」と言ったが、神の思いの詰まった律法を行わなくていいとは言わなかった。律法の実行によらないで義とされるのは、もはや律法を与えた神とは無関係に生きるようになるためではない。神の御心や神の求めとは無関係に生きるようになるためではない。神に背いた生活を安心してできるようになるためではない。それは「神に対して生きるため」(ガラテヤ2:19)。パウロは、神にしっかりと向き合い、神の思いを受け止めて生きるためと言った。信仰義認を律法を行わなくていいことと受け取るなら、それは間違だと思う。(小川宏嗣)

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2017年8月20日

 

「わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。さあ、起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。」(使徒言行録26章14~16節)。

 神がすべてのものを創造したということは、この世界のすべては、その根底においてつながっているということです。それは、わたしと関係ないものなど、一つもないということです。自分が考えることや行うことすべてがイエス・キリストによって世界のあらゆるものとつながっておるのです。

 パウロはこのことを、イエスの語りかけの中で知りました。自分は正義だと信じ、反対者を追跡している最中に、「パウロよ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちを蹴れば、自分を傷つけるだけだよ」とのイエスの声を聞くのです。他人に対して抱いている憎悪や殺意が、実はイエスに向けられているものであり、ひいては自分自身に帰ってくるものであることを教えられたのです。イエスの愛とゆるしを信じたパウロは、他人に対して愛とゆるしへとつながって行きました。人に対して抱く思いや関係は、イエスに向けられたものであり、それはまた自分に帰ってきます。わたしたちは、今、他者に対してどのような思い・関係を持っているのか、問い直したいと思います。そして、人と人が互いに傷つけ合って生きているようね世界の中で、イエスの愛とゆるしを宣べ伝えて行きたいと思います。   (小川宏嗣)

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2017年8月13日

 父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。」

   (ルカによる福音書23章34節)

この言葉が「提岩里(チェアム二)教会」に記されていました。20049月わたしは韓国・ソウル市郊外、京畿道華城市の小さな農村にある提岩里教会を訪ねました。

かつて韓国が日本から侵略を受けていた時代、日本の苛酷な弾圧と支配から独立を訴える 運動が全国に広がりました。「31独立運動」です。

1919419日、日本軍は提岩里教会に、その地方で独立運動の中心的な役割を果たしていたキリスト者を含めた住民23名(子どもを含む)を閉じ込め、銃と剣によって無差別に虐殺した後、石油をかけて焼き払ったのです。現在、そこに新しい教会と記念館が建てられ、二度と繰り返してはならない歴史を心に刻みつける場になっています。

わたしは展示物の説明を日本語で受け、日本軍の行なった過酷な弾圧と数々の過ちを聞き、胸が絞めつけられ、申し訳ないという思いと、何も知らなかったことを、ただ恥じるしかありませんでした。館内の壁には、「許しこそすれ、忘れる勿なかれ」とありました。

その旅の始め、仁川国際空港で、わたしはあるハルモニおばあちゃんに日本語で話しかけられました。ソウル市内に向うバスを探していた日本人旅行者のわたしに、彼女は、「このバスだよ、わたしも乗るんだよ」と教えて下さいました。彼女は女学校時代、強制的に日本語を習わされたのです。「わたしたちはね、辛い目にあったんだよ。悲しいことだったよ」。バスの座席に一緒に座ることになり、静かに話されました。また、ご自分がキリスト者であること、キリストによってゆるしているとも話されました。わたしは彼女に心揺さぶられ、自分もキリスト者であることや旅の目的を伝え、ソウルまでの1時間半、共に語り合ったのでした。安國で先にバスを降りるわたしに向かって、彼女は言いました。「宣教の旅になりますように!」。

平和を作り出すとは、やられたらやりかえすと憎しみ・敵意を心の中に抱き、他者に暴力を振るっていくことではありません。自分自身が行ってきた罪の現実と向き合うことはとてもつらいことですが、小さな出会いを通して、平和を作り出すことの第一歩は、自分の罪を認め、告白し、悔い改めていくことだと教えられています。         (小川宏嗣)

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2017年8月6日

 

広島に原爆が落とされてから72年が経ちました。戦争という行為が愚かであることは誰もが知っているはずですが、戦争はいつの時代にも果てることがありません。

 

これまでキリスト教会は世界の平和のためにどういう役割を果たしてきたのでしょうか。戦争に反対した多くのキリスト者がいる一方で、戦争に加担してきたキリスト者もいるのです。本来、平和の使者であるはずのキリスト教会ですが、戦争に加担した例は無数にあるのです。たとえそれが積極的な参戦でないにしても、その罪は認めなくてはならないと思います。自分自身が行ってきた罪の現実と向き合うことはとてもつらいことですが、平和を作り出すことの第一歩は自分の罪を認め、告白し、悔い改めていくことではないかと思います。

 

 

イエス様は、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書59節)と言われました。平和を実現するためには、自分の心に平和をもっていなくてはなりません。そうでなければ、人に平和をあげることはできないのです。そしてこの平和は、イエス・キリストを信じることによって与えられる平和なのです。平和は何よりも、そこにゆるしと和解を必要とします。ご自分を十字架につけられて、ゆるすこと、和解することを教えらえたイエス様に従って、実現されていく平和です。どんなに状況が困難であっても、キリストはわたしたちの平和であることを、しっかりと覚えておきたいと思います。(小川宏嗣)

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2017年7月30日

 

それゆえ、信仰と、希望と、愛、

 この三つは、いつまでも残る。

その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一1313節)

 

20126月、あるキリスト教の高校・中学校の礼拝で故日野原重明さん(聖路加国際病院理事長)の説教を聞きました。

上句の聖書は、日野原さんが10才で洗礼を受けた時、ご自身が朗読したもので、生涯を通してご自身の力となり、どんな困難な時も、この聖書の言葉によって乗り越えることが出来た、と話されました。

特に心に残ったのは、「愛は実践である」という言葉でした。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい」(Ⅰコリント13:2)とあるように、「いくら信仰があっても、希望があっても、愛という実践がなければむなしい。だから、愛とは気持ちで表すだけではなく実践すること。東日本大震災で被災した方々のことをただ気の毒だと思うだけでなく、ボランティアでも、募金でもいい、何らかの参与をすること。行動なしに愛を表すことはできない」ということを、若い世代の一人ひとりに向かって熱っぽく、丁寧に語られたのです。

なぜ、愛とは実践することなのでしょう。それは、わたしたちが神様からたくさんのものをいただいているからです。何より、イエス様がわたしたちを愛するために、ご自分の体を献げて下さったからです。その愛にわたしたちが愛の実践をもって応えること、それが神様の思いであり、神様からいただいているわたしたちの使命だからです。

 

わたしは、あの時、日野原さんの真っ直ぐなお話しに勇気づけられ、生涯を通して生きる力となる聖書の言葉に聞いて生きて行こう、そう思わされたことを、今、大切な事として思い起こしています。(小川宏嗣)

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2017年7月23日

 

「かつてあったことは、これからもあり

 かつて起こったことは、これからも起こる。

 太陽の下、新しいものは何ひとつない。」

  (コへレトの言葉1章9節)

 

あなたは しあわせ ですか?

貴女は自由ですか?

貴女は健康ですか?死ぬことはどういうこと、恐怖ですか?

神から選ばれ、人は選びとっていきます。

生から約百年、わたしたちは召されて次の世界へ移っていきます。その保障の枠の中で自由奔放に生きつつ、いつもその自由から飛び出そうと考えています。自由の中から、不自由へと脱出しようとしています。そこで神からの離反、罪がおこってきます。罪の世で、又、次に罪をおかします。ますます神から離れていきます。神の許に帰る手だては何でしょう。

 

あなたがこの世で託されている使命、仕事は何ですか?その道の専門家であるあなたは、どう自分を表現して生きていることを喜びとしていますか?あなたの存在がどう他人に生かされていますか?あなたにしか出来ない生き方で、是非、」人を喜ばせてあげて下さい。あなたの存在は人を喜ばすことが出来ます。あなたの生きることは神の喜びでもあります。神の支配の許、確かに、わたしがわたしであり続けて生きていきましょう。

                      (下田昭)

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2017年7月16日

 

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」

(フィリピの信徒への手紙268節)。

 

先週の国会の閉会中審査を見ていたら、ある政府の偉い方が、「…わたしは事実に基づいて話しています」と話していました。その意味は、「その事実は真実です」、あるいは「その事実は本当です」ということだと思います。

しかし以前に、「事実というのは、出来事に意味付けをしたものであり、その意味付けは、その出来事に関与した人の立場によって異なってくるものである」という一文に触れたことがあり、事実とは出来事の解釈なのだということを教えられた経験があります。

 

物語『レ・ミゼラブル』の中で、燭台を盗んだジャン・バルジャンに、「それはあなたにあげたものです」と言うミリエル神父の言葉は、真実に人を生かすものでした。確かにジャン・バルジャンは燭台を盗みました。しかし、その事実を認めず、あなたにあげたのだとする関わる人の真実ということです。

 

事実が解釈ならば、その人を生かす解釈をしていきたいと思います。そこにキリスト教信仰の真実があるからです。イエス・キリストもこの真実に生きられた。真に人を生かすために十字架に至るまで従順に歩まれた。その真実を受け取っていきたいと思います。          (小川宏嗣)

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2017年7月9日

 

強い者は、強くない者の弱さを担いなさいローマの信徒への手紙151

 

この「担う」という言葉は「背負って運ぶ」という意味です。言い換えれば、弱い者と一緒になるということです。本当の強さとは、自分の強さを誇るのではなく、弱い者の重荷を共に背負い、自らも弱い者となることです。

次のような言葉があります。「弱い人に対しては弱い人のようになった…すべての人に対してすべてのものになった

         (Ⅰコリント9:22

わたしたちの社会は、多くの場合、強くなること、誰にも負けない力を持つことを目指し、弱い者を踏みつけてでも、自分がどれほど高くなれるか、立派であることができるかということを考えるのではないでしょうか。

信仰を持つとは、自由になることです。色んな束縛から解放されるのです。自由だからどんな人とも同じになれる。自由だからどこへでも、その人のところへ行くことが出来る。自分の正しさや立派さを威張るのではなくて、その人のところへ出かけて行き、同じところに立ち、その人と一緒に悩み、その人と一緒に苦しむ、それが福音にあずかること、神の喜びです。

イエス・キリストは弱い者の重荷を共に負うだけでなく、お前の神はどこにいるのかと、そしりを一身に受けるほど、自ら弱い者になりました。

しかしこれこそ、真の強さでした。イエスの強さは神からいただく希望にありました。神はすべてを知っておられる。神は必ず報いてくださる。この希望があればこそ、わたしたちは勇気をもって弱い者になれるはずです。                    (小川宏嗣)

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2017年7月2日

 

「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」

(マルコによる福音書1章16~18節)。

 

 イエス・キリストが最初に弟子として招いたのは漁師たちです。イエス様は神の愛を宣べ伝える働きのために、彼らを信頼し、「一緒にやろう!」と呼びかけます。その時、彼らは、「自分に出来るのか、もっとふさわしい人がいるのではないか」と迷ったかもしれません。しかし、彼らはその働きを引き受けます。それは、彼らがイエス様を信頼したからだと思います。自分を信頼し、期待を込めて呼びかけてくれたイエス様を信頼したのです。

 

 大変な仕事を引き受けていく時に大切なことは、それを「一緒にやろう!」と呼びかけてくれたその人を信頼することではないでしょうか。能力、才能の有無、時間の余裕のあるなし、得て、不得手などを乗り越えて、自分を信頼し、呼びかけてくれたその人に信頼して、一歩踏み出していく。

 

 ひとりでは出来ないと、苦しくなることがあります。その時は、遠慮なく他の人に助け ような欠けを補い合うという業の中に、必ず、神の恵みが与えられていく。 そのことに信頼して、この教会でイエス・キリストを、神の愛を宣べ伝える働きを一緒にしてみませんか。 (小川宏嗣)

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2017年6月18日

 

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」

マルコによる福音書121011)。

 

わたしは神学校時代、故関谷定夫先生より、『神と人とに誠と愛を ~EB・ドージャー先生の生涯とその功績~ 』(齋藤剛毅著)という本をいただきました。ある日、関谷先生の研究室に本の整理のお手伝いに行った時に、先生が、「欲しい本があれば持って行っていいよ」とおっしゃったので、わたしは目に留まったその本を欲しいと願いました。EB・ドージャー先生は、恵泉教会時代に亡き父を信仰告白に導いてくださり、多摩川でバプテスマを授けてくださった恩師だったからです。

ところが先生は、「それはダメだよ、一冊しかないから」とくださろうとしません。わたしはどうしてもそれが欲しかったので、EB・ドージャー先生とのつながりを話すと、仕方ないという表情で、「いいよ」と言ってくださり、その本はわたしのものとなりました。実は、わたしの父も神学校時代に関谷先生から学んだひとりだったのです。

611日(月)前夜式で司式者は、聖書考古学の専門家である先生は、イエス時代の石からも聞こうとしていた、と語っていました。それを聞きながら、わたしは先生が、どんなものにも意味があるのだ、石ころにだってあるのだと語っているように思えました。人は、役に立たないと言い、石ころだと評価します。しかし、神様は、その石を用いて、家を建てるのです。たとえ石ころのような存在であっても、神様がどこに置いたかということで、新しい世界が始まるのです。だから石ころでいいのです。神様によって石ころが存在の意味を持つのです。そのようなことに気づかせていただいた故関谷定夫先生に心から感謝を申し上げたいと思います。

                         (小川宏嗣)

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2017年6月11日

 

…空の鳥をよく見なさい。…野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。…

(マタイによる福音書62629節)

 

キリスト教会の牧師になって花に触れる機会が多くなりました。毎週主日の講壇には、生花が活けられていますし、葬儀や結婚式には必ず花が飾られているからです。先日行われた結婚式では、素敵な花に囲まれて司式を行なうことができました。

キリスト教的な花は、ゆり、バラということでしょうか。しかし、聖書の中でイエス様は、野の花という言い方で、キリスト教の教えをたとえています。この野の花とは、何の花でしょうか?わたしは、野の花とおっしゃるところに、イエス様が花がとても好きなお方だったのだと素朴に思っています。

そして、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」(マタイ6:28)と言われたイエス様の言葉の中に、変わらないものの中に真実はある、ということを考えることができると思います。

花は与えられたところで、たとえそこがどんな場所であっても、花を咲かせ、咲き続けます。わたしたち人間にも、継続していくこと、変わらないであり続けることの中に、人の努力だけではなく、目には見えない祈り、愛、そして神様の導きがなければならないと思います。それらがわたしたちの歩みを 助け、心を支えるからです。              (小川宏嗣) 

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2017年6月4日

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイによる福音書778節)。

 

故Y・Mさんは514日(日)、99年の生涯を終えて、神様のもとに召されました。その日は、復活のイエス様と出会い、神様に礼拝を献げる日、そして母の日でした。長女のKさんに見守られながら召されたYさんの最期は安らかなものだったと聞いて何か“ホッ”とするものを感じました。

 

故Yさんは81才で信仰告白に導かれ、バプテスマを受けました。実に、人は81才にして生まれ変わることができ、新しい出発をすることができるのだ、ということを、Yさんはわたしたちに教えくださったのです。

 

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…残り少ない人生を、神様を信じて、娘達とおなじ信仰に、進みたいと思ふ様になりました。知らずしらずの内に犯した罪も、救はれるのではないか、と存じ日曜ごとに礼拝で心洗はれるのは、とても良いことだと、信ずる様になりました。イエス様がわたしたちの罪のために十字架に、かかって死んでくださった、神はわたしたちを救ふために、イエス様をつかはされました。わたしも信仰に依って、新しい一歩を踏みだしたいと、思ひます。感謝してイエス様の弟子になろうと決心を致しました。(1998621日『信仰告白』Y.M81才)

 

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故Yさんが生を受けて99年、世は移り、時代は変わりました。しかし、Yさんが、求め続けたものは、決して変わることがなかったのではと思います。

 

このようなことを学ぶことができるのですから、わたしは信仰の先輩が多くいらっしゃる教会で共に歩ませていただいていることを心より幸せに思います。(小川宏嗣)

 

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2017年5月28日

 

【転入会の信仰告白③】(先週の続き)

神様への感謝の応答として、教会の役員を担いました。神様から与えられた大きな恵みに対して精一杯の小さな一歩だったのにも関わらず、主はこのチャレンジに対しても、分不相応な恵みを与えてくれました。喜ぶこと愛すること、御霊の実を味わいました。ある時、世の終わりについてのメッセージを聞いて、明日イエス様が来られるとしたら、今私はどう生きるのかと問われたのです。イエス様が来られるとき、その日がいつか分からないけれども、私は主に仕えていたいと、思うようになりました。そして主に祈りました。あなたの御心を教えてください。フルタイムでの献身でしょうか、もしそうであるならば、み言葉を下さいと。すると、折に触れ、語られたみ言葉が、イザヤ書43113でした。「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」私はあなたの名前を呼んでいる!呼ばれた!御言葉の確信が与えられてから、また一歩ずつチャレンジしてきました。周りの人々に、献身の思いを伝えました。

そして、昨年、西南学院大学神学部に入学しました。1年目の学びは砕かれることでした。先ほどの数式を用いるならば、私は100ではありませんでした。もっと砕かれる必要がある、0.1にしか過ぎない自分なんだと思わされた1年でした。

昨年6月に祖父を亡くし、7月に母を亡くし、12月に教会の友人を亡くし、心も体も崩されていきました。親しい人間の死を通して、私は神様に躓きました。神様になんでと問いました。そしてどんな答えでも受け取ることができないとすら祈りました。命に代わるものが無いからです。同時に自分を責めました。もっと出来ることがあったじゃないか。そんな中でコヘレトの言葉を開きました。314『そのわたしは知った すべて神の業は永遠に不変であり 付け加えることも除くことも許されない、と。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。』私には、神様が責任を受け取ったように思ったのです。これは神の計画、神の業であると。悲しいけれども、神様の出来事なのかと、自分を責める思いから解放されました。主の導きは不思議です。何にも出来ない自分に向き合わされた一年でした。それでもなお、主は共におり、私を愛し、名前を呼ばれる。同じように、主は一人ひとりの名前を呼び、一人ひとりを愛されていると確信しています。これから福岡バプテスト教会に集うみなさんと共に、主を礼拝していきたいと願います。どうぞよろしくお願いします。栄光を主にお返しします。ハレルヤ

 

201749日S.T)

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2017年5月21日

 

【転入会の信仰告白②】(先週続き)

 信仰の面での転機は青年大会の実行委員になったことがあげられます。一年を通して準備をしていくのですが、その一年を通して祈りが段階的に変化してきました。ある時、信仰の友と祈りあう中で、私の心が満たされていないのは自分自身の罪が分かっていないからだと気づかされました。それから、私の罪を私に分かる形で教えてくださいと祈るようになりました。ある日の礼拝において、私は大会のためにどれだけ働いているきという観点から、スタッフの一人であるAさんを裁いている事に気づきました。居なければいいのにとすら思ったのです。その瞬間、主の怒りを感じました。神様から問われたのは、もし神様が何か計画を持った時に、誰を用いてもその計画が成ることを信じるか、ということでした。「はい、信じます。」と答えました。では、何故誇っているのか。1+∞(むげん)=∞だし、100+∞=∞なんです。何故誇るのかと。

 100が1をいらないって言うことは、∞から見たら100もいらないのと同じことなのです。私がAさんをいらないとすることは、神が私をいらないとすることと同じだったのです。まさにローマ署2:1の箇所です。『だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。』私はこの罪によって神様から殺される殺されたとすら思いました。そして初めて「神様私を憐れんでください、赦して下さい」と悔い改めました。その瞬間、私の罪のためにじゅうじかにかかったのだ、という教会で使い古されたこのフレーズが自分の事柄となりました。そこに自分の義はなく、ただただ神様の憐みゆえに赦されたことを、神様の愛で満たされていくことを体験しました。私は本当に主が今も生きていることに驚きました。そして主が私を愛して下さっているっことに驚きました。(次週に続く)

                    (2017年4月9日 S.T)

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2017年5月14日

 

 

今日は転入会の証として、自己紹介と献身に至るまでの経緯、そして西南学院神学部での一年目を振り返りつつ、神様の事を証したいと思います。

 

私が教会に初めて行ったのは、赤ん坊の時でした。

母に連れられて教会に通いました。

バプテスマを受けたきっかけは、中学生の時に夏のキャンプに参加し、その時ローマ書10:10節のみ言葉「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」この招きから、イエスを主であると信じていたためバプテスマを受ける決心をしました。

その後も、毎週の礼拝、毎年のキャンプに教会から送り出され、その時その時に必要な糧が与えられてきました。しかし、日常の日々は生きづらくて仕方ありませんでした。神様を知っていても、み言葉を聞いていても、真面目に教会生活を送っていたかったため、神さまに迷惑をかけることを恐れていました。そして心の奥底では、私は神様を死刑にするほどの罪を犯していない、そんな風に考えていました。

そのような中で、高専と呼ばれる工業系の学校を卒業し、2010年4月に自動車部品制作を行う中小企業に就職。その一年後2011年3月11日東日本大震災が起きました。私が住んでいた地域は震度5強の揺れで、立っていられないほどでした。電線がバチバチと火花を散らしながらぶつかり合い、この世の終わりは間近に迫っていることを強く認識させられました。会社も自身の被害が出たもののなんとか守られ仕事を継続することが出来ました。(次週に続く)。

                 (2017年4月9日 S.T)

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2017年5月7日

 

あなたがたの中に、魚を欲しがるこどもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか

(ルカによる福音書111112

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大きなことを成し遂げるために 力を与えてほしいと神に求めたのに 謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった/偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことをするように 病気を賜わった/幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった。/求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。(ニューヨーク大学のリハビリーテーション研究所の壁にある詩)

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作者が思わぬ病気か怪我をして、自分の欲したことが成し遂げられず、苦しみ、その苦しみの挙句、この詩が生まれてきたそうです。

魚を願うこどもに、魚をくださらないかも知れないが、決してをお与えにはならない。を求めるこどもに、決してさそりをお与えにはならないという神への信頼が必要です。人間は苦しい時しか、神の存在を思い起こさないものです。何もかもうまくいっていると、つい自分の力でしているのだと勘違いしてしまいます。だからこそ、そのような人間にとって祈ることが大切であり、必要なのです。祈りとは神のために必要なことではなく、わたしたちの生きる姿勢として必要なのです。           

                           (小川宏嗣)

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2017年4月30日

 

転入会の信仰告白②(先週の続き)

 

20112月ごろ長年、姉夫婦にお世話になっていた母から私と一緒に福岡で暮らしたいと連絡がありました。一人暮らしの私が気がかりだったのでしょう。母の願いに添うため20115月に福岡で母との生活が始まりました。そして母と日曜日には一緒に礼拝に行きました。皆さんと話している母は嬉しそうでした。少しずつ母の体も弱り礼拝に行くことも難しくなりました。そんな母の元に何回も小川先生ご夫妻や教会の方々が訪ねて下さりその時は本当に元気になり嬉しそうでした。とても感謝していました。しかしその母は昨年716日に天に召されました。母のいなくなった福岡での生活は必要が無くなったわけです。大阪、または横浜のどちらかに住まいを移そうと思っていました。私にはそれぞれ計画、目的もありましたが一人になると時々母との事が思い出されました。私自身は充実した思いだったのですが母は88歳から93歳までの5年間満足だったと思っていただろうか。また母に対してもっとすることが有ったのではないかと思う事が度々ありました。ある日の事、母が召される四か月前、母は教会に行きたい、教会に行きたい、いつになったら教会に行けるだろうかと度々申していました。しかし母は教会に行くことは叶いませんでした。母はこの世にはいませんが母の思いは私の中に生きていました。私が母の後をついで福岡の地で信仰生活を送ることが私の今成すことだと思いました。神様は、また素晴らしいご計画を立てて下さっていたのです。私が横浜に居た時、熱心に教会に行くようにと言ったのはこのことではないかと思われました。私は神様に導かれ青葉教会から福岡教会に転入会する決心をしました。2011424日に受けたバプテスマ、そして転入会の証をさせていただいている2017416日どちらもイースターです。神様のご配慮を感謝します。ゆるぎない信仰生活と皆様との良き交わりが出来る事を信仰によって確信しています。これからの福岡での生活を神様にすべてお委ねし感謝して転入会するにあたっての証とさせていただきます。          

                (2017416日 T.S)

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2017年4月23日

 

転入会の信仰告白①】

私は2011424日横浜の青葉教会に於いて当時の牧師である小田先生によってバプテスマを受けました。特に悩みもなく困難に陥っている訳でもありませんでしたが、クリスチャンになっている福岡の母と姉が一人暮らしをしていた私の事を心配し、特に母から教会に行くようにと熱心に勧められていました。いつも母に心配をかけてきた事もあり親孝行のつもりで近くの青葉教会を訪ねました。小田先生にお会いし仕事の都合で夜の祈祷会に出席する事になりました。とにかく教会に行くのは生まれて初めての事なので聖書や祈りの事に随分戸惑いましたが、ある日、姉から電話があり、つい教会に行っていることを話してしまいました。すると、すぐに知人たちから良かったねと電話をもらい引っ込みがつかなくなりましたが何となく教会に行っていた事も事実です。2010年のバイク事故によって足を骨折し歩けない状態になりました。この事が私を信仰に目覚めさせた始まりだと言っても過言ではありません。小田先生は毎日励ましと祈りに来られ毎週祈祷会の日には、先生自ら車で送迎をして頂き色々と気にかけて下さいました。先生は、きっと教会の方々にも同じように接しておられるに違いないと思いました。後日会員の方から先生は心臓が悪くペースメーカーを入れておられることを聞き感謝に絶えませんでした。先生と色んな話をして行く内に人生を神に捧げておられ祈りを通して歩んで来られた生き方に感動を覚えるようになりました。先生が信じている神様とは、イエス様とはどのようなお方なのか素直な気持ちでもっと聖書の事、祈りの事を学びたいと思うようになりました。如何に神様の存在を信じる事なく神に背き私の人生に誤りが有ったことでしょうか。私の過ちを悔い改め神様の御子イエスキリストを救い主として、受け入れました。キリストイエスと共に葬られそのキリストを死から復活させた神を信じます。私の骨折が小田先生を通してイエス様との出会いが神様のご計画の中に整えられていた恵みを感謝します(次週に続く)。

2017416日 T.S)

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2017年4月9日

 

…あの方は死者の中から復活された。

そしてあなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。…

マタイによる福音書287

ガリラヤとはイエスと弟子たちが出会い、一緒に親しく生活した場所です。

弟子たちにとっては、現実の生活の場所です。イエスは弟子たちに、「ガリラヤに、あなたたちは帰りなさい、わたしが先に行っているから」と言われました。

ところが、イエスが捕らえられ、十字架に架かった時、弟子たちは恐くて、みんな逃げました。イエスが十字架で死なれた後も、恐くて、外に出れなくて、みんなで集まって隠れていました。もし外に出て見つかったら、自分たちもあのイエスの弟子ということで、処刑されてしまう。そんな恐れの中にいました。だから、ガリラヤ、あなたたちの現実の生活の場所に戻れと言われても、この時、弟子たちには出来なかったのです。

でも、イエスは弟子たちの恐れを取り除くように言われます。「心配することはない、わたしが先に行っているのだから、あなたたちの現実の生活の場所に帰りなさい」。  

わたしたちにも行こうと思ってもなかなか行けないでいるガリラヤが、戻ろうと思っても躊躇してしまっているガリラヤがあるかもしれません。イエスはそのガリラヤに、「わたしは先に行っているから、恐れないで、そこに行きなさい」と招いておられます。

イエスはいつもわたしの先を歩いていてくださる。そこでわたしを待っていてくださる。だから、勇気を出して、一歩踏み出して行きましょう

                          (小川宏嗣)

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2017年4月2日

 

「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが〝霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか...あれほどの体験をしたのは無駄だったのですか..」

(ガラテヤの信徒への手紙3章2~4)。

 

「人間はすべて、『経験を持っている』...、ある人にとって、その経験の中にある一部分が、特に貴重なものとして固定し、その後の、その人のすべての行動を支配するようになる。経験の中のあるものが過去的なものそれになったままで、現在に働きかけてくる。それを体験という。それに対し経験の内容が、絶えず新しいものによってこわされて、新しいものとして成立し直していくのが経験。経験は根本的に、未来に向かって人間の存在が動いて行く。一方体験というのは、経験が過去のある一つの特定の時点に凝固したようになってしまうこと。...どんなに深い経験でも、そこに凝固してしまうと、これは体験になってしまう、...一種の経験の過去化。過去化してしまっては、経験は未来へ向かって開かれているという意味がなくなってしまう。本当の経験というのは...絶えず、そこに新しい出来事が起こり、それを絶えず虚心坦懐(きょしんたんかい)に認めて、自分の中にその成果が蓄積されていく。...あくまで未来へ向かって開かれる。...つまりまったく新しいものを絶えず受け入れる用意ができているということ。それが経験ということの本当の深い意味だ。」(森有正「生きることと考えること」)。

 新年度が始まりました。イエス・キリストの福音は過去に留まらず、未来を指し示します。聖書は歴史は必ず新しくなり、人は必ず変り得るという、限りない神の可能性を語ります。わたしたちは、これまでの経験を体験におわらせず、本当の経験に深めていくことができるでしょうか。

 何をすべきなのか、何をすべきではないのか、それを見分ける英知を与えてくださいと神に祈りつつ歩んでいきたいと思います。

                       (小川宏嗣)

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2017年3月26日

 

「…恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方はおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。…」

      (マタイによる福音書2856)。

 

すべての命が躍動する春を迎えようとしています。先週より西公園や舞鶴公園の桜は美しい花を咲かせ始めました。この春、新入園、新入学や就職する若い世代の一人ひとりも新しい出発を待ち望んでいます。わたしたち教会にとっても4月より年度が変わり、新しい目標に向かって歩み出す時となりました。この時節はまさに命の始まりの時なのです。

 

しかし、桜のつぼみは前年の夏より作られ、厳しい冬の寒さの中で、すでに新しい芽は育まれていたのです。環境や目標が新しくなった時、わたしたちは自分の命が新しくされたことを感じますが、実は、命を生み出す準備はわたしたちが気づく前に、すでに始められていたのです。わたしたちには感じることができないだけなのです。

 

イエス様の弟子たちが失望の中で身をかがめ、暗闇の中で涙を流していた時に、すでに神様は、イエス様の復活の準備をして下さっていました。

 

 

マリアや女性たちが墓に行ったのは夜明け前でしたが、イエス様は墓にはおられず、すでに復活されていました。わたしたちが失敗や恐れの中にある時も、神様はすでに復活の命を用意して下さっているのです。イエス様の復活の命を信じ希望をもって新しい出発を致しましょう。(小川宏嗣)

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2017年3月19日

 

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。かれらもわたしたちの内にいるようにしてください。…」(ヨハネによる福音書1721節)

 

2011311日の東日本大震災から6年が経ちました。先日の311日は熊本震災支援「ワクワクカフェ」を益城町・馬水東道仮設団地で行ないました。熊本地震で被災され仮設住宅で生活をしているお一人おひとりがこれまで抱えてこられた思いを受け止めながら、東日本大震災で被災されたお一人おひとりのことを覚えて午後246分に黙祷を献げました。

わたし自身は、被災されたお一人おひとりのことを忘れないために祈り続けてきただろうか、お一人おひとりとつながり続けてきただろうか、そう自分に問いながら祈りを献げました。

馬水東道仮設団地でカフェを行なうきっかけになったのは、この団地の入居日に合わせて、わたしたちが食器提供を行なったことを、団地の自治会の副会長さんが覚えていてくださったことからです。この小さな行為を仮設団地の方々が覚えていてくださり、喜んでくださっていた。そのことを知った時に、とても嬉しく思い、もっとお互いにことを喜べる関係になりたい、つながらせていただきたい、そう思わされ、カフェが始まりました。

副会長さんのご自宅は倒壊したままで、いつ行われるとも分からない公費解体工事を待ち続けておられます。しかしそれでもなお、「今年は復興の年です。新しい出発の年です」と言われる副会長さんの言葉が深く心に響きます。 

これからも、被災地で出会うお一人おひとりにつながらせていただき、互いに励まし合い、支え合う歩みをさせていただきたいと思います。

                           (小川宏嗣)

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2017年3月12日

 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。

  (ヨハネによる福音書155節)

 

「信仰生活には根が必要である」(ある恩師の言葉)。これは、わたしがみ言葉と出会っていなければ、わたしがみ言葉に生き、生かされていなければ、いざという時、揺さぶられて信仰生活から離れてしまう。だから根が必要だ、引っ張っても根づいた信仰が必要だということです。

教会生活、信仰生活が、時に、厳しい心構えや枠組みのようにとらえられたり、あるいは、逆に、なごやかで、いい気分の、自分の心を満たしてくれるようなものにとらえられることがあります。

しかし、そうではなくて、このわたしがみ言葉によって助けられた、さばかれた、という信仰の根が必要なのです。み言葉との出会いによってこのわたしが罪から解放されて恵みを受けた、それが信仰の出発点です。

この恵みのもたらす人生の確かさ、明るさ、喜びがあります。わたしの中に恵みの確かさが根づいていなければ、わたし自身が恵みに生かされていなければ、真にキリストの優しさを伝えることは出来ません。

激しい嵐にさらされ、揺さぶられながら、種が大地にますます深く根をおろしていくように、信仰の根が深くおりていくことによって、地上では、高く幹が育ち、枝を張り、花が咲き、実を結ぶことができます。

神が語りかけ、み言葉が与えられる時、人は自らの足で立つことが出来ます。

真の人間になるのです。そのようなみ言葉を通して神との出会いが必要です。

                           (小川宏嗣)

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2017年3月5日

 

キリストは死者の中から復活した、…死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの  宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。…あなたがたは今もなお罪の中にあることになります      (Ⅰコリント151219節)

本日、主日礼拝の中でMさんが信仰告白し、イエス様からバプテスマを受け、キリスト者として新しい出発をされます。Mさんをこの教会に招き、信仰告白に導いて下さった主なる神様に心より感謝致します。また、Mさんのために祈り、支えてくださった教会のお一人おひとりに重ねて感謝致します。

人は、どのようにして変えられるのでしょうか。パウロという人は、「十字架の死が、イエス・キリストがいなければ、キリストの復活はなく、キリストの復活がなければ、わたしたちの救いはなかった」と言いましたⅠコリント15:1219

イエス・キリストは、ご自分を十字架につけることによって、人を変えて行こうとされました。十字架の上で、ご自分を十字架につけてしまった人たちに向かって、「父よ、彼らをおゆるしください」(ルカ23:34と言われます。呪っても当たり前なのに、「ゆるしてください」と祈られたのです。

このイエスさまに、聖書において出会って、「イエス・キリストは救い主です」という信仰告白をできる者に変えられたいと思います。

 

イエスさまを頭で信じるのではなく、生活で信じるのです。イエスさまの言葉に従う生活が必ず復活の希望を持たせます。この復活を信じる信仰が聖書の信仰であり、わたしたち教会の信仰です。             (小川宏嗣)

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2017年2月26日

 

「主があなたがたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」(民数記62426節)。

 

人生の旅立ちを目の前にした若い世代の一人ひとりに一つの言葉を贈りたいと思います。それは「アイリッシュ・ブレッシング(Irish Blessings)」と言ってアイルランドでよく祈られている祝福の祈りです。新しい出発の上に主の祝福を皆さんと共に祈りたいと思います。(小川宏嗣)

 

 

 

 

愛と微笑みがあなたの日々を照らしますように、

あなたのこころと家庭を温かく照らしますように。

どのような所に行っても、信仰篤き良き友が与えられますように。

平和と祝福があなたを喜びに満たし、いつまでも続きますように。

繰り返される四季の移ろいがあなたとあなたにつながる人々に、

最良のものをもたらしてくれますように。アーメン。

 

私たちの前に歩むべき道が常に開かれますように祈ります。

まるで風が背中を優しく押してくれるように、

太陽が顔を暖かく照らしてくれるように、

雨が田畑をしとしとと潤してくれるように、

そしてまた会う日まで、

慈しみの神が私たちをしっかりとそのみ手のうちに置いて下さって

 

私たちに平安を下さいますように。アーメン。

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2017年2月19日

 

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。…あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。…」

(ヨハネによる福音書151516

 

わたしは時々、真実の友がいてくれたらなあと思うことがあります。牧師という働きをとおして、これまで多くの知人に会ってきましたと言えるのですが、その中で友人と呼べる人がいたかと問われると、何とも心もとない思いです。

わたしたち人間は、真実の友を常に待ち望み、その出会いを求める心を持っているのではないでしょうか。友と呼べる存在が、どんなに大切で、深い意味を持ち、それなしでは生きられないほどであるかを考えさせられます。

わたしたちは、そのような真実の友をどこに見い出すことができるのでしょうか。イエス・キリストはわたしたちに、「あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしは、あなたがたを僕とは呼ばない。」(ヨハネ15:1415)と言われました。

「いつくしみ深き/友なるイエスは/変わらぬ愛もて/導きたもう/世の友われらを/棄て去る時も/祈りに応えて/労わりたまわん」(新生讃美歌431「いつくしみ深き」)。

わたしたちは、人間に対して変わらないものを求めるのではなく、この世界で決して変わらないものがあるということを覚えて歩みたいと思います。このイエス・キリストが今日もわたしたちを招いてくださっています。

                          (小川宏嗣)

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2017年2月12日

 

自分の持ちものを与える時は、少ししか与えていないものだ。

自分自身を与えるとき、その時こそ真に与えているのだ。

なぜなら持ちものとは明日の必要を恐れて

しまっておくものにすぎないではないか。

 

多くを持ちながら少しだけ与える者がある。

― それは人にみとめられるためで、

その隠れた願いが、施しを不健全なものにする。

少しだけ持ちながら、全部を与える者がある。

彼らは生命と生命の恵みを信じているから、

その金庫が空になることはない。

よろこびをもって与える者がいる。

彼らにはそのよろこびが報いなのだ。

痛みをもって与える者がある。

彼らには痛みが洗礼となる。

 

与えるとき痛みもおぼえず、よろこびも求めず、

徳も意識しない者がある。

それは彼方の谷で てんにんかの花が

芳香(かおり)を大気に放つにも似ている。

彼らの手を通して神は語り、彼らの眼の背後(うしろ)から、

神は大地に向かって微笑(ほほえ)みたもう。

 

(神谷美恵子『カリール・ジプランの詩』より「与えることについて」)

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2017年2月5日

 

「…主が言われた。『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は  弱いところに完全にあらわれる。』それだから、キリストの力がわたしに宿る   ように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」   

     (コリント人への手紙 129節)

 

私は常々、キリスト教会が地域にどのように受け入れられているのだろうか、また同時に、教会が地域に対して自分たちの弱さをさらけ出すことが出来たらよいのではないかと考えることがあります。なぜなら、聖書の中でイエス様は飢えていたことも あるし、疲れを覚えたとも書かれています。ザアカイの家で食事をさせてもらったり、一晩泊めてもらったりもしているからです。

 しかし、私たちの教会はどうでしょうか。教会が地域の人々から何かを必要としたり、地域の人々から与えてもらったりしたことがないかのような印象を与えてはいないでしょうか。教会がもっと人間と同じ高さになって、自分たちの弱さを隠さずに、自分たちが全てを知っている、自分たちが何でもできるというわけではなく、自分たちも 地域に対して問いを発するようになれたらと思うのです。

 

 それは私たち教会が、この地域の人たちに対して、「自分たちに何を期待しますか」と問い続けること、そして地域の中で、弱り果て、途方に暮れている一人に語る言葉に真剣に耳を傾け続けることだと思います。                         (小川 宏嗣)

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2017年1月29日

 

「わたしはかつて祭りを守る多くの人々と共に群れをなして行き、喜びと感謝の歌をもって神の家に入り、ひれ伏した。今これらのことを思い起こして、わが心をそそぎ出すのである。」(詩編424)

 

私はひとりである。自分が心を注ぎ出すことのできる人は、誰もいない。そこで私は、私の慕いあえぐ神の前で、心を注ぎ出す。誰ひとりとして聞いてくれる者がない状態にあって、私は苦悩を自分の心のうちに押さえこまず、むしろ自分の心を神にそそぎ出すのである。これはこれで、とても重要なことである。

しかし孤独になればなるだけ、私のうちで、他のキリスト者との交わりを求める叫びが強くなる。孤独になればなるだけ、他のキリスト者と共に礼拝をささげ、共に祈り、共に讃美し、そのことによって神をほめたたえ、感謝をささげようとする渇望が、ますます激しくなる。そしてまたさまざまな祭りを共に守ることを強く望むようになる。私はこれらのことを心に思い描く。そして、これらのことに対する愛が、私のうちで大きくなっていく。神を呼び求める者は、イエス・キリストを呼び求め、イエス・キリストを呼び求める者は、教会を呼び求めるのである。

 

聖霊の神よ。信仰と祈りにおいて共に交わりをもつ兄弟を与えてください。私に課せられているすべてのものを担うことのできる兄弟を与えてください。あなたの教会の中に、あなたのみ言葉のもとに、あなたの聖なる食卓のもとに、私を導いてください。アーメン。

           (D.ボンヘッファー『説教』193562日)

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2017年1月22日

 

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一51618節)。

 

協力伝道週間にあたり、この度、福岡教会・小川先生との交換講壇の実現は、私ども壱岐教会にとりましては特別な喜びです。福岡教会はかつての母教会、また、廣島先生の時代には2年もの間、大変なお世話にもなってきました。毎年のクリスマスカードにも励まされてきました。感謝しております。そして今回、福岡地方連合の福岡教会の牧師先生が来島、礼拝説教を下さいますことはそれなりの大事で、今日、壱岐教会では皆、期待し、楽しみつつも、そわそわしているのではないかと思います。

私個人にとりましても福岡教会は特別な教会です。祖母が所属していた教会です。今は福岡教会の納骨堂にお骨となって収められております、故・長尾アキの三男の次男が私です。祖母が若かった頃の教会生活の様子を少し聞いたこともあります。当時の神学生は「貧学生」などとも言われ、皆、お腹を空かせていたそうで、家に遊びに来た神学生に食べさせたこともしばしばあったとのこと。また、告別式の時に初めて知ったのですが、かつて西新の商店街に面していた自宅でバルトの読書会をしていたこともあるとのことだったと記憶しています。

 

連盟326の教会伝道所の日々の伝道の働きが祝されることを心より祈ります。各個教会伝道所の毎週の礼拝が充実し、御言の養いが豊かになされ、そこに連なる一人一人がクリスチャンとして生き生きと日々を歩む、その総和が、日本バプテスト連盟の伝道の活力だと私は考えております。壱岐教会、そして私自身も、この協力伝道に貢献的に関わる教会・クリスチャンでありたいと願っております。     (壱岐キリスト教会 牧師 長尾知明)

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2017年1月15日

 

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟 アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、 『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。2人はすぐに網を捨てて従った」          

マルコによる福音書11617

イエス・キリストについて行った弟子たちに漁師がいました。彼らは、これまでしたことのない働きを始めます。それは、イエスに従って、神の国のことを伝える働きでした。

イエスに従うということは、自分の得意なことを、イエスと一緒に続けていく、ということではなくて、できるかどうか心配だけれども、神の喜ばれることをして みよう、ということです。

私は小学生の頃から、大きくなったら体育の先生になろうと思っていました。しかし、大学受験の失敗、マグロ漁船の漁師になり、福祉・医療の世界に導かれ、その後、私にだけ聞こえる声で、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招いて下さいました。

 漁師たちはすぐに、網を捨てて従いました。私の網は、体育の教師になること、漁師、看護師なることだったかもしれませんが、その網を置いて、今、牧師という働きをしています。

神様は、神様がご計画しているその働きのために、私の人生をかえられるということがあります。また、今まで出来なかったことも、出来るようになるように私を変えてくださるのです。私たちもイエスに招かれています。その招きに、勇気を出して一歩踏み出してみませんか。                 (小川宏嗣)

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2017年1月8日

 

「…律法をすべて忠実に守り…そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたはその行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア記178節)。

 

新しい年を迎え、新しい出発をした私たちに聖書は語ります。「あなたがたは、どこでも、どんな環境の中でも、どのような難しい立場に立たされても、あなたがたは栄える」と。

しかし、現実の私たちは、行くところはどこでも栄えるどころか、行くところどこででも失敗ばかりだ、という経験をしているかも知れません。

この栄えるという言葉には、成功するという意味がありますが、時と場所にふさわしく行動することができるという意味もあります。栄えることが結果的に豊かになるとか、すべてうまくいく、ということであるよりは、どういう状況においても何をなすべきか、何がなすべき正しいことであるかを判断できて、またその判断に従って行動(生きること)できること、それが栄えることの本当の意味なのです。

年の初めに、私たちには様々な思いや願いがあります。しかし、まず第一に、その思いを神さまに向けること、神さまの御心に向け、私たち一人ひとりに対する神さまの御心が何であるかを知ることが何よりも大切なことであるかを思います。それは、言うまでもなく、聖書から聞くことです。

神さまは聖書をとおして、私たちに語りかけてくださるお方であるということを信じて祈っていきましょう。               

                            (小川宏嗣)

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2017年1月1日

 

「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ。わたしは新しい事をなす。

やがてそれは起こる、あなたがたは

それを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」

(イザヤ諸3章18~19節)

 

明けましておめでとうございます。新しい年が希望に満ちた祝福の年でありますように、平和であることを心よりお祈り申し上げます。主なる神様は、「新しいことをなす」と言われています。

それは荒野に道を設けるということです。神様は道を設けられるのは平野にではなく荒野です。その道は。私たちにとっては、できれば避けたい道、

遠りしたい道です。十字架の道といえるでしょう。

しかし、神さまが設けられる道は、必ず神さまの導きと力をいただいてつくられていく道です。私たちが、この信頼を神様に持つとき、どんな困難があったとしても、その道をつくる働きは、私たちがチャレンジすべき、ふさわしいものであるのです。2017年は、かつて経験したことのないような多くの事にぶつかるかもしれません。しかし、荒野の道を歩む事によってしか、イエス・キリストの十字架の死の向うにある復活を真に経験することはできないのです。

主が備えてくださる道を、ゆっくりでいい、しかし確実に、希望をもって前進したいと思います。                   (小川宏嗣)

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2016年12月18日

 

「いと高きところでは、神に栄光がるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」

(ルカによる福音書2章14節)

 

 イエス・キリストがお生まれになった時、天使たちと天の軍勢が一緒になって、「天においては神に栄光があるように、地の上ではみ心にかなう人々に平和があるように」と歌いました(ルカ2:13~14)。

 この、歌に神がその独り子をこの世に送ろうとされた思いが込められています。それは私、人間が本来、なすべきことは、創造者なる神に栄光を帰することであり、そのことによってのみ、人間は平和を得ることが出来るということです。

 野の草や空の鳥は、当たり前のように創造者なる神を讃美しています。与えられた環境の中で、与えられたいのちを豊かに伸び伸びと生きます。

 人間も、神によって創造されたものですが、そのことを素直に認めようとはしません。私たちのすべてが、神中心でなければなりません。それを守っていれば、地に平和が実現するのです。ところが、人間は自分中心であるがゆえに、この地は憎しみと争いに満ち溢れているのです。

 クリスマスは、人間が本来、なすべきことを取り戻すために、神が独り子イエス・キリストを送ってくださった出来事です。イエス・キリストを私たちの心にお迎えすることにより、真の平和をいただくことができるのです。

                             (小川宏嗣)

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2016年12月11日

 

私たちの愛する教会員、T・Mさんが1114日、89年のご生涯を終えて、神様の御元に召されました。故Tさんの遺言により、葬儀は行わず、すぐ献体の手続きがされて、その日に九州大学に運ばれました。すべてが終わったら3年後に火葬されるとのことです。

「教会の古い写真を探している時、写真と一緒に赤くなった名簿が見つかりました。現存の方、他界された方、他行の方、よく覚えていない方も多くありました。親しくした方の信仰告白の印象的な言葉や話しかけて頂いた方々の心に残る言葉が思い出されます。殆ど手紙を書かない私が教会の方々への誕生祝いを書かせて頂きました。そしてその方を身近に感じ祈りました。幸いなことに教会と同じ年を迎えられた方への誕生祝いは深い感動をもって書きました。更に誕生日と受浸日が同日の方を知り心からお喜び致しました。

昔の名簿は父母、職業も記し、後には保護者名となり職業は消えました。最近のグループ名簿は記名のみで互いに話しあって書くよう空欄となっています。手許の住所録にはその家族を追加しその後の情報も書き加えています。誕生祝いを書くのもはじめはためらったのですが、今ではお祝いを書かせて頂いたことを感謝致しております。」(T・M『名簿』教会組織100周年記念誌より

 

本日は、故T・Mさんを偲び、ご遺族を御言葉によってお慰めするために、追悼礼拝を献げます。上記にあるように、故Tさんが私共教会員を覚えてくださり、喜んでくださり、感謝してくださり、祈ってくださったように、今日、私たちも故T・Mさんを心から偲び、故人の信仰をしっかりと受け継ぎ、感謝と祈りを精一杯お献げしたいと思います。                           (小川宏嗣)

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2016年12月4日

 

私は看護学生時代に伊藤邦幸という医師と出会い、海外医療奉仕について学ぶ機会がありました。伊藤先生はJOCS(日本キリスト教海外医療協力会)の派遣医師としてネパールのオカルドゥンガ診療所で3期、76ヶ月にわたり診療活動をされました。伊藤先生の文章より以下、紹介します。

「…それにしても私たちにとって、自分の人生とそれにまつわる役割をしっかりと受け容れるということは、何と難しいことであろう。私たちは選択できるということが自由であると思っている。そして鵜の目鷹の目で、何かもっとましなことはないかしらと、キョロキョロしながら生きている。そして責任は少なく、可能性はなるたけ多くと願っている。…しかしよく考えてみれば、生きるということは、受け容れるということであろう。友人の誤ちを受け容れ、職業という煩瑣(はんさ)な事柄のかたまりを受け容れ、己の弱さと醜さを受け容れ、…最後には死をも受け容れるということ―おおよそこのような受け容れることなしに、生きるということはあり得ないし、自由もないことだろう。それだけではない、究極的には、私たちが父なる神によって愛され受け容れられているという存在であるという事実を受け容れること―そのことこそ私たちが生きていることに意味を与えるものであるだろう。」(伊藤邦幸『同行二人~東ネパールにおける地域医療~』新教出版社1993)。

クリスマスを祝おうとする私たちが取り組まなければならない役割とは何でしょうか。村の人たちはイスラム教教徒でもヒンズー教徒でも、キリスト教徒でも皆さん本当に信心深い…神を畏れ、神に祈ることを知っています。…ほんものの敬虔さです。…これは、すべての人間に求められている処であるだろう。」(同)。私たちが取り組まなければならないことは祈りです。忙しく立ち廻っている私たちが、神に心を向ける機会を取り戻すことです。 

                                         (小川宏嗣)

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2016年11月27日

 

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。…力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。…」

(ルカによる福音書14655)

 

今年もクリスマスが近づきました。救い主イエス・キリストの誕生を心から祝うと同時に、神の栄光と平和を心から祈りたいと思います。

 

1115日付の熊本日日新聞が、熊本地震いのちの電話の主な相談内容(710月分)について、以下のように伝えていました。 

「・地震に加え、自分の病気と両親の介護で心労が重なり最悪の状態」「・夫が苦しみを受け止めてくれず家庭崩壊の状態」「・地震で心が折れそう。家の修理を考えると眠れない」「・無我夢中で生きてきたことを誰かに聞いてほしかった」「・アパートを出て行けと言われる。どこに相談していいか分からない」「・避難所が狭く、プライバシーも守れないためストレスがたまる」「・地震で生活が一変し、気持ちを立て直すことができない」。

 

昨日(11/26)は益城町の馬水東道仮設団地で、熊本震災支援『ワクワクカフェ』を行なってきました。これまでの継続的な関わりをとおして、「支援する側」「支援される側」という一方的な関係から、お互いを知り・お互いを喜ぶ関係となっていることを実感しています。次回は12/10(土)にクリスマス会を予定しています。

私たちは、どこで、誰とクリスマスの喜びを分かち合おうとしているのでしょうか?                 (小川宏嗣)

                              

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2016年11月20日

 

畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである申命記241922

 

「ぶどうの取り入れをするときは、…摘み尽くしてはならない」。この聖書の言葉は、弱さを負っている人と共に生き、支えるために、ひとり占めにしないこと、分かち合うことを大切なこととして教えています。

本日は教会暦の上では収穫感謝の日です。神様は、私たちが生きるために必要なものを必要なだけ与えてくださいます。その収穫とは、私が隣人と共に生かされているという収穫をも意味しています。収穫を共に喜ぶということは、人の命は神様が与え、養ってくださるのだから、収穫物をひとり占めにしてはいけない、分かち合うのだということを、心に深く感じ取っていくことです。

愛は、他者のために生きる時、本当の力となります。私たちが他者のために生きる時、それが私たちの生きる力となるのです。

「ぶどうの取り入れをするときは、…摘み尽くしてはならない」。この言葉で、私たちが隣人のために生きることができるようにと祈っていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2016年11月13日

 

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐みによってあなたがたに勧めます。

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい

これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」

         (ローマの信徒への手紙121節)。

 

「その日、わたしは教会へは行きませんでした。教会ではなく、『礼拝』に行ったのです・・・礼拝は、わたしたちがその週を何とかやりぬくための燃料補給ではありません。出席者全員が満足を感じるような、会衆によって築き上げられた伝統行事でもありません。また気を楽にしてリラックスし、日常の雑事からしばし身を引き、心の洗濯をする場所でもありません。礼拝はわたしたちが楽しむ【クリスチャンアワー】ではないのです。親切でよい人、信仰深いクリスチャン、しっかりした親になるためのものでもありません。礼拝は、私たちの意識や時間や愛がほかのものに向けられることをねたまれる神に、わたしたちの心をささげる行為なのです。」。

(「あの説教、いつ終わるの?  子どもを礼拝に参加させるためのヒント」

                  ロビー・キャッスルマン/広橋麻子訳)

 

私たちの教会は、礼拝が豊かになることを目指していますが、それは、私たち一人ひとりが礼拝者となること、礼拝者として生きることなのだと思います。

礼拝の中心は、私ではなく、神様です。私が恵まれる礼拝ではなく、神様の恵みに応答する礼拝を献げていきたいと思います。    (小川宏嗣)

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2016年11月6日

 

「天の国はからし種に似ている。人がこれをとって畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

 (マタイによる福音書133132節)

 

人の心は、弱さと強さを併せ持っています。人の心は、ちょっとしたことで傷つき、それがもとで肉体まで壊れてしまうことがあります。しかし、肉体的には病があったり、「障碍」があっても、また生活上の様々な困難があっても、なお生き生きと命を生きている人も、少なくありません。肉体にどのような痛みや危機が襲ってきても、それに打ち勝つ力を心は持っていると言えます。

イエス・キリストはたとえ話をされました。「天の国は、からし種のようなものだ。種自体はとても小さいが、畑に蒔かれて成長すると、鳥が宿るほどに大きくなる」。ここでいう種とは、神の愛の力のことです。人の目には弱さに見える十字架が、人の心の中に信仰として播かれる時、大きな力として成長し、ついには他の人の弱さをも包み込むほどの強さまでに導いてくださるのです。

人の心の弱さは、他の人の弱さに共感する力を持っています。また神の力を求めることもします。人の心に強さだけでなく、弱さが与えられていることは、神の賜物です。人の心を本当に強くするのは神の愛の力です。

本日は幼児祝福礼拝を献げます。私たちは幼子の心に、神様の愛を蒔き続けていきたいと思います。そして幼子の成長を心から願い、神様の祝福を祈りたいと思います                          (小川宏嗣)

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2016年10月30日

 

「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです。」

(ヨハネの手紙一3章14節)

 

以前のことですが、「老人ホームのエリートは、定期的な訪問客のある人だ」と、あるホームの職員の方が話してくださいました。

老人ホームや病院に入った時、義理からではなく、心から会うことを喜んでくれる訪問客を持つ人は本当に幸せだと思います。

 

私たちは今、親、子、兄弟、同僚、仲間、親戚、夫・妻、そして教会で共に歩む信仰の仲間等、そういう人たちと出会い、関わりの中で、目には見えませんが、たくさんの”よきもの”を互いにいただき、生き、生かされています。

 

今日、私たちは召天者記念礼拝を献げます。神のみもとに召された人も姿は見えませんが、私たちがこの礼拝を通してその人を思い起こすならば、きっと嬉しいに違いありません。

私たちには、互いに寄り添い、共にあることを喜ぶ心があります。見えるものだけでなく、見えないものとも共にあることを喜ぶ心、それが召天者記念礼拝を意味のあるものとするのではないでしょうか。

召天者お一人お一人を導いて下さった神様が、今、私たちを導いていてくださることを心から感謝して、「神様ありがとうございます」と申し上げたいと思います。

                              (小川宏嗣)

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2016年10月23日

 

「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。神をかしこむ者は、このすべてからのがれ出るのである。」

         (伝道の書71418節)

 

 先週のプロ野球パリーグのクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第5戦で、北海道ファイターズが福岡ホークスに勝ち、日本シリーズへの進出を決めました。今季、リアル二刀流で大活躍しているファイターズの大谷翔平選手が9回のマウンドに立ち、日本最速の165キロを投げ、伝説に残る大活躍をしました。
 勝負の世界は非常に単純明快で、勝つことが栄誉です。ところが人生は、そんな単純な世界ではありません。勝ちと負けが背中合わせになっていたり、絡み合ったりして、勝ち負けがはっきりしません。
 聖書には、「神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである」(伝道の書7:14)とあり、神の配剤によって、私たち人間には順境と逆境が同等に存在するというのです。私たちに、「義に過ぎてはならない、賢きに過ぎてはならない、悪に過ぎてはならない、愚か過ぎてはならない」(同7:1517)という生き方を心がけるように、順境ばかり求めず、逆境を恐れないように、と勧めているようです。
 私たちには順境の日もあり、逆境の日もあります。しかし、たとえどのような時であっても神は導いてくださる。神は必要なものを時にかなって備えてくださる。その信頼をもって歩みたいと思います。  (小川宏嗣)

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2016年10月16日 

秋の特別礼拝

 

現在日本のキリスト教は衰退の一途をたどっている。二〇一三年版「宗教年鑑」(文化庁)によるとキリスト教系の宗教団体数は九二七七件。信者数は一九〇万八四七九人。前年比で一万二四一三人減。このような傾向は、キリスト教に限ったことでもない。仏教界においても「寺院消滅」という深刻な事態に直面している。一方で私立学校でキリスト教主義の学校は、全体の六割を占めており西南学院のように「成長」している学校もあるが、それがキリスト教人口増につながらない。キリスト教主義学校に有名私学、有名進学校が多いことも特徴で、このようなあり方と聖書の福音がどう整合しているかを問う時に来ている。西南学院の創立百年の時、卒業生の中村哲さんが「単に羽振りのいい学校にならないように」と釘を刺されたが、時代に迎合することで人気が出ても、自らのアイデンティティを見失った者はいずれ彷徨し滅びるだろう。 
 なぜ人々は教会に来ないのか。なぜ力を失ったのか。旧態依然の教会のスタイルやわかりにくい説教、教会の中でしか通用しない言葉や概念、具体的な相談に乗る手段も力量がなく「心の問題」に限定して(あきらめて)いるなど、いろいろな要因が思い浮かぶ。 
 しかし、私が思う最も大きな要因は、キリスト教会が語ってきた「救い」の問題である。すなわち教会が伝道してきた「救済論」が傲慢でエゴイスティック、さらに差別的であったからだと思うのだ。少々否定的過ぎるとお叱りを受けるかも知れないが、当事者の最たる者である牧師としては、これぐらい自己吟味しなければならないと思っている。伝統的に教会は、「信じる者は救われる」、あるいは「洗礼を受け、キリスト者になった人は救われる」と教えてきた。「クリスチャンは救われているが、ノンクリスチャンは救われていない。だから一刻も早くクリスチャンになりなさい」と教会は説いてきた。これは差別だと思う。家族の中で、クリスチャンは天国に行き、それ以外は地獄に行く。そんな酷い話のどこが「救い」なのだろう。私自身を救ってくれたことには感謝するが、かといって私の愛する家族を地獄に落とす神などというものは神でもなんでもない。教会には病床洗礼という伝統があるが、それは「死ぬ前に洗礼を受けて天国へ」という切迫感の現れだ。「間に合わない」ことが多いが、「家族を救えなかった」と負い目に感じてきたクリスチャンは少なくない。伝道は、既に救われて天国を約束されたと自認する人が、まだ救われていない人に救いを教えることを意味した。「無知蒙昧」な人々に真理を諭すという啓蒙主義の傲慢さが見え隠れする。そのような従来教会が語ってきた「救い」自体がキリスト者と教会を呪縛してきた。この差別性に気づかぬまま伝道を続けることによって、ますますキリスト教はジリ貧になるのではないかと危惧する。教会は「救い」から解放されなければならない。
 
 イエスは言う。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さる」(いずれもマタイ福音書)。東八幡キリスト教会の告白する神様は、そんなケチなお方ではない。全員既に救われています。ご安心ください。  

                        

               (東八幡キリスト教会牧師 奥田知志)

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2016年10月9日

 

「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

     (ルカによる福音書1037節)

 9月29日(木)夕方、益城町の安永東仮設団地で、食器提供案内のチラシのポスティングをしていた時のことです。その日はちょうど団地の入居日に当たっていましたので、2~3組の方々の入居される様子をうかがうことが出来ました。灯りが灯ったある部屋の中からは、家具、あるいは家電でしょうか、「これはここに置こうか?」という明るくて、大きな声が、外でポスティングしていた私にもはっきりと聞こえたのです。私は、ああ、ここで新しい生活が始まるのだなあ、と思いました。

 5ヶ月にわたる過酷な避難所生活から、仮設住宅へ移る方々の生活は、これまでどおり多くの困難や課題を抱えながらのものであるかもしれません。しかし、仮設住宅での新しい生活は、やはり一つの大きな区切りではないか、そのように思わされたのです。それゆえに、新しい生活が希望に満ちたものになりますようにと心から祈らざるを得ませんでした。

 同じ益城町の馬水東道仮設団地で一人の方と出会いました。その仮設団地は、8月に小・中高校生と一緒に食器提供ボランティアを行ったところです。その方は、8月の食器提供のことをよく覚えてくださっていました。私はそれを聞いて本当に嬉しく思いました。なぜなら、被災者と支援者という一方的な関係ではなく、お互いが嬉しくなる、お互いが支えられる、お互いのためになる関係をここに見い出すことが出来たからです。教会に戻って、このことを小中高校生たちに伝えた時に、彼らも本当に喜んでくれました。

 これから、小中高校生たちと、馬水東道仮設団地でお茶会が出来ればと思い、計画をしています。“助ける”とか、“寄り添う”ということは自明なことではないと思います。しかし、関係を続けて行くことによって、その大事なことを見出して行くことができるなら、それは大きな幸いです。        

                            (小川宏嗣)

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2016年10月2日

 

私が教会に行こうと思ったのは、妹が、家で神様の話をしていたからです。私は、神様の話を聞いていました。でも、妹の方が神様のことをよく知っていて、私は知りませんでした。だから、「妹には負けたくない」と思い、「教会に行きたい」と思いました。
 私がバプテスマを受けようと思ったのは、全国小羊大会がきっかけでした。全国小羊大会には、イエス様を信じている子どもたちがたくさんいて、バプテスマを受けている子もいました。私はバプテスマを受けている子と友達になりました。その子と遊んでいるうちに、バプテスマを受けたいと思いました。
 それと同時に、私は好きな聖書の言葉と出会いました。その言葉は、新約聖書のコリントの信徒への手紙(二)517節の、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」です。理由は、この言葉だけが、いつも忘れなかった言葉だからです。

 私はいつも、やりたいときにやって、やりたくなかったらやらないという罪をせおった「罪人」です。そして、私の罪を許してもうために、イエス様は十字架にかかって下さいました。そして、イエス様は復活し、いつも見守って下さっています。復活したことで、イエス様はいつも見守って下さり、いつも私たちを救ってくれます。私はそんなやさしいイエス様に従い、イエス様のお弟子さんになって、イエス様のことを、みんなに伝えます。また、私たちを守ってくれることに感謝して、主日礼拝にもいままで通り参加することを約束します。(『信仰告白』2016925日、M.A)

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2016年9月25日

 

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなまたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマの信徒への手紙10910節)。

 

本日の主日礼拝の中でM.Aさんが信仰告白をし、イエス様からバプテスマを受け、キリスト者として新しい出発をいたします。これまでの神様のお守りとお導きを心より感謝いたします。6月より始めた週一回のバプテスマ・クラスでの学びは実に楽しいものでした。この学びの中で瑞祈さんと一緒に考えたことは、キリスト者になるということはどういうことか、ということです。これは、これから一生涯考え続けていくことだと思いますし、すでにキリスト者となって歩まれている方々にとっても、終わりなき問いだと思います。私は、イエス様を信じることについて、頭や心だけで信じることにしないで、生活の中で、イエス様の言葉に従う生活で信じていくことを大事にしてほしいと思っていました。ですから、特に、小・中高生をこの夏の熊本ワークキャンプにお誘いしたのです。キリスト者として生きる、ということを是非、考えてほしかったのです。
これでバプテスマ・クラスは修了しますが、引き続き、バプテスマ・フォロークラスとして学んでいこうと思っていますので、今度、先輩会員のどなたかをお招きして、キリスト者になることについて、クラスでお話ししていただこうと思っています。お声をかけますので、その時は快くお引き受けくださいますようにお願いします。
新しい出発をするM.Aさんと共に歩んでいきましょう。

                        (小川宏嗣)

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2016年9月18日

 

主なる神様、私たちの教会に、長い人生を歩み、地域社会やこの教会を担って来られた先輩方をお与え下さり有難うございます。その方々と共に歩み、その後姿を見ることをとおして、私たちは生きること、老いることを学ぶことが出来ています。

重ねて感謝致します。

 私たちは限界と弱さと罪を持っています。私たちの人生は自分の思い通りの形で 終わりません。殆んどの場合、思い通りに行きません。倒れ込み、立ち上がれないまま、生きなければならない場合もあります。むしろその方が多いのです。しかし、あなたは御子イエス・キリストを遣わし、今、ここに、私たちと共にいて下さいます。どんな困難な中においても、あなたは深い愛と憐れみによって、私たちの歩みをいつも導いて下さっています。主よ、私たちはその愛と憐れみを心より信じます。

イエス様が示し、与えて下さったあなたの真実と愛を、感謝をもって受け入れ、それによって生きるようにして下さい。

 高齢の方々のご健康と生活を更にお守り下さい。試練と困難の中にあっても、どうぞあなたの力強い御腕で助け導いて下さい。その心に主にある喜びと平安を満たして下さい。私たちも主の証人として、お一人おひとりと共に生きることを喜ぶことが出来るように導いて下さい。限界、弱さ、未完成の中にこそ、神様の力と可能性を見出し、その神様を頼りにして生きることに希望を見出すことが出来るように導いて下さい。

 これからも互いに自分の罪を告白し合い、神様の許しと愛の深さを共に語り合う ことが出来るように導いて下さい。このお祈りを私たちの救い主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。

            アーメン。           (小川宏嗣)

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2016年9月11日

 

「イエスは天を仰いで言われた。『父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞き入れてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。』こう言ってから『ラザロ、出てきなさい』と大声で叫ばれた。」

 (ヨハネによる福音書114143節)。

 

 今日、911日は、15年前にアメリカで同時多発テロが起こった記念日です。あの日、テロリストたちのグループによって、4機の飛行機がハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センタービルや国防総省ビルに突入しました。4機に乗っていた乗客や、現場のビルで働いていた人々など、合計で3025名が生命を落とし、6000名以上が負傷しました。

 あの日から15年がたちます。そして世界は、あの日私たちが心配していた、最も悪い方向に変わってきたように思います。「テロとの戦い」という名前によって、多くの戦争が引き起こされました。しかし平和はやって来ませんでした。それどころか、ますます先の見えない泥沼のような戦いになっています。人と人、民族と民族、国家と国家の間に、愛と信頼ではなくて、相互不信と疑いが入り込み、人々への支配力を強めているのです。このような時代に、私たちキリスト者はどのように生きていけばよいのでしょうか。

 

 このような大きい問題を、私たちは直接、考えることはできません。それは私の手に余っております。ただ私は、こんな時代だからこそ、イエスさまの教えの原点に戻りたいのです。イエスさまは、悲しむべき状況に囚われてがんじがらめになっている私たちに、そこから出て来なさい、と語りかけておられるのです。      

  (西南学院大学神学部教員、和白バプテスト教会協力牧師 片山寛)

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2016年9月4日

 

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」               (イザヤ書434節)

 

私の母は、脳に重い障がいを持つ人の生活する施設で働いていました。私は中学生の頃、母の仕事に理解を示すことができませんでした。私は心の中で、「人間じゃない、汚らしい」という差別的な思いを持っていたのです。

しかし、看護師を目指して看護大学で学ぶことになった時、私も脳に重い障がいを持つ人たちが生活する施設で実習をすることになりました。その時、ひとりの人と人格的な出会い、交わりを経験しました。その出会いは、私の心の中にあった思いが、いかに間違っているか、脳に重い障がいを持っているけれども、この人は、神に与えられた大切ないのち、この本質をもった、ひとりの人間である、ということを教えてくれました。

人はいのちとして生きています。いのちをいのちとして認めることをしない時、いのち+アルファの条件の方に価値を求める時、いのちのことを忘れてしまいます。いのちに優劣をつけ、そのいのちを差別し、無視してしまいます。学歴、財産、社会的地位、才能など、いのち+アルファの方に価値を求めていく時、いのちそのものを慈しむというより、いのち+アルファの条件からいのちを評価するのです。いのちが大事なのです。いのちにこそ価値があるのです。

どうか、教会で、学校で、職場で、ご家族で、友人で、どんな人間でも差別しない、どんな小さないのちでも無視しない、ということを分かち合っていただきたいと思います。この世界で、そのような場を私たち一人ひとりが作っていくことが、神の思いを実現していくことになり、私たち人間の真の幸福と平和を生み出すことになるのですから。                                           (小川宏嗣)

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2016年8月28日

 

「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。…」(詩編13056節)。

 

 

 

聖書には、待つこと、聞くことの大切さが書かれていますが、私自身も、この社会も、待つということにさらに不得手になった、待てなくなってしまったと思います。目標を立てることはよいのですが、その達成、成果や結論を急ぎ、そのプロセスの在り方や、意味などをかえりみなくなっているからです。

 

同じように聞くことにもさらに不得手になってしまいました。聞けないのです。自分の主張することは一生懸命伝えます。しかし、相手の話しは聞かない。いや、聞けないのです。これでは、ますます人間関係は難しくなります。どうしてそんなことになってしまうのでしょうか。待つこと、聞くことが大切であることの意味を、今、お互いに分かち合っていかないと、悪い方向へ行ってしまうのではと不安を抱いています。

 

「待つことは、結果に対して開かれた態度をもつことです。…それは、自分の身に起ころうとしている想像のおよばないことに信頼することです。それは、私たちの抱く恐れによって生きるのではなく、神は、ご自分の愛によって私たちを形造ってくださるという確信をもって生きることです。」(H.ナーウェン『待ち望むということ』)。

暑い夏も終わり、いよいよ秋の到来です。この秋、私たちは幾つかの行事を予定しています。隣人一人ひとりの声を聞きながら、聖書の言葉を聞きながら、その一つひとつを楽しみに待ちたいと思います。  

                      (小川宏嗣)

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2016年8月21日

 

「地と、それに満ちるもの、世界と、そのなかに住む者とは主のもので

ある。」(詩編241節)。

 

今週は、礼拝での献金と献金感謝の祈りについて少しだけ触れたいと思います。

献金とは自分のお金を神様に献げることだと思いがちですが、そもそも、「すべては神様のものです」(詩24:1)という信仰が献金の本質にはあるのです。神様が私の全てを支えてくださっている。だから全てを神様に任せる、全てを神様に差し出す。それが献金の意味なのです。だから、献金はただ単に、神様への感謝のしるしではなくて、私たち自身を、私たちの全てを神様に差し出す、つまり、献身の現れなのです。

献金感謝の祈りでは、開会祈祷、説教後の祈り、と全く同じ内容の祈りが献げられたり、よく説教への応答がなされがちだと思います。しかし、ここでの祈りは、献金によって私たちの献身の意志を表すことが第一の目的なのです。具体的には、「すべてはあなたのものです。その恵みに感謝して、今、献身のしるしとして献金をお献げいたします」と祈りたいものです。

私たちが、献金、献金の祈りについて考えることによって、私たちが神様に一体何を献げようとしているのか、神様が私たちに一体何を求めておられるのか、ということをもう一度受け取り直していきたいと思います。(小川宏嗣)

 

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2016年8月14日

 

「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、...十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」    (エペソ人への手紙2章14~16節)

 

 イエス・キリストは新約聖書のルカによる福音書10章で、祭司もレビ人も助けなかった、強盗に襲われ、怪我をして倒れていたユダヤ人を助け、宿屋までつれて行き、その費用を払ったサマリア人の話(10:25~)をしています。ユダヤ人とサマリア人は歴史的に対立と敵意を繰り返していました。イエス様はこの話の中で言われます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(10:37)”人を愛すると自分が傷つくかもしれない、しかし、それでもわたしに従ってきなさい”と、私たちに言われているようです。イエス様も、あのサマリア人のように、十字架の上で傷だらけになって人を愛し、死んでいきました。”わたしはこのサマリア人なのだよ。あなたもこのサマリア人のことをよく考えなさい”と言われているのです。

 「...否定的であることは、無に通ずる。私が悪いものを悪いといったところで、いったい何が得られるだろう?だが良いものを悪いといったら、ことは大きくなる。ほんとうに他人の心を動かそうと思うなら、決して非難したりしてはいけない。まちがったことなど気にかけず、どこまでも良いことだけを行うようにすればいい。」(エッカーマン『ゲーテとの対話』より)。

 否定的に考えて何が得られるというのでしょうか。サマリア人もどこまでもよいことだけを行ったのです。平和もまた、時代状況がどんなに困難であったにしても、否定的に考えてはならないのです。自ら十字架を負うことによって、敵意を滅ぼすキリストの平和を私たちの希望としたいのです。

                      (小川宏嗣)

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2016年8月7日

 

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであるヨハネによる福音書1516

 

イエス・キリストは私たち一人ひとりを愛し、友として、向き合う相手として私たちを立ててくださっています。「あなたがたの人生の根底にわたしがいて、どんな時も、あなたがたを受け入れ、認め、生かしていく」とイエスは言われます。それは、「あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るため」です。実とは愛の業であり、愛するということです。愛は必ず、具体的な業となって、働きとなって現れます。そして愛の働きは永遠です。いつまでも、主なる神様の心の中に覚えられて残るのです。愛の働きは、一つの事実を作っていきます。私の他者との関わりの歴史の中で、それがどんなに小さな愛の業であっても、一つの事実として残っていくのです。それが実を結ぶということです。

心でいくら思っていても、頭でいくら考えていても、私たちが自分の体を使って具体的にそれを事実にしなければ、それは真実の愛とは言えないでしょう。愛は必ず事実を生み出していきます。さらには、私たちの歩みに変化をもたらすでしょう。新しくされていくのです。イエスが言われたように、行って実を結ぶ人生を送るようになるのです。このイエスの言葉に聞き従い、希望をもって歩んでいきましょう。             

                          (小川宏嗣)

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2016年7月31日

 

こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れて下さったように、 あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである。 ローマ人への手紙157

われわれは、神が与えてくれないものに対して、不平を言わず、神が日々われわれに与えてくれるものに対して神に感謝する。罪と困窮の中にあっても、神の恵みの 祝福によってわれわれと共に死に、また生きる兄弟たちが、われわれに与えられているということで十分ではないだろうか。どんな日にも、最も困難な、困窮に満ちた日々においても、われわれが兄弟が与えられているということは、はかり知れないほど大きな恵みなのである。これ以上の神の賜物があろうか。夢想者の朝もやがて消えてなくなるところに、キリスト者の交わりの輝かしい朝があるのである。「感謝」ということはキリスト者の生活においても大切なのだが、キリスト者の交わりにおいても大切なことである。小さなことに感謝する者だけが、大きなものを受け取ることができるのである。たとえ自分の入れられているキリスト者の交わりの中に、素晴らしい経験もなく、人目を引く豊かさもなく、多くの弱さと、小さな信仰と困難さがあるだけだとしても、もしわれわれがその交わりに対して感謝せず、むしろ神に向かって、<すべてが貧しく、小さく、全くわれわれの期待どおりにいかない>と不満を訴えるなら、われわれは、<イエス・キリストにおいてわれわれすべての者のために備えられているはかりと富に従って、神がわれわれの交わりを成長させる>のを妨げることになるのである。

      (ボンヘッフアー『共に生きる生活』p1617,6/12巻頭言の続き)

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2016年7月24日

 

いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。  

これこそ神がイエスキリストにあってあなたがたに求めておられることなのです。」     

テサロニケの信徒への手紙一 51618

「私は、2000年のクリスマスの日にバプテスマを受けました。当時、夫は病院に入院中でした。ある日、H先生が娘と共に夫を病院に見舞って下さいました。その時先生は、私がクリスチャンになった事を話して下さったそうです。話が終わると 夫は一筋の涙を流し、『ありがとうございました』とお礼を言ったと娘から聞かされました。日頃、信仰に聞く耳を持たなかった夫でした。そしてその当時は、話すこともできない状態の夫がと思うと胸が熱くなりました。私の行く末を安心したのかも しれません。その後、神様の元に召されました。それからも私は健康に恵まれ礼拝を守り、最近は祈祷会に出席する恵みを与えられ感謝しています。教会の皆様が奉仕に生き生きされている姿を見て平安を得ておられると思いました。これからは神様に 許される範囲で教会生活をし、残された老後を大切にし、すべてを委ねて豊かな恵みと平安を頂き、感謝の日々を過ごしたいと願っています。」(M.T「恵みに感謝して」教会組織100周年記念誌より)

 先日、私たちの愛する教会員M.Tさんが93年のご生涯を終えて、神様の御元に 召されました。生前、ご自宅をお訪ねすると、いつでも喜んでくださり、優しく笑顔で迎えて下さり、どんなに励ましていただいたか、いつも感動していました。また、祈りを献げる度に、何度も「ありがとうございます」と言われ、「アーメン」と大きな声で唱えて下さいました。そこにM.Tさんの人柄、信仰者としての姿が現れていたように思い、いつも教えられていました。私は、「喜び、祈り、感謝」に生きれるように、神様の導きを心から祈りたいと思います。もし、私がそう祈らないのならば、私はM.Tさんのことを正しく理解しなかったことになるのですから。  

                                                                                 (小川宏嗣)

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2016年7月17日

 

私の母は、私が中高生の頃、脳に重い障害を持つ人たちが生活する施設(「牧ノ原やまばと学園」)で働いていました。その施設の創設者であり、理事長等をなされた故長沢巌さん(元日本基督教団榛原教会牧師)が残された一文に目が留まったことがあります。
 「わたしたちはいつか、何もできない時が来るでしょう。そんなときでも祈ることができますならば、それは最善の奉仕というべきです。しかし祈ることもできない時がきます。そのことをあらかじめ知って、わたしたちは自分自身を神に任せたいと存じます。」(『目標をめざして』祈り、働き、ゆだねる)。
 長沢さんは1983年髄膜腫摘出手術後、意識が戻らないという予期せぬ重い「障害」を負う身となられました。長沢さんはその手術前に教会の若い世代の人たちに宛てた手紙に、次の言葉を書かれています。「さてその本番の手術も間近くなりましたが、もちろん心配がないとは言えません。けれども、そういう問題も含めて自分自身を神様にお任せしますと、人の思いを超えた平安が与えられるということを経験しております。わたしは大変弱い者なのですが、神様に対してその弱さを認めますと神様の力が与えられるのですね」。
 ここに試みに遭い、不安と心配のただ中にある人間に、どのようにして神の平安が与えられるのかということが示されていると思います。それは、どんな試みに遭っても動じない強い心を自分自身で持つということではなく、弱くて心配で恐れおののく者であるけれども、神様にすべてをお任せすることによって、神様が私たちの心と思いを守って下さるのだ。神の平安は求める者に、ただ神様ご自身がお与え下さるのだということを教えています。私はこの長沢さんの言葉を心に留めていたいと思います。(小川宏嗣)

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2016年7月10日

 

「イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった。イエスは『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。」(マルコによる福音書1章16~18節)。

 

 私は19歳の時に遠洋マグロ漁船に乗った。漁場のオーストラリア近海まで船で40日かけて行った。その間はのんびりした時間を過ごしたが、漁場に着いて、いざ漁が始まると、忙しくて、慣れなくて、本当に大変だった。命がけの操業が続いた。辛い経験を何度もした。それが私の漁師としての経験だった。

 イエス・キリストについて行った弟子たちに、漁師たちがいた。シモン(ペテロ)とシモンの兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、この4人は魚をとるのではなく、これまでにしたことのない働きを始めた。だから、”イエス・キリストに従う”ということは、自分の得意なことをイエス・キリストと一緒に続けていく、ということではなくて、”できるかどうか心配だけれども、とても大事なこと、つまり、神の喜ばれることをしてみよう”、というこどだと思う。漁師たちは喜んでイエス・キリストについて行った。

 神様は、神様がご計画しているその働きのために、私たちの人生をかえられる、ということがある。また、今まで出来なかったことも、できるようになるように、私たちをかえてくださる。あなたもイエス・キリストに招かれている。招かれてからが本当の始まりだ。イエスへと従う招きが本当のあなたをつくる。これまでのあなたがすべてではない。ここから始まるのが本当のあなたなのだ。イエスはそう招いている。私たちは、そのことを忘れてはならない。

                            (小川宏嗣) 

 

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2016年7月3日

 

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい

   (マタイによる福音書633節)。

 

ドイツ福音主義教会のマルチン・ニーメラーという牧師がいました。ニーメラーは第1次世界大戦時、戦争に加担していた一人です。その後、彼は福音主義教会の牧師になり、ヒトラーの教会政策に抗して1933年「牧師緊急同盟」を結成し「ドイツ教会闘争」を指導しました。しかし19377月に捕えられ、ナチス・ドイツ敗戦までダハウの強制収容所に入れられ、戦争が終わる時にようやく救出されて生き延びました。そのニーメラーが次のような言葉を残しています。

 

「ナチスが共産主義者を弾圧した時、私はとても不安だった。が、共産主義者ではなかったから、何の行動も私は行わなかった。その次、ナチスは社会主義者を弾圧した。私は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。それから、ナチスは学生・新聞・ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げて行き、その度に私の不安は増大した。が、それでも私は行動しなかった。ある日、ついにナチスは教会を弾圧して来た。そして私は牧師だった。が、もうその時はすべてがあまりにも遅すぎた。」。更にこうも言います。「ナチスに責任を押しつけるだけでは十分ではない。教会も自らの罪を告白しなければなりません。もし教会が、本当に信仰に生きるキリスト者から成り立っていたならば、ナチスはあれほどの不正を行うことができたでしょうか」。

 

私たちは今、全く自由な人間として生きています。誰かから拘束されているわけでもありません。しかし、ニーメラー牧師が後悔したように、私たちもいずれ後悔しなければならない時が来るかも知れません。

 

次週の日曜日は、参議院選挙投票日です。安部首相が目指しているものは、憲法を変え、戦争が出来る国を作ることです。私は、戦争ではなく、平和の道を目指したいと思います。だから、家族で、友人で、地域で、互いに声をかけ合って、選挙に行きましょう!    

                           (小川宏嗣)

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2016年6月26日

 

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。

門をたたきなさい。そうすれば開かれる。

だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」

(ルカによる福音書11910節)。

 

 

先日、イチロー選手がピート・ローズのメジャーリーグ最多4256安打を、日米通算で超えました。ブルーウェーブ時代からイチロー選手を追い続けているファンにとっては本当に嬉しく、誇りに思う出来事でした。

イチロー選手は、2004年にメジャーリーグ年間最多安打262を記録しましたが、その際のインタビューで、「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道」と答えていました。

“こつこつ”という言葉がありますが、イチロー選手は、まさに“こつこつ”とヒットを積み重ねたと言っていいと思います。“こつこつ”は繰り返しを表します。“こつ”と門をたたいたのでは聞こえません。だから、“こつこつ”を繰り返す。しかも、中にいる人が聞こえるまで、“こつこつ”を何度々も繰り返すのです。一回、二回とたたくだけでは開かれません。このことは、信仰生活においても、仕事においても、勉強においても、スポーツにおいても全く同じことだと思います。何事も、粘り強く繰り返しすることなしに身につくことは何もありません。そこには、小さいことの絶え間ない繰り返しがあるのです。イチロー選手の大偉業から大切なことを教えられています。

(小川宏嗣)

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2016年6月19日

 

神を見たものは、まだひとりもいない。もしわたしたちが互いに愛し合うなら、

神はわたしたちの内にいまし、神の愛がわたしたちの内に全うされるのである」               

 (ヨハネの手紙一412

 

『熊本地震』から2ヵ月が経ち、未だに多くの人たちが避難生活を余儀なくされています。私は5月の大型連休直後から熊本・益城町での週一回のボランティア活動を続けています。震災当初、私は、「何が出来るのだろうか」という思いをもっていましたので、とにかく被災地に出かけて行って人と出会ってみよう、必要なことは何かを聞いて、知っていこう、そのような思いで被災地に出かけるようになりました。

これまで行った働きは、避難所での物資の仕分け・搬入・掃除、個人宅の片づけ・瓦礫処理・ブロック塀の解体等です。その小さな働きをとおして 与えられる被災者の方々との出会いの中で、一人ひとりが抱える多くの困難と 課題を目の当たりにしてきました。震災当初からボランティアのために使用する車両には高速道路料金無料の措置がなされていますが、6月末で終了となります。延長してほしいと心から願っていますが、このままでは、7月からのボランティアは激減するでしょう。私は、今、「これから福岡バプテスト教会は何ができるのだろう」という問いを強くいただいています。

被災地の現状を前にして、私たちのわざ、祈りはとても小さなものです。しかし、神様は愛に生きるどんな小さなわざでも用いて、生かしてくださると信じて、これからもボランティアを続けていきたいと思っています。

                                    (小川宏嗣)

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2016年6月12日

 

「こういうわけで、キリストもわたしたちを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに受け入れて、神の栄光をあらわすべきである。」(ローマ人への手紙157節)。

 

神は幻想を憎む。なぜなら、幻想は人を高慢にし、要求ばかり多い者とするからである。「交わり」についてのひとつのイメージを心に思い描く者は、その実現を神に、他者に、そして自分自身に要求するようになるのである。彼は、キリスト者の交わりの中に「要求する者」として入り、自分自身の律法を打ち立て、それによって兄弟と神とを裁こうとする。彼は他の人たちすべてに対して激しく「叱責する者」となり、冷然と兄弟の群れの中に存在し続ける。彼は、あたかも自分ひとりがキリストの交わりを「作り出す者」であるかのように、あるいは自分の幻想が人々を結び合わせるかのように行動する。自分の思いどおりにいかないことを彼は、「失敗」と呼ぶ。彼のイメージが消滅すると、彼は、そこで交わりが敗れてしまったと考える。そして彼は、先ず第一に自分の兄弟を「非難する者」となり、ついで神を非難する者となり、ついには絶望的な自己批判者となる。

 

しかし神は、すでに、われわれの交わりに唯一の基礎を置いてくれているのであり、またイエス・キリストは、われわれが他のキリスト者との交わりの生活に入るよりも前に、他のキリスト者とひとつの「からだ」に結び合わせてくれたのである。それゆえわれわれは、「要求する者」としてでなく、「感謝する者」、「受ける者」として、他のキリスト者との交わりの生活に入らなければならないのである。われわれは、<神の召しと、許しと、約束のもとに生きている兄弟をわれわれに与えてくれた>ということに対して、神に感謝する。(ボンヘッファー『共に生きる生活』p16

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2016年6月5日

 

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしにしたがいなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

マタイによる福音書162425

 

ペトロはイエス・キリストの一番弟子でした。イエスの行くところならどこへでも行く、そういう人でした。イエスが大好きで仕方がなかったのです。でもイエスが、「これから後、みんなの罪のために十字架に架かって死ぬのだ」(マタイ16:21)と言った時、ご自分が神からいただいているご計画を伝えた時、ペテロは、「いや、そんなことがあってはダメですよ」と言って、イエスを諫めました(同16:22)。イエスを自分の考えにあてはめようとしたのです。悲観的になっているように思う自分の先生を、弟子の年長者として励まそうとしたのかも知れません。

しかしイエスは、鋭い口調で言われます。「退けサタンよ。ペテロ、お前のその考えはサタンの考えだ。お前は神のことを思わず、人間のことを思っている」(同16:23)。神でなく人を恐れる時、イエスを私の考えにあてはめようとする時、私の土台は大きく揺らぎます。人に向かって生きていると、私の行う業の反応も、見返りも期待してしまいます。“私は神のことをよく知っている、私はこんなに神に仕えてきた”という思いが大きくなると、時に神のなさることが、私の考えることと全く違うように思えたり、私の思いをはるかに越えて行われる神の業が受け入れられなかったりすることがあります。私たちはペトロのような失敗をしてしまうのです。

私たちの生きること一つひとつが、神に献げられる礼拝となり、自分の十字架を背負って、イエスの後を歩む者であるように祈りたいと思います。   (小川宏嗣)

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2016年5月29日

 

「福音のために、わたしはどんな事でもする。それは、わたしも共に福音にあずかるためである。」

 (コリント人への第一の手紙9章23節)

 

私は2003年にヤンキースタジアムで当時ヤンキースの選手だった松井秀喜さんのプレーを見ました。それ以来、私は松井さんのファンになりました。松井さんはアメリカ・メジャーリーグへの挑戦を表明した際、「決断した以上は命をかけて頑張ろうと思います」と語りました。私は、この「命をかけて」という言葉に惹かれました。

今、この時代に生きて、私たちに、命をかけて行うものがあるでしょうか。私は、そのような問いを松井さんもらったような気がしたのです。パウロは、「福音のために、どんなことでもする」と語りました。この言葉が、「命をかけて」と重なって聞こえます。

パウロは、「命をかける価値あるものがこの世にある、それがイエス・キリストの福音を宣べ伝えることだ」と伝えているのです。

イエス様は、命がけで私たちを救って下さいました。私たちも、一生懸命祈って、つたないかも知れませんが、互いにイエス様の証をし合って、「一緒にやろうよ!」と励まし合って、伝道していこうではありませんか。

ひとりの人が救われる時、もう何ものにも替えられない喜びがそこにあります。パウロは、「仲間の救いのためなら呪われてもいい」(ローマ9:3)と言いました。私たちに、「何とかしてこの人を救いたい。呪われてもいいから、自分の子どもに福音を伝えたい。自分の夫や妻に福音を伝えたい。この人に福音を伝えたい。」という思いがあるでしょうか。この願い、祈りこそが教会を本当に建て上げていくのではないでしょうか。

(小川宏嗣)

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2016年 5月22日

 

以前のことですが、あるバプテスト教会に通っていた大学生が、ラグビーの試合中、強く頭を打って意識がなくなり、病院に運ばれました。「意識が戻らないかもしれない」と、みんなが心配したのです。その時、主治医が、「声をかけてあげてください。話しをしてあげてください」と言われました。ご家族、教会の人たち、大学のラグビー部の友人たちは、面会時間が来ると、毎日話に出かけて行ったそうです。

そのようなことがあったからでしょうか、その人は意識が戻り、少しずつ話が分かるようになり、自分からも話ができるようになって、その後、後遺症は残りましたが、退院することができたのです。「言葉の力ってすごい!」、誰もがそう思いました。言葉にはそういう力があるのです。

熊本・大分で大規模地震が発生して、大変な被害がもたらされています。苦しみ、嘆いている人のことを知って、私たちは、「自分に何ができるだろうか」と真剣に考えます。支援の為のお金を献げることもできますし、支援物資を送ることも、手紙を書くことも、実際にボランティアに行って困っている人の助けになることもできます。

とても不思議なのですが、自分の救いのためではなく、誰か一人の救いのために祈ったり、愛の業を行う時に、自分自身がどれほど神様から愛され、救いを与えられているかに気づくことができます。

神様の言葉も力を持っています。神様の言葉の力は愛です。先週のペンテコステ礼拝で、私たちが苦しみに出会う時、神様はいつもそばにいて、慰め、励まして下さることに気づかせていただきました。私たちも、神様の言葉を語る者、証しする者として立たせていただきましょう。 (小川宏嗣)

 

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2016年5月15日

 

故渥美清主演の映画、『男はつらいよ』シリーズの監督、山田洋次は敗戦後、   満州から山口・宇部へ引き揚げてきた時、裕福な生活から一転、無一物で食うに困る生活へと追いやられたという。まだ15才の少年だった山田は、おでんのネタの竹輪の行商をした。みすぼらしいかっこうでリヤカーを引いて、あちこちをまわるが、誰も相手にしてくれず、竹輪は売れなかったという。その時、ある飲み屋のおかみさんが、山田の苦しい胸の内に耳を傾けてくれた。おかみさんは山田に向かって言った。「残ったら全部引き取ってやるけんね」。その言葉は山田の心を捉え、涙が出るほど嬉しかったという。しかし、山田は、「全部引き取ってやるけんね」の言葉に甘えないで、一生懸命働いたという。

キリスト者にとって最も大切なことは神の恵みに応えて生きること。神様は イエス様を通して私たち一人ひとりを無条件に愛して下さっている。私たちが今、どんな歩みをしていたとしても、イエス様は、「全部引き取ってやるけんね」と言って下さる。私たちはこの言葉を有り難く聞くがゆえに、イエス様に喜んでいただける人生を歩んで行こうと思う。

イエス様は、「神を愛しなさい、隣人を愛しなさい」(マルコ12:3031と言われた。これは私たちに与えられている戒め。救われているから、神の恵みを無条件に受けているから、その恵みに甘えないで応答する。それがキリスト者の歩み。救われているから戒めを守る。出来ても、出来なくても、この戒めを真剣に生きよう。これがイエス様の私たちへのメッセージ。

神様を愛し、人を愛すること、それは礼拝と愛の実践に他ならない。神の恵みに甘えないでイエス様の戒めを真剣に生きよう。    (小川宏嗣)

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2016年5月8日

 

「自分の持ちものを与えるときは、少ししか与えていないものだ。自分自身を与えるとき、その時こそ真に与えているのだ。なぜなら持ちものとは明日の必要を恐れて/しまっておくものにすぎないではないか。多くを持ちながら少しだけ与える者がある。 それは人にみとめられるためで、その隠れた願いが、施しを不健全なものにする。少しだけ持ちながら、全部を与える者がある。彼らは生命と生命の恵みを信じているから、その金庫が空になることはない。

喜びをもって与える者がある。彼らにはその喜びが報いなのだ。痛みをもって与える者がある。彼らにはその痛みが洗礼(バプテスマ)となる。与えるとき痛みもおぼえず、よろこびも求めず、徳をも意識しない者がある。それは彼方の谷でてんにんかの花が、芳香を大気に放つにも似ている。彼らの手を通して神は語り、彼らの眼の背後から、神は大地に向かって微笑みたもう。」

(「与えることについて」 カリール・ジブランの詩 『預言者』)

 

神様は私たちが生きるために必要なものを与えて下さいます。だから、与えられたものを、独り占めせず、他者に与える、他者と分かち合うことは神様が喜ばれることです。与えることは物質的には貧しくなることですが、自分の持ち分が少なくなることで、それには代えられないたくさんの恵みが与えられます。だから与えること、自分を献げることは恵みであり、神様の恵みを分かち合って生きていくことなのです。

イエス様は、私たちの本当の豊かさのために十字架に架かって下さいました(コリント8:9)。そのイエス様の歩みに倣って、私たちも心を献げていくこと、自分自身を献げていくことを心から喜ぶものとして歩んでいきたいと思います。  (小川宏嗣)

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2016年5月1日

 

「『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』...『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

 (マタイによる福音書253540節)。

 

4月22日に福岡YWCAの要請を受けて、熊本市内にある熊本学園大学へ支援物資の搬送をしてきました。熊本学園大学は約700人を受け入れる避難所となっており、特に、介護が必要な体の不自由な方、高齢者の方々を受け入れていました。ボランティアの方に被災者の方々の状況をお聞きし、体の不自由な方や高齢者の方々の介護スタッフが長期化の中、足りなくなっていること、ボランティアの方々も被災され、避難所暮らしをしながらの介護なので疲労がピークに達していること、これから必要なことは帰宅支援だが、自宅が倒壊した方もおり、今後の見通しをまったく立てることができないこと等々、人々に言い尽くせないショックを与え、多くの苦難をもたらしていることを教えていただきました。

私たちは、神様が苦しむ一人ひとりの中におられ、イエス様が支援をする人たちと共におられることを証しするために、支援の働きに心を合わせ、祈りを合わせていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2016年4月24日

 

「…ある律法の専門家が…イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』…彼は自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とはだれですか』と言った」

      (ルカによる福音書102529節)。

 

「この問いは、終わりのない、答えのない問いである。<私の隣り人とは誰のことなのか、隣り人とは私の愛する兄弟、同胞、教会の兄弟のことなのか、それとも私の敵のことなのか、という問いに対して答えはあるのか。この答えもあの答えも同じような正当化をもって主張できるし、また否定もできるではないか。そしてこのような問いの行きつくところは、結局、分裂と不従順ではないのか>。このような問いこそがまさに神の戒めそのものに対する反逆である。こう問う者はさらに次のように言うであろう。<私はもちろん従順でありたい、しかし神の方でどうすれば、それができるか言ってくれないのだ。神の戒めは曖昧である。だから私は永遠に悩まされるのだ>。ところでそもそも<私は何をすべきなのか>という問いが偽りの問いであった。これに対する答えは、<あなたがたのすでに知っている戒めを行え。問うてはならない。すぐに行え>というものであった。これに対して今度は<では、私の隣り人とは誰のことですか>という疑いもしくは自信からでた問いが続く。この問いにおいては不従順がその問いを正当化している。これに対する答えはこうである、<あなた自身が隣り人である。行って行いをすることにおいて従順でありなさい>。隣り人であるということは、誰が隣り人なのかと自分が品定めすることではなく、他者が自分に要求していることなのである。自分自身が隣り人となることであって、そうでなければ無意味である。…<従順とは何であるかということを学べるのは、ただ聴き従うことにおいてだけであって、問うことによってではない>。

           (D.ボンへッファー『キリストに従う』)

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2016年4月17日

 

これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。弟子たちは、『わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか』と言った。

(マルコによる福音書637)

 

あるクリスマスの時期に、ひとりの青年が教会を訪ねて来ました。派遣の仕事をしていたが切られてしまい、年内は会社の寮に住むことを許されているが、いつ部屋を追い出されるか分からない、行くあてがない、これからどうやって生きていいか分からない、どうしたらいいか、と言われました。

私は、ただその方の話に耳を傾けるしかできません。しかし、その人はなかなか家に帰ろうとしません。いや、帰る家がなかったのです。行くあてもないとは、何とさびしいことでしょうか。「人の助けをあてにするのは甘い、自分で何とかするしかない」という声が聞こえてきます。今で言う「自己責任」です。でも、助けを求めることが出来ない社会、仲間というのは何とさびしいものでしょうか。

イエス様の弟子たちは、「群衆を解散させましょう、自分たちで食べ物を買いに行かせましょう」と言いました。しかし、イエス様は、「解散させてはいけない。あなたたちで食べ物をあげなさい」と言われました。

帰れないことからくるさびしさを抱え、せめてキリスト教会にでもとやって来る人たちがいるのです。「あなたたちで」というイエス様の言葉を、大事に聞いていきたいと思います。す。                                                            (小川宏嗣)

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2016年4月10日

 

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何も出来ないからである。」  (ヨハネによる福音書155)

 

2016年度の私たち教会の伝道の歩みが始まりました。伝道とは何でしょうか。それは"み言葉と出会うこと"であり、"み言葉を伝えること"です。まず、伝える側の私たちが、み言葉と出会っていなければ、み言葉に生き・生かされていなければ伝えることはできません。だから、私たちが罪から解放されて恵みを受けたという救いの経験、すなわちイエス・キリストの恵みこそが伝道の出発点なのです。

救いとは、私たちが恵みに応答する根づいた信仰生活をすることです。いざという時、揺さぶられて信仰生活から離れてしまうことがあるからです。だから「根」が必要です。引っ張られても根づいた信仰が必要なのです。み言葉によって助けられた、裁かれた、救われたという根が必要なのです。その人自身に神様が語りかけ、み言葉が与えられる時、その人は自らの足で立つことが出来ます。そのようなみ言葉との出会いを通して神様と出会うことが必要なのです。

信仰とは、根から幹につながって枝が生えて、やがて実を結ぶことです。この樹液の流れが伝道であり、そこを流れるのが信仰的なみ言葉です。伝道する者、伝道する教会がイエス・キリストの恵みに溢れているか、それが決定的に大事です。

                                                                                (小川宏嗣)

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2016年4月3日

 

 

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」

(マルコによる福音書834節)

 

イエス・キリストはそのご生涯を通して、一人ひとりに「わたしに従え」と呼びかけました。すべての事が自分のためであり、自分が世界の中心であるかのように生きる者に向って、“自分のためにではなく、仕えるために生きよ”と呼びかけました。だから信仰告白し、バプテスマを受け、キリスト者になることは、自分のすべてを献げて、自分以外の一人の人を生かす歩みへのチャレンジです。

私たちはそれぞれの人生の労苦と悲しみを負っています。イエス様の呼びかけは、私たちの負っている労苦を正直に負いきり、ごまかすことなく歩むことを促しています。しかし、人世の労苦だけが私たちの十字架ではありません。死に向かって歩み続ける私たちの生には、死んでしまえば消えてしまうというわけにはいかない罪があります。それをゆるしてくださる方の前で正直に負いきり、人間として誠実の限りを尽くしてその神様の前に立とうではありませんか。その時、私たちは独りではないこと、イエス様が共に十字架を負っていてくださること、その事が 必ず明らかになります。

従うとは、自分で自分の十字架を負いながら、“神が共にいてくださる”、ただそれだけを信頼して歩むことです。この世の中で、これだけは、決してごまかされることがありません。「わたしに従え」というイエス様の声を聞きながら、この福岡バプテスト教会で共に歩もうではありませんか。

                                                                           (小川宏嗣)

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2016年3月20日

 

「…イエスは大声で叫ばれた。…『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』…。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、…『待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう』と言った。…百人隊長…は、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」(マタイによる福音書274556節)。

 

十字架の上で磔にされているイエス・キリストが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と大声で叫ばれたのを聞いていた人々が、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」(マタイ27:49)と言った、と聖書は描いています。この人々は、何もしないで、十字架のイエス・キリストの姿をただ黙って見ていた人々です。

しかし、ただ黙って見ている人にならないで、「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:54)と言った人がいました。この時、十字架刑の立ち合い役をしていたローマの百人隊長です。この人は、「このイエス・キリストは神の子に違いない」というようなことを言ったのです。誰かから強制されたのではなく、わたしの言葉として言ったのです。

そうです、十字架に架けられたこのイエス・キリストを神の子ですと信じることが、私たちの信仰です。

どうか福岡バプテスト教会でイエス・キリストの言葉を聞いて、ローマの百人隊長のような信仰の告白をする人になってほしい。イエス・キリストに従って、信仰に生きる人になってほしい。これが私たちの祈りです。               (小川宏嗣)

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2016年3月13日

 

求めなさい。そうすれば、あたえられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」(ルカによる福音書119

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大きなことを成し遂げるために 力を与えてほしいと神に求めたのに 謙遜を学ぶようにと、弱さを授かった/偉大なことができるように 健康を求めたのに よりよきことをするように 病気を賜わった/幸せになろうとして 富を求めたのに 賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして 成功を求めたのに 得意にならないようにと 失敗を授かった。/求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。(ニューヨーク大学のリハビリーテーション研究所の壁にある詩)

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上記の詩は、看護大学で学んでいた時の教科書に載っていたものです。その頃、この詩の意味するところが分かりませんでした。今は、願った「そのもの」は与えられなくても、神様は必ず、その「代わりのもの」を与えて下さる。だから神様が与えて下さる一つひとつのことを「ありがとうございます」と受け取って行こうと思っています。「祈りは必ず叶えられる」ということの意味を少しずつ捉え直しています。

(小川宏嗣)

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2016年3月6日

 

「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。」

フィリピの信徒への手紙134)。

 

上句の聖書の言葉には使徒パウロが死ぬ前に、どうしても伝えたかったことが書かれています。それは「喜び」ということです。しかし、この時パウロは牢屋の中に閉じ込められ、負けた人生を歩んでいました。

それでもなお、パウロは、「喜びなさい!」と伝えています。なぜでしょうか。それは、負けた時、弱くなった時、失敗した時、そのような時こそ、本当の喜び、本当の希望が分かるのだ、ということです。パウロはそれを伝えたかったのです。

パウロは牢屋の中で孤独でした。しかし、究極的には決して孤独ではありませんでした。それは、イエス・キリストが、「あなたのすべてを背負っていきます」と言葉だけでなく、本当に十字架でパウロのすべてを背負って下さり、引き受けて下さっていることを、パウロは信じていたからです。苦難と共に神様が共にいて下さる、私のすべてを神様が知っていて下さる。これが本当の喜びであり、本当の希望なのです。

だから、私たちが失敗する時、負けてしまうような時に、「喜び」と「希望」を語って行きたいと思います。そのような時にこそ、私たちは本当の喜び、本当の希望を知っていることになるのですから。

(小川宏嗣)

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2016年2月28日

 

――説教のために――

故シー・ケー・ドージャー師は余においては尊敬すべき師たり、また愛慕する友たりし、20有余年の間、共に福岡において主の御用のためにその軛(くびき)を同じうせし事は、今すでに過去の一事実となれり。しかしこれは余にとりて最も光栄ある事にして感謝の念今なお新たなり。……/余は福岡バプテスト教会が永く恩師を記憶するたよ(頼)りに二三の事を書き 添えぬ。先生およびその御家族は久しく当教会の会員にして、また関係宣教師なりし、……  先生等が教会のために尽くされし事は尋常一様にあらず。……薄信未熟の牧師をしてその職にあらしめしはまことに故人の助力によるなり(注)。エドウィン・ドージャー師、ヘレン・ドージャー嬢は父君により我等の教会のバプテストリー(浸礼場)にてバプテスマを受けられたり、故人は余に授浸しくれよと命ぜられしが、信仰篤(あつ)きこの師の子女に対しバプテスマを授くる事は自らその器にあらざるを感じ辞退したり。……「我すべての事において例を示せり」(使徒行伝2035)とパウロは述べしが、吾人(ごじん=われわれ)は我等に近く現れしパウロのおもかげをドージャー先生に見るの感あり。(下瀬加守〔第三代〕牧師「ドージャー師を憶う」より。『ドージャー院長の面影』1934年)

(注)「殊に明治の末葉より大正の央(なかば)〔おそらく19091922年〕にかけ我が福岡バプテスト教会の宣教師として良く牧師を助け、また牧師と協力し迷える多数の小羊を導き今日の教会の基礎を固くせらる」。(大村 匡兄。福岡バプテスト教会代表としての「弔辞」より。前掲書)

 私は先生の良い学生ではなかった。幾度か先生を怒らせ、幾度か悲しませた一人であった。その私がどうにか牧師になり、母校の教師となって先生の志を継ぐ者になり得たのは、先生御夫妻の真摯な御指導と温情の故であった。先生の告別式の後、生前の先生の御苦労と温かい心を偲んで、涙のうちに柩を運んだことを思い出す。…先生の…信念とは何であったか、それはキリストへの忠誠で、先生の生涯を貫いての生命の基盤であった。生きるも死ぬるもキリストの御栄えのため、これが先生の教育モットーであった。…先生は日曜日を非常に大切にされた。…日曜日こそ人間生活の中心であり、基盤であると確信されたからである。それは、人の魂を活き返らせ、正しき道に導かれるため、静かに祈り、神と交わる日だからである。… (三善敏夫〔第四代〕牧師「真実一路 十字架の道を歩んだ」。19794月の大学広報より。)                                                                           (天野 有)

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2016年2月21日

 

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、

あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネによる福音書1334節)。

 

 

インターネット動画サイト、「youtube」に、『生きる312』という映像が、2012年5月末から流れている。

ある青年が、「311」から「あなたにとって生きるって何ですか?」と、震災から、ずっとこの質問を震災支援の活動の中で、いろいろな人に聞いて回った、インタービューの映像で、約10分ほどのもの。

彼が、「311」というある種、実体のないものを追いかけ続けて、ちょうど1年が経つ頃。岩手のある小学生の“生きる意味”を聞いた。

その小学生は、「『311』を生きるのではなく、『312』を生きようと思いました。『311は生きてる気がしなかったから、震災後そういう風に思うようになった。』」と答えた。それから、そのインタビュー映像に、『生きる312』というタイトルをつけたという。

「あなたはどう生きますか?何のために生きますか?」。この問いに、ひとりの高校生が、「朝、掃除出来る人になりたい、誰も見えない所を掃除出来る人になりたい。」と答えた。私はこの高校生の言葉に心揺さぶられた。なぜなら、この高校生の言葉には「他者」が出てくるから。

イエス・キリストが十字架に架かって死ぬ前に、どうしても弟子たちに伝えたかったことがある。それは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

私たちの目指す目標は何か。何のために生きるのか。それは、互いに愛し合うため、共に生きるため。イエス・キリストの言葉そのものだと思う。

 

私たち福岡バプテスト教会も、互いに助け合う教会でありたい。(小川宏嗣)

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2016年2月14日

 

「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

(コリントの信徒への手紙一122627節)

 

私たちの教会は、集う一人ひとりの自覚的な信仰生活が教会を支えています。教会にとって奉仕は無くてはならないものです。しかし、その奉仕は実際に人が動き、働くことによってなされますので、恐れや迷い、精神的・肉体的な疲れが生じます。教会は強い者の集まりではなく、むしろ弱い者の集まりであることを覚えます。

パウロは、教会を「キリストの体」に譬えた上で次のように言います。「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」(同12:22)。教会にとって「弱さ」は無くてはならないものです。弱さでつながっている教会には、補い合い、助け合いが生まれるからです。弱い部分を持たない関係、共同体や社会は、自分の強さや豊かさだけを求めます。それは病んでいると言えないでしょうか。

神様は、私たちを愛するにふさわしいからではなく、私たちが弱さをもっているがゆえに、愛して下さったのです。私たちにとって見劣りがすると思えるところを神様はかえって必要だと言い、そこを見栄えよくするどころか、豊かに用いてさえ下さるのです。教会で一緒に祈って聖書を読んで、関わりをもって、その中で見えてくる本当の必要を互いに埋め合うこと、助け合うこと、今、私たちの教会で、そのことが奉仕を考える上で必要ではないでしょうか。(小川宏嗣)

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2016年2月7日

 

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であ

るこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

            (マタイによる福音書2540節)。

 

以前のことですが、ある方から連絡がありました。その方のお連れ合いが亡くなられたので、葬儀をしてほしいということでした。しかし、「なぜ、私なのですか」とお聞きすると、「夫が入院をした時に、訪ねてくださったことがあるからだ」と言われました。私は、そのことは忘れてしまっていたのですが、その方も、お連れ合いも覚えておられたのです。

この経験は、私に大切な事を教えてくれました。それは、自分が意識してはいないけれども、ある時の訪問が、その人にとって大変意味のあることになることがあるということです。

私たちは、自分の方で、それは、有効なものであるのかという判断で、物事を行うことがあります。しかし、そのような判断ではなく、損得を考えないで行こなっている時に、本質的なものに触れることがあると、イエス様は言っておられます。

効率を重視する今日の社会の歩みの中で、何が本当に大切なのか、イエス・キリストの言葉、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」から、聞いていきたいと思います。 (小川宏嗣)  

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2016年1月31日

 

「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子を信じていないからである。」

(ヨハネ福音書31618節)。

 

私は幼い頃、ある事で親に嘘をつきました。いつばれるのかを心配し、親の顔色を伺い、落ち着かない日々を過ごしました。心は後悔と不安で一杯で、夜も眠れなくなるほどでした。その時、親は私の嘘を見抜いていました。そして、いつ本当の事を話すのか、その時を待っていたのです。しかし、私は叱られるのを恐れて、つまり、裁かれるのを恐れて、本当の事を話すことが出来ませんでした。神の裁きとは、死んでから地獄に堕ちるとか、神様から懲らしめの罰を受けることではありません。正々堂々と神様を見ることができないという、常に後ろめたさと、不安と後悔を抱え込みながら、その重荷を背負って生きることなのです。それが神の裁きと呼ばれるものの本質です。

神様は私たちを裁かない、逆に光の方へと導かれます。神様は私たちを裁くためにイエス様をこの世へと送ったのではなく、この世を愛され、私たちを光の方へと導くために、イエス様を送ってくださったのです。裁きとは、信じないことの結果もたらされるものではなく、信じないことがすでに裁きなのです。

その後、私は親に本当の事を言うことができました。その時、「よく言えたね」という言葉に救われ、重荷から解き放たれる思いがしました。信じることの中にすでに救いがあり、従って、「信じるものはさばかれない」(3:18)というみ言葉を大切に聞いていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2016年1月24日

 

私が聖書を理解する一つの手掛かりにしている言葉に、「にもかかわらず、なお」があります。これは恩師、関田寛雄先生(日本基督教団 巡回伝道師)が教えて下さった言葉です。

たとえば、イエス様が十字架に架かる前、ゲッセマネの園で祈られた時、弟子たちはイエス様から「そばにいてほしい、目を覚まして一緒に祈っていてほしい」と頼まれたのに、三度も眠ってします(マタイ26:3645)。「にもかかわらず」イエス様は、彼らをとがめだてするどころか、信頼し、許し、「なお」後に彼らを伝道者として導かれました(ヨハネ21:1519)。

私たち人間は、「もし…なら」という条件付きで人を見てしまいがちです。「もし、強いなら、美しい姿なら、立派なら、名誉があるなら」、それがなければダメだ、認めないという考え方です。「にもかかわらず」は、私たち人間の罪の現実を超えて「なお」迫ってくるイエス様の恵みを表す言葉です。「にもかかわらず」、それは弱さ惨めさを持つ私たちの限界を超えて「なお」働いて下さる神様の愛へと私たちを導く言葉です。

 

イエス様を救い主と信じて歩むということは、何をするにも緊張して生きることではありません。そんなことをしていてはダメだ、もっと信仰に励まなければと、生きることでもありません。おおらかに、伸びやかに、「全ては神様の御手の中にある、だから大丈夫」という希望を持つ歩みへと導かれることです。私たちは、イエス様に常に目を注ぐことが出来ない弱い者かも知れません。しかし、そういう私たちに向かって、イエス様は、「わたしが共にいる、恐れることはない」、そう告げられます。このイエス様の言葉に信頼して行こうと思います。(小川宏嗣)

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2016年1月17日

 

心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ

人々は幸いである、その人たちは慰められる

(マタイによる福音書534節)。

 

聖書の価値観は、私たちを取り巻く社会の価値観とは随分と異なっているかも知れません。イエス様は、「こころの貧しい人たちは幸いである」、「悲しんでいる人たちは幸いである」と語られています。

私たちは、悲しんでいる人に接する中で、『悲しいの、それはよかった』などと声を掛けることは、まずありません。共に悲しむということを考えるはずです。

しかし、ここで、イエス様の語られている「こころの貧しい、悲しんでいる」ことの価値については、私たちが考える次元とは違うようです。

イエス様は、「こころの貧しい人たちは幸いである」と、どんな、まなざしで語られたのでしょうか。神様が用意してくださっている恵みを、受け取る、受け継ぐための条件として、こころの貧しい・悲しんでいる人を取り上げて、聖書の中心に導き出して、そして、最高のものを与える約束を弟子たちに教えられているのではないでしょうか。そして、そのイエス様が、私たちをいつも招いてくださっていることを覚えたいと思います。

 

私たちが、神様に「幸いだ」と言っていただく条件は何でしょうか。その価値とは何でしょうか。すでに、イエス様は、答えを用意して、私たちが何を選び取るのか見つめておられるかも知れません。                      (小川宏嗣

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2016年1月10日

 

…わたしが、あなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを 手のひらに刻みつける

 イザヤ書491516

 

最近、自分のことを忘れっぽくなったと思います。人と約束したこと、合意したこと、やるべきこと、忘れることが多くなりました。誰にも、つい忘れて失敗したという苦い経験があるのではないでしょうか。

その一方で、辛いこと、苦しいこと、悲しいことについては、その生々しい痛みも傷も、時間の経過と共に和らげられ、いつしか忘れられるから、何とか生きて  おられるのだとも思います。

ただ、自分では忘れてしまえることが、他者からは忘れられないことである時、その事柄は、忘れていない他者との出会いでよみがえってきます。だから覚え続けること、語り続けることは、その出来事やその人の命を生かし続けるものだと思います。

聖書は、「神はあなたを見捨てない。あなたを決して忘れない」と語ります。 私たちが失望するような時、嘆くしかないような時でも、神は私を決して忘れてはいないのです。この言葉は、私たちにとって本当に必要です。「あなたを決して忘れない」という神の存在が、私をいつまでも生かし続けるものとなるからです。

だから、今、生かされている私が、今度は、ひとりの人の存在を生かし続ける他者になっていくのではないでしょうか。私たちも他者に向かって語り続けていきたいと思います。「わたしがあなたを忘れることはない」と。

                           (小川宏嗣)

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2016年1月3日

 

「だから、キリストを結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」

(コリントの信徒への手紙二 517節)。

 

新年おめでとうございます。主の平安のうちに新しい年をお迎えになられたことと思います。今年も福岡バプテスト教会に連なるすべての方々の上に、主の祝福が豊かにありますよう心よりお祈り申し上げます。

私たちの「新しさ」とは、単に私たちに2016年という新しい年がもたらされたから「新しい」、「新しくなる」のではありません。神様がクリスマスにおいて、独り子イエス・キリストを救い主として私たちにお与えくださったことによって、あるいは、私たちが信仰告白に導かれて、「悔い改め」をさせられたことによって、私たちはすでに新しくされているのです。私たちの新しさとは、神様がもたらしてくださったものなのです。

だから、私たちはすでに新しくされた者として、神様が与えてくださった新しさ、つまり、私たちが今、どんな悩みを抱え、どんなに困難な中にあっても、希望をもって生きることが出来るのだということ、そのことについて互いに語り合いたいと思います。

 

2016年の初めの主の日に、私たちの歩みが神様への感謝と讃美から踏み出せるならば大きな幸いです。そしてこの年も神様を心から信じて、互いに励まし合って、支え合っていこう、と決心していきたいと思います。そのことが私たちの真の「新しさ」なのです。(小川宏嗣)

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2015年12月27日

 

この方のなさったことはすべて、すばらしい

 (マルコ福音書737

 

「『この方のなさったことはすべて、すばらしかった』とわれわれはこの年の終わりに、過ぎ去ったあらゆる『時』について語ろう。われわれはこう語りたくないと思う『時』があるかもしれないが、そのような『時』が全くなくなるまで、祈りの中で、『この方のなさったことはすべて、すばらしかった』と語ろう。われわれにとって困難だった日々、われわれを苦しめ、不安にした日々、また、われわれの中に苦しみの痕跡を残した日々は、われわれが今日、感謝しつつ、謙虚に、『この方のなさったことはすべて、すばらしかった』と告白するようになるまで、過ぎ去らせてはならない。われわれはそれらの日々を、恐れるべきではなく、克服すべきなのである。このことは感謝によって起こる。われわれは過ぎ去った日々の理解することのできない謎を解こうとして、苦しい思いわずらいの中に入り込むべきではなく、われわれに理解できないことはそのままにして、安心して、神の手に委ねるべきなのである。このことは神の前で謙遜になって、『この方のなさったことはすべて、すばらしかった』と告白することになって、可能になるであろう。」D.ボンへッファー『抵抗と信従』)。

私たちは2015年を神様への感謝をもって終えたいと思います。この一年、神様は私たちの信仰の正しさや完全さの中にではなく、弱さの現実の中にも、私たちに共に寄り添ってくださり、私たちを希望へと導いてくださったからです。新しい年も、その神様の真実に、いつも心と信仰の目を向けて歩む、私たち一人ひとりであり、また教会の信仰の歩みでありたいと願います。2016年が希望に満ちた祝福の年であり、平和であることを心よりお祈り致します。    (小川宏嗣)

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2015年12月20日

 

最初のクリスマスは、イエス・キリストが、住民登録のためにごった返していたユダヤのベツレヘムの町で、それも居場所もなく、誰からも顧みられることなく、家畜小屋の飼い葉桶の中に救い主として生まれてくださった出来事です。

その事実に、私たちの現実に、そっと寄り添ってくださる温かい神の愛を感じさせられます。

皇帝アウグストゥスの命令により、イエスの母マリヤは身重の体でベツレヘムに行かなければなりませんでした。しかも、着いてみると泊まる場所がない。もう生まれる、というのに、手助けしてくれる人もいない、不安と恐れのあるところにイエス・キリストはお生まれになったのです。

神は私たちの現実に寄り添ってくださる方です。それも、願い通りに人生が進む中というよりも、願ったように進まない中で、落胆したり、打ちのめされたりする私たちのところに来てくださる方です。

私たちが生きる希望と力に満たされて生きるには、「この私のために、誰かが本気で寄り添ってくれた」ということをよく知ることではないでしょうか。

クリスマスとは、「神は、痛みや悲しみ、孤独や不安の中にいるあなたに寄り添ってくださる方です。それも、命がけで寄り添ってくださる方なのです」というメッセージをイエス・キリストが身をもって知らせてくださった出来事です。

“この私のために、命がけで寄り添ってくれる神がいる。それを深く知った時にこそ、人は生きる力を与えられ、生きる希望を持てるようになる”。

私たちもこのことを信じて、誰かに寄り添うクリスマスを迎えようではありませんか。                          (小川宏嗣)

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2015年12月13日

 

今から115年以上も前のことです。アメリカ・ニューヨークのサン新聞に、八歳の女の子、バージニア・オハンロンからの質問が舞い込みました。

「あたしの友だちに『サンタクロースなんていないんだ』って言っている子がいます。…おねがいです。おしえてください。サンタクロースって、ほんとうにいるんでしょうか。」。この質問に答えたサン新聞の美しい、心のこもった社説がクリスマスが来る度に今も語り継がれているそうです。

「バージニア、おこたえします。サンタクロースなんていないんだという、あなたのお友だちはまちがっています。…この世の中に、愛や人への思いやりや、真心があるのと同じように、サンタクロースもたしかにいるのです。あなたにもわかっているでしょう。この世界にみちあふれている愛や真心こそ、あなたの毎日の生活を美しくし、楽しくしているものだということを…。もしもサンタクロースがいなかったら、この世の中は、どんなに暗く、さびしいことでしょう。あなたのようなかわいらしい子どもたちのいない世界なんて、想像もできません。サンタクロースがいなければ、人生の苦しみをやわらげてくれる、子どもらしい信頼も、詩も、ロマンスもなくなってしまうでしょうし、わたしたち人間の味わう喜びは、ただ目に見えるもの、手でさわれるもの、かんじるものだけになってしまうでしょう。…」。

クリスマスとは、神が私たち人間に独り子を救い主として与えたという出来事です。サンタクロースの起源となった聖ニコラスはこのクリスマスの出来事を知っていたのだと思います。神の愛のプレゼントを心から受け取っていたからこそ、プレゼントを贈る者へと生かされて行ったのです。

私たちもこのプレゼントをいただいた者として、プレゼントを贈る者へと生かされて行きたいと思います。この世界で一番確かなこと、それは、子どもの目にも、大人の目にも、見えないものなのですから。       < 小川 宏嗣 >

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2015年12月6日

 

 

ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君』と唱えられる」(イザヤ書95

 

12月25日のクリスマスまでの4回の日曜日を「アドベント」と言います。神が降ってくるのを「待つ」という意味で、日本語で「待降節」と書きます。このアドベントには「向こうからやってくる」という意味もあり、アドベントという言葉から「アドベンチャー」という言葉も出来たそうです。驚くような事が向こうからやってくる。だからアドベントとは待つことであって、冒険なのだということです。

イエス・キリストが誕生する700年以上も前にイザヤという預言者が、「ひとりの赤ちゃんが、ひとりの男の子が私たちのために生まれました。それが救い主ですよ。」(イザヤ9:5という神様の言葉をイスラエルの人々に伝えました。驚くべきことに人々はその約束を根気強く待ち続けました。700年という長い間に、疑ったり、あきらめたり、待っていても死んだ人もたくさんいたはずなのに。

しかし本当に、神様は赤ちゃんの姿になってこの世界に来て下さったのです。神様の言葉だから、信じてみようという気持ちで待ち続けることで、イスラエルの人々は神様の言葉が真実であるという経験をしました。

待つことには、神様の言葉は必ず実現するという信頼があります。信じることに希望があります。だから待てるのです。待つことは備えることです。それは神様から与えられた信仰です。私たちもこのイスラエルの人々の信じて待つ姿に学びたいと思います。         (小川宏嗣)

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2015年11月29日

 

全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい

マルコによる福音書1615

 

私たち福岡バプテスト教会が加盟している「日本バプテスト連盟」では1129日~126日を『世界バプテスト祈祷週間』として守ります。

世界祈祷週間の始まりは、1873年「米国南部バプテスト連盟」の女性宣教師ロティ・ムーン(18401912年)が中国への伝道のために身を献げ、その働きを支えるために南部バプテストの教会の女性たちが、「ロティー・ムーンクリスマス献金」を献げたことによります。

彼女の宣教師としての働きは、ただクリスチャンを増やすということのみならず、現地の人々と共に過ごし、その生活の中で聖書の言葉を共に聞き、証して行く働きだったそうです。経済的に厳しい状況にあった彼女の働きを支えようという祈りと献金が大きなうねりとなって今日に至っているのです。

日本バプテスト連盟はロティー・ムーンの伝道のスピリットを受け継ぎ、世界宣教を大切な使命としています。現在、「シンガポール」にアジア・ミッション・コーディネーター、「ルワンダ、カンボジア、インドネシア」にミッションボランティアを派遣しています。また、「インド」“プリ子どもの家”の支援、世界バプテスト連盟救援委員会BWAIDへの支援を通して国際協力等の働きもしています。また今年度より「福島移住女性支援」が開始されました。世界祈祷週間では、これらの働き一つひとつを覚えて祈り、献金し、私たち一人ひとりが神の召しに応えて「献身する者」であることを心から覚えたいと思います。伝道の働きは教会の働きです。それは一人ひとりが神の召しに応えて「献身する者」であることを心から覚えたいと思います。伝道の働きは教会の働きです。それは一人ひとりが祈って、献げる生活に励むことが、神に豊かに用いられ、可能になることです。

「世界宣教・国際協力のために私は何ができるのか」、聖書から聞き、伝道の業の実現のために祈り、献げて行こうではありませんか。(小川宏嗣)

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2015年11月22日

 

「主は何を喜ばれるだろうか・・・人よ、何が善であり/主が何を求められているかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書678節)。

神様が喜ぶことは何だろうかと考える時、私自身が過去にしてきた、たくさんの神様の喜ばれないことを思い出し、自分のことが悲しくなり、いやになることがあります。

旧約聖書のミカという預言者は、神様の喜ばれること、神様の求められていることについて、「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと」(ミカ書6:8)だ、と伝えています。何をもって、いと高き神様の前で礼拝を献げるべきだろうか。犠牲の動物を焼き尽くして献げるべきだろうか。最も良い供えものとされる一歳の子牛を献げるべきだろうかと、一生懸命考えるのです。しかし、あなたは、高価な犠牲を献げることによって、より大きな幸せを得ることができる、という期待をもって、それを自分だけの喜びとしてはいないかと、問いかけています。私が喜びとするものと、神様が喜ばれ、求められることは違う。そのようなものを神様は喜ばれないし、求めておられないのだとミカは伝えるのです。

神様は目に見えるかたちで私と共に歩いてくださるわけではありませんが、神様と共に歩むとは、どんな時にも神様のことを考えるということではないでしょうか。聖書の言葉は、神様がこの私に語って下さる言葉なのだと信じて歩むことではないでしょうか。嬉しいことがあった時、悲しいことがあった時、つらく涙を流す時、憎しみや怒りで心が満ちる時、神様のことを思うことです。神様もどんな時にも、私のことを思い、考えてくださっています。そのことが神様と共に歩むということではないでしょうか。へりくだって神様と共に歩むこと、それを神様は喜ばれ、私たちに求められているのです。

              (小川宏嗣)

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2015年11月15日

 

「エフラタのベツレヘムよ お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」(ミカ書51節)。

 

上の聖句はミカという預言者がイエス・キリストの誕生を預言したものです。神様は、いと小さき者から、イエス様を誕生させるという預言です。その預言どおりに、イエス様は、ベツレヘムで母マリアより生まれました。そのマリアは、「わたしは、主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」(ルカ1:38)と言いました。小さいということは、人の力ではなく、神の力を知っているということです。

私は看護学生時代に、ネパールのオカルドゥンガ診療所で医療奉仕をされていた伊藤邦幸医師から海外医療奉仕を学ぶ機会がありました。伊藤先生は、子育てについて、「こどもを育てるのに、心配はないか」とある方から尋ねられた時、「こどもを偉い人に育てようとするなら、心配だが、仕える人に育てようとするなら心配ない」と答えられたそうです。私は、この「仕える人」に育てるという中に、小さき者となることへの祈りがあるのではと教えられました。

本日は幼児祝福礼拝を献げます。教会で、幼な子と共に歩むことが出来ることを心より感謝します。お一人おひとりの成長を心から願い、神様の祝福をご一緒に祈りましょう。そして、幼な子と共に、私たちには神様の力が必要なのだ、神様のゆるしが必要なのだ、神様の愛が必要なのだ、ということを聖書から分かち合っていきたいと思います。(小川宏嗣)

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2015年11月8日

 

また旅のために、つえ―本のほかには何も持たないように、…ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。」   (マルコ6:89

 

 

私はかつてインドからオーストリアまで自転車の旅をしたことがあります。その旅では、いろいろと考えながら荷物を準備しました。いよいよ出発、空港でのチェックインの時、荷物の総重量が60kgにもなることが分かり、追加料金10万円を支払うはめになりました。

2ヵ月かかってトルコまでやって来た時、ドイツ人の二人組みの自転車旅行者に出会いました。彼らはドイツからトルコまでやって来たのに、装備はデイバックのみだったのです。私は驚き、自分の重装備をとても恥ずかしく思いました。その時、その旅に本当に必要なものは何だったのだろうかと考えました。

もし、旅をする際、荷物は「一つだけ」と制限をされたら、旅の目的に本当に必要なものを真剣に考えるでしょう。必要なものに優先順位をつけて、真剣に荷物を選ぶでしょう。

イエス・キリストは伝道の旅をする弟子たちに「杖一本の他に何も持って行くな」と言われました。聖書で杖は、「モーセの杖」(出エジプト4:2を表します。 出エジプトの壮大な旅に、モーセは何も持たなくても、この杖一本あれば、どんな困難な中でも歩むことが出来ました。この杖は神様が導いて下さる、神様が愛して下さるという神様の約束の杖だったのです。

私たちにとって杖一本とは何でしょうか。私たちがどんな状況に置かれても、杖一本を頼りにして生きていくかどうか。それはつまり、神様の導きと神様の愛だけを頼りに人生という旅を歩むかどうか、そのことが大事なのだとイエス・キリストは言われています。                     (小川宏嗣)

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2015年11月1日

 

「あなたがたは…わたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」

   (マルコによる福音書10:38)。

 

クリスチャンとそうでない人とはどこが違うのでしょうか。能力や才能に違いがあるわけではありません。人間性や人格も、クリスチャンだから優れているということもありません。見た目に特徴があるわけではなく、服装が違うわけでもありません。同じ言葉を話し、同じテレビ番組を見、同じ音楽を聴き、同じ仕事をします。同じものを食べ、同じ社会で生活し、同じスーパーで買い物をします。同じように学び、働き、喜び、悲しみ、同じように寝起きしています。

一体、クリスチャンとそうでない人とではどこが違うのでしょうか。朝起きて、寝る前に、あるいは毎食前にお祈りをすることでしょうか。日曜日に教会で礼拝を献げることでしょうか。それはもちろん、意味のある大切な違いだとは思います。でも、それしか違わないとしたら、クリスチャンであることは、ただのライフスタイルの一つに過ぎないことになってしまいます。

本田哲朗神父(フランシスコ会)は『バプテスマ』(浸礼での洗礼)について、「水面下に全身を沈めて『低みから見直させる』こと、地上で一番低いところを流れるヨルダン川に『身を沈める』こと」と言っています(『小さくされた者の福音』)。

バプテスマを受けるとは、自分中心に、高みに生きようとする私たちに「あなたも降りて来なさい、一番低いところ、川底に立って見直してみなさい」とのイエスの招きに応えること。今までいたところから出て、一番低いところに立って見ること、それがクリスチャンになるということだというのです。

クリスチャンとは悔い改め(メタノイア)に導かれた者です。今までの立場、見方、生き方がイエス・キリストによって方向転換させられた者です。いくら真摯に反省しても自分を変えることはできません。そうではなく、視点を変え、立ち位置を変えることです。だからクリスチャンには真に悔い改めが求められているのです 

          (小川宏嗣)

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2015年10月25日

 

それから、イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた。…『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい

マタイによる福音書263639

 

私の父は1998年(亨年73)に召天しました。父の闘病生活で印象に残っていることがあります。それは、父が、「苦しい」と言わなかったことです。苦しいはずなのに、「苦しい」とひと言も言わず、病床に聖書を置いて跪くように祈っていたのです。

父は、私が子どもの頃から、朝早く起きて祈っていました。その時は父が何を祈っているのか、気にもしませんでしたが、今、思えば教会のために、家族のために、私のために祈ってくれていたのだと思えます。

私は、苦しみに耐えている父の姿の背後に、イエス様の十字架の姿が重なって見えるような思いがしました。父は私のために苦しんでくれた、苦しみをただ我慢しているのではなくて、ひとりの人がその痛み、苦しみを耐えること自体に、何かその人のためだけではない、周囲の人たちのための痛みを背負っているようなことを強く感じたのです。激しい苦しみに耐えて生きる信仰者の姿に、やはり主の苦しみにあずかる人々のために立てられている証し人の姿があるように思い、とても厳粛な思いにさせられました。

イエス様は、私たちの苦しみや悲しみをご存知です。だから、私たちも互いの痛みと喜びを担い合っていこうではありませんか。(小川宏嗣)

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2015年10月18日

 

したがって、信仰とは聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ人への手紙1017節)


信仰とは「聞いて信じる」ことだと聖書は伝えています。聞いて信じるとは、確かさが自分にあるのではなく、全く相手を信頼するということです。自分の力を頼みとしない、自分の力を信じないということです。

しかし今は、自分の幸せや豊かさのために互いに争い、神様が創られたいのちが傷つき、痛み続ける時代です。多くの人が、人に騙されないために、自分の力を信じ、信頼することよりも人を疑いながら生きているかもしれません。

でも、騙されないぞ、と人を信じないで、いつも気を張っている生き方は、何か寂しく、悲しい生き方ではないでしょうか。もう、騙されてもいいから、相手を信じて委ねる、それはとても大きなチャレンジであるでしょう。

救い主イエス・キリストは十字架において、ご自分の命をかけて、私たちを愛し、私たちに信頼を示して下さいました。ご自分の豊かさのためではなく、私たちの苦しみ、悲しみ、痛み、弱さ、愚かさに徹底的に寄り添ってくださったのです。それは私たちが真に豊かになるためです。このキリストの恵みを受けたゆえに、私たちはこの世界に向かって、疑うことよりも信頼することを伝えていきたいと思います。

このイエス・キリストの言葉を聞いて信じることから、私たちの間に、互いに信頼し合える関係が築き上げられていくことを信じたいからです。(小川宏嗣)




2015年10月11日

 

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。  あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」 ローマ人への手紙121


毎主日の礼拝で私たちは何を期待し、何を捕らえているのでしょうか。

聖書は、極めて端的に、「あなたがたの体をささげなさい」と言っています。 全生活をもって神様を礼拝しなさいと勧めているのです。また、こうも考えられ ます。昔から神様を礼拝する時には供え物をしました。しかし、動物を献げたり、いろいろな物を献げたりするよりも、もっと大切な神様の喜ぶ供え物は、あなた自身をささげることだ、それこそ「生きた、聖なる供え物」だというのです。

私たちは礼拝で献金をささげます。そこに形は残っています。しかし、それは財布の中のほんの僅かを献げて、多くのことを期待するお賽銭とは違って、私たち自身を、全部を、献げるということの代わりなのです。「私の体、私の生活、そのすべては神様のものです。それは神様の憐れみです。ですからどうぞ、ご自由にお使いください」という、信仰の告白なのです。

そうすると礼拝とは、私たちの自己満足のためにあるのではなくて、神様を礼拝するという言葉の本当の意味するような、神中心の、神を仰ぎ、神に聞き、神に従い仕えようとする態度でなければならないことが分かります。礼拝を豊かにするとは、まず私たち自身が礼拝者となること、礼拝者として生きることです。(小川宏嗣)



2015年10月4日

 

 

 「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸い である。その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、そ の人たちは憐みを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を 見る。」 (マタイによる福音書 5 章 3~8 節)

 

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 「水は つかめません 水は すくうのです

  指をぴったりつけて そおっと 大切に

  水は つかめません 水は つつむのです

  二つの手の中に そおっと 大切に

  水の心も 人の心も」

    

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上記は、『水のこころ』(詩:高田敏子)という詩で、以前、礼拝の中で讃 美(曲:塩田泉)をしたことがあります。この詩は、人の心を水にたとえたも のですが、水の心も人の心も大切につつむことを教えています。私は、このこ とは信仰にも当てはまるのではないかと思います。 私たちは神様を性急に理解することは出来ません。それはあたかも、水をす くうように、そおっと大切に、神様の言葉を心で受け取っていくことなので す。もし神様のことを急いでつかもうとすれば、水が指のあいだからこぼれ落 ちてしまうように、私たちの手から逃れてしまうでしょう。 神様の言葉をふたつの手でそおっと受け取り、目の前で何度も見つめ直し、 そおっと口をつけていくことなのです。そのようにしてはじめて神様の言葉は いのちの糧となるでしょう。 (小川宏嗣) 



2015年9月27日

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 (ヨハネによる福音書316


「キリスト者の交わり(教会)は、理想ではなく、神的現実である」(D.ボンへッファー『共に生きる生活』という言葉があります。

私はこれまで教会に対して、「こうなってほしいなあ、こうなればいいなあ」と思い、自分の理想とする交わりを作ろうとしたことがあります。その結果、壁にぶつかり、失望落胆することも少なくありませんでした。教会とは私の理想を実現するところではなく、今ある教会の現実そのままが神様からの賜りものであるということを学んできたように思います。教会の中心は人間ではなく、やはり神様なのです。

私たちの教会がどうあるべきなのかは、神様が知っておられることなのですから、神様がイエス・キリストにおいて創ってくださった教会をただ感謝して受け取っていきたいと思います。神様の賜物である教会をまず喜ぶことを教会形成の出発点にしていきたいと思います。                     (小川宏嗣)

 


2015年9月20日


わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」     

マタイによる福音書112930節)


「人の世は重い荷を負って旅をするようなものだ」と言われます。人生には二種類の重荷があるのではないでしょうか。一つは、降ろすことのできない重荷です。私たちが他者の重荷を自分の重荷として負っていく重荷です。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラテヤ6:2とあるように、他者の嘆き、痛み、悲しみを自分のことのように嘆き、痛み、悲しむことです。これは私たちにとって降ろせない重荷です。

もう一つは、取り除かなければならない重荷のことです。それは罪の重荷です。罪の重荷は、私たちにとって不必要なものですから、取り除かれなければならないのです。その重荷はひとりでは決して負うことの出来ない重荷です。

主イエスは私たちが負うべき重荷について次のようにおっしゃいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28。それは降ろせない重荷だから、本当に重い重荷だから、イエスは「一緒に担う」とおっしゃいます。イエスは私たちの負うべき重荷の重さを知っておられ、私たちを愛しておられるゆえに、一緒に負いたいとおっしゃって下さいます。主イエスにとって愛とは、人の重荷を共に負うということなのです。

私たちの重荷を愛ゆえに負って下さるイエスに倣って、私たちも「あなたの重荷を負わせてください」という祈りを捧げていきましょう。その祈りこそ、私たちの重荷を軽くするばかりでなく、私たちを解放し、救う力になるのですから。(小川宏嗣)



2015年9月13日

 

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。 あなたはいのちを選びなさい。」    

             申命記3019(新改訳)

 

マタイによる福音書221-14節は、「婚宴」のたとえとして知られています。ルターは、この箇所を自分が好んで説教することはしない「恐るべき福音」と呼びました。喜ばしい婚宴のイメージとは対照的に、殺人、町の滅亡、来客の追放といった陰惨で、生々しい結末が語られているからなのでしょう。

「王からの招きに対して、あなたはどのように応えますか?」と、このたとえは読み手である私たちに問いかけます。たとえの後半、婚礼の場で礼服を着ていない者が登場します。彼は最終的に追い出されてしまいます。何が問題とされたのでしょうか。礼服を着ていないこと自体でしょうか。敢えて言えば、彼の沈黙にこそ、問題があると考えられます。沈黙によって、彼は、問いかける相手を殺し、また、自身の存在を否定しています。そこには、死があります。

キリスト教信仰は、沈黙し続け、同じところに安住し続けるのを良しとしません。私たちは、聖書の言葉に聞き、日々の状況に直面するときに、「あなたはどうするのか」と問われます。その問いに応えていくとき、私たちはいのちの豊かさにあずかる者とされるのではないでしょうか。                    (元川信治)

 



2015年9月6日

 

わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあり ます。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられたものとなってもよいとさえ思っています。(ローマの信徒への手紙92節)

 

イエス・キリストによる救いは神様の一方的な恵みです。しかし、私たちは信仰を単に美しい神の恵みと片づけるわけにはいきません。神の恵みの 美しさとは、この世の弱く、惨めな者が、そのままに受け止められている ということです。信仰とは、偉大なもの、強いもの、誇らしいことだけを愛するのではなく、弱く、惨めで、はかないものを愛し、そのために涙を流し尽くすことの尊さをイエス・キリストが十字架の上で身をもって示してくださったことを受け取っていくことです。

もし、私たちが惨めなまでに、人間の惨めさを愛することを知らない限り、イエス・キリストを知ることは出来ないでしょう。イエス・キリストの十字架に現わされた神の愛の痛みを感じ取ることは出来ないでしょう。

パウロが、「ひとりの人が救われるためなら、自分はどうなってもかまわない、すべてを失ってもかまわない」と言い切ったイエス・キリストの救いについて、私たちキリスト教会はどれほど真剣に考えているでしょうか。

                         (小川宏嗣)

 

2015年8月30日

 

「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(コリントの信徒への手紙一 1558節)

 

私が小学校6年生の時、クラスで相撲が流行って、よく休み時間に相撲を取っていました。私は若三杉(二代目若乃花)が大好きで、上手投げのまねをしたものです。

相撲は腕力ではなく、腰が大事だということをよく聞きます。このことは、仕事、学問、芸術、すべてのことに通じるのではないでしょうか。何をするにしても、腕力で行こうとすると、息切れがしてしまい、長続きはしません。いつも、腰の重さと深さが問われるのです。信仰生活も全く同じではないでしょうか。

相撲用語に「腰が浮く」、「腰を落とす」があります。腰が浮けば、重心が浮き上がってしまい、逃げ出すことになってしまいます。腰を下ろす、腰を落ち着けるとは、腰や下腹の重心を固め、正面切って取り組むということを言います。

旧約聖書の原典で使われているヘブライ語では、信仰のことを「堅い」とか「不動」を意味するそうです。まさに信仰とは、神における不動、そこに腰を下ろしきることであるということです。堅く、動くことのない神の真実に信頼する歩み、それが信仰ということなのでしょう。

                                                                           (小川宏嗣)


2015年8月23日


 互いにイエス・キリストの心を心とせよ。キリストとは、神の身でありながら、神と等しいことに固執せず、かえってしもべの身となり、自分を無にして、人間と同じものになった。人間の姿であらわれ、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、神はキリストを高くあげ、すべての名にまさる名をお与えになった」(フィリピ2:59

 

人を変えるには、叱りつけたり、諭したり、励ましたりして変わるものではありません。励まされて、かえって自分が惨めになることすらあります。言われるようにできない自分が情けなくなるからです。同情されることは、慰めにはなるでしょう。しかし、力にはなりません。なぜなら、他者は相変わらず、私の外に立って眺めているだけだからです。

人の救いについても、叱咤激励だけでは、人は救われません。人を変える、人が救われるということは、イエス・キリストがなさったように、自分を十字架につけることによってのみ出来ることではないでしょうか。

食べ物は人の体の中に入って自らを消しながら、その人の血となり、肉となり、力となります。それと同じように、イエス・キリストの十字架であらわされた神の愛とは、同情や共感を生むだけではなく、私たち人間と生死を共にする愛であり、弱い者を叱咤激励することではなく、自ら弱くなること、自らを無にするまでの愛によって、人間を救うことにあります。

この神の愛こそが、弱さ、愚かさ、惨めさを持つ私たち人間を真に生かすのです。(小川宏嗣)




2015年8月16日

聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残るヨハネによる福音書202223

 

私たちは、「夢」を見たいと思いますし、「理想」を持たなくてはならないと思います。しかし、自分の思うようにならない現実を嘆きつつ、歩むこともあります。理想というものは高くて遠い夢なのかも知れません。

しかし、どこに生きているにせよ、私が立たされているところ以外に身を置くことはできません。生きる場は、「今、ここに」、しかありません。だから、いつ、どこにあっても、私たち人間にとって生きられなくてはならない夢・幻、使命と働きがあるとすれば、それは、「愛、愛する」ということではないでしょうか。そして、その愛が与えられることを「祈る」ということではないでしょうか。誰か、他の人が変えられることによって、この世界が変わるのではなく、愛が祈りによって、私自身を変えてくれる時、この世界が変わるのです。

だから、イエス・キリストが言われたように、私たちは「聖霊を受けるヨハネ20:22必要があるのです。聖霊を受けるとは、イエス・キリストに出会い、イエス・キリストを知り、イエス・キリストを主と告白することです。                  (小川宏嗣)

2015年8月9日

 

第二次世界大戦敗戦後70年を迎えています。戦争が愚かであることは 誰でもが知っているはずですが、戦争はいつの時代にも果てることがありません。

キリスト教会はこれまで世界の平和のために、どういう役割を果たしてきたのでしょうか。戦争に反対した多くのキリスト者がいる一方で、戦争に加担してきたキリスト者も数多くいます。本来、平和の使者であるはずのキリスト者ですが、戦争に加担した例は無数にあるのです。その罪は認め なくてはならないと思います。

ドイツの元大統領、R.V.ヴァイツェッカーは、『過去に目をふさぐものは 将来に対しても無知である』と語りました。過去を知ること、これは簡単なようで非常に困難なことです。過去を見る“見かた”が問われるからです。それは過去を見るその人の“人間”が問われることに通じます。

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ3:15という聖書の言葉が、もし私たちの心に実現されているとすれば、どのような「過去」が見えてくるでしょうか。自らの救いを願うばかりでなく、「平和をつくり出す」キリスト者の存在理由が、今、真に問われています。

私たちはキリスト信仰に立ち、自らの罪を認め、告白し、悔い改めようではありませんか。そのことが平和をつくり出すことの第一歩になると信じるからです。                

                     (小川宏嗣)



2015年8月2日

 

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。

すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」(ヨハネによる福音書1章1~5節)

 

人間は、言葉なしには生きることができません。私たちが日々読んでいる聖書も言葉によって伝えられています。にもかかわらず、言葉以上のもの、つまり言葉に「命」を与えているものがなければ、言葉は死語になり、また人を殺す毒(ヤコブ3:8)にもなります。

 旧約聖書で「言葉」と訳されているヘブライ語「ターバール」は、言葉によって示される「事」をも意味します。言葉はそれが意味する「事」を生み、また、「事」によって生み出されるものだからです。「生み出す力」「命」「業」というものが、「言葉」にかかわっているのです。

 だから、大切なことは、言葉に伴う事実です。事実のない言葉は空回りになり、伝わりません。この現代こそ、その事実を伴う言葉、言葉に伴う行為、それが求められているのではないでしょうか。それが人の心を揺さぶるからです。愛の事実が心に命を吹き込んでいくのではないでしょうか。それが人の心を揺さぶるからです。愛の事実が心に命を吹き込んでいくのではないでしょうか。事実がものを言うのです。今はそういう福音宣教の時代です。そのようにして、最も強力な福音宣教の力になるのは、み言葉を自らに生きること、その事実を作っていくことです。それが私たち教会の目標です。

                          (小川宏嗣)

 


 2015年7月26日


「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」 (ヨハネによる福音書13 章34~35節)

 

「不自由な体になって、自分が人から食べさせてもらうことを想像してごらんなさい。どんなに味気ないものか、分かりますか?」。介護師学校時代の恩師の言葉です。更に、「老人や病人の食事の手助けは、お盆の上にあるものを口に運んであげればよいというものではありません。『どれから食べますか?』と尋ねてあげると、指か目つきで、言葉が言えなくても示すものです。少しでも、自分の意志と望みを生かしてあげること、そしてはじめて、その人は食事をした気持ちになれるのです」とも教えられました。

相手の身になる、相手を生かすように働きかける、それによって私たち自身も生きるようになる。言葉ではなく、このような行為の中に、愛の意味が現れるのです。愛しさえすればよい、というのではありません。相手が愛するようになるのでなければ、一方通行の「隣人愛」にしかなりません。今、振り返ると、老人介護施設での食事介助で、大切なことを学んだと思います。

旧約聖書の古い掟、「隣人を自分のように愛せよ」(レビ19:18は、イエス・キリストの新しい掟、「互いに愛し合いなさい、わたしがあなたがたを愛したように」(ヨハネ13:34によって完成されなければ、真の人間の救いはあり得ないことを主イエスは私たちに伝えています。

                          (小川宏嗣)

2015年7月19日

 

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように。主を畏れる人に救いは近く/栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。詩編85:910

 

 

第二次世界大戦終結直前、ナチス・ドイツによって処刑されたドイツのD.ボンへッファー牧師は次のように語っています。

「…『安全』に至る道を通って、『平和』に至ることはできない。なぜなら平和は、そのためにあえて行動しなければならないものだからである。『平和』は、『安全』の反対なのである。安全を求めるということは、相手に対する不信感を持つということである。そしてこの不信感が戦争を引き起こすのである。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。これに対して、平和とは、神の戒めにすべてをゆだね、安全を求めないということであり、信仰と服従によって諸国民の歴史を全能の神の手に委ねることであり、諸国民の運命を自分に都合よく左右しようとは思わないことである。…」

(ボンへッファー『告白教会と世界教会』)

 

私は神のみ言葉に自らを委ねて、安全ではなく、平和を求めます。自分を守るための戦いこそが、戦争を引き起こしていくからです。

私はイエス・キリストの御名によって、戦争法案に反対します。決して従いません。いかなる戦争にも協力しません。武器による戦いには、勝利はありません。神のみ言葉にのみ従います。そのことによって十字架に行き着くことになっても、そこに勝利があり、平和があるのです。       (小川宏嗣)

 

 2015年7月12日

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」        (マルコによる福音書1:1618

 

イエス・キリストが弟子として最初に招いたのは漁師たちでした。無名の、ごく普通の人たちです。主イエスは神の愛を宣べ伝える働きのために、一人ひとりを 信頼し「わたしと一緒にやろう」と呼びかけたのです。その時、漁師たちは、「自分に出来るのだろうか、もっとふさわしい人がいるのではないか、どうしようか」と迷ったのかも知れません。

しかし、彼らは結局、その働きを引き受けていきます。それは、彼らが自分を  信頼し、期待を込めて呼びかけてくれた主イエスを信頼したからではないでしょうか。

大変な仕事を引き受けていく時に大切なことは、その働きを「一緒にやろう」と呼びかけてくれたその人に信頼していくことです。能力、才能の有無、時間の余裕のあるなし、得て、不得手などを乗り越えて、自分を信頼し、呼びかけてくれた  その人に信頼して、一歩踏み出していくことが大切です。

また、「任せる」ということは、自分は何もしなくてよいとか、自分は知らない、ということではありません。任せられた人が、その働きを全うできるように、一緒に働き助けていくことですし、それができない場合でも祈って助けることができるのです。助け合うという業の中に神の恵みが与えられていきます。教会の働きとは、神の招きの前に、共に働き、助け合い、祈り合うことによってなされていくのです。(小川宏嗣)

2015年7月5日

 

「平和を実現する人々は、幸いである。・・・」(マタイ5:9)。

 

「平和」を旧約聖書は「シャローム」と訳しています(イザヤ9:6)。

カトリック教会の神父で大阪・釜ヶ崎で野宿者の支援をしている本田哲郎さんは、シャロームについて次のように述べています。

「『平和(シャローム)』とは単に、戦争がなく、社会が繁栄しているというようなことではありません。ヘブライ語のシャロームは物事の“充全性”を表す言葉で、“傷ついた部分のない状態”を意味します。国や民族の大多数の人が幸せに暮らしているとしても、もし、少数であっても、抑圧されたり、差別されたり、軽んじられたりしている人々がいる限り、それは平和とは言えません。家族のメンバーが九人いるとして、そのうち八人が健康に恵まれていても、一人が重病の床にあるならば、その一人が回復の兆しを見せるまでは、家族全員が気掛かりで、落ち着かないと同じです。」(『イザヤ書を読む』)。

シャロームとは傷ついた人が一人もいないこと、誰一人見捨てられていないことです。だから、この世界は平和とは決して言えません。

平和の実現ために、自分自身の中にある敵意と闘わなければなりません。私たち人間の心にある、誰かを傷つけたり、誰かのものを奪い取ってしまっても構わないと開き直る力との闘いです。もし、私たちがひとりの他者の痛みに無自覚、無関心であるならば、シャロームの実現はありません。

何より教会は、この世界に平和を実現するために神によって召されていることを心から覚えたいと思います。「平和、平和」と口先だけでは何もなりません。そのような努力をする教会、本当に平和のために立ち、努力する教会になる、それがキリスト教会の大事な仕事です。(小川宏嗣)

2015年6月28日

 

 受けること無しに与えることはできません。

 ルカによる福音書10章の「マルタとマリア」の物語は、直前の「善いサマリア人」のたとえ話と対をなしています。隣人に仕えることの意味と大切さを説いている、このたとえ話。一方で、仕えるということが強調されすぎてしまうと、善行を積むことこそが一番大切なように思えます。マルタとマリア。二人の姉妹は、それぞれ活動的生と観想的生を象徴する存在として捉えられてきました。実践(マルタ)は生の営みにとって不可欠だけれど二次的で、観想(マリア)こそ人間の本来のあり方を表している。このような理解は、この姉妹の間に生涯埋められることのない溝を引いただけでなく、教会において、個人の信仰生活において、分断や断絶を招いてきました。不幸な対立を乗り越えるために必要なこと。冒頭に記した言葉が鍵となるのではないでしょうか

 受けることの貴重さ、有難さ。神学生としての学び、歩みの中でも核心部分にあることの一つです。歴史的に見て、私たち日本バプテスト連盟に加盟する諸教会の歩みは、その多くをアメリカの南部バプテストに連なる諸教会の祈りと支えに負っています。多くの宣教師の献身と経済的支援の上に、今の私たちの歩みがあります。1971年の時点で連盟予算の約85%は、南部バプテストが負担していました。自立のための「5か年計画」を経て、連盟創立30年に当たる1977年にようやく、経常費部分の自立を達成することができました。神学校献金は、伝道者の養成と経済的な自立を祈り求める中で始められました。受けること。あなたは、神様から何を受け取っていますか。そして、それを携えて、どこに送りだされていくのでしょうか。

                         (西南学院大学神学部 神学生 元川信治)

2015年6月21日

 

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12)。

 「愛は常に現在である」という言葉があります。愛するということは、現在、あるがままの相手を認めるということ。あるがままのお互いを認め合う、ということです。私たち人間の愛は、いつも条件付きです。将来の可能性を計算に入れて愛してしまいます。それは愛でもなんでもなく、エゴイズムです。
 イエス・キリストが私たちを愛してくださっているということは、いつも、新しく、私たちの「今」を受け入れ、認めてくださっているということです。だから、それにならって、私たちもまた、互いに「今」を認め合うように、イエス・キリストは求めておられます。
 罪を犯しても、失敗しても、神の心を痛めることがあっても、神の憐みに信頼して、神の愛に信頼して、「ゆるされて生きている」ことを受け取っていきたいと思います。愛において現在を受け入れ合うこと、そこに限りない価値があり、成長があり、豊かさがあります。神を信頼し、愛を生きる人間になりたいと思います。(小川宏嗣)

2015年6月14日

 

「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす捧げものが御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/ 神よ、あなたは侮られません。」 (詩篇51:18~19)

 

 

 イエス・キリストの十字架に示されたかみの愛だけが、人間の救いであることは確かなことです。しかし、過ち多い人間にとって、愛が本当に救いになるためには、愛することとゆるすことが同じ意味を持たなくてはならないと思います。

神に愛され、ゆるされた者は、またどんな人をもゆるす愛を持つはずであるというのが、イエス・キリストの福音の教えだからです。しかし、人間の心はあまりにも貧しく、その判断は間違いやすいものです。 

だから、間違いを犯す自分自身をもゆるす心をもつことも必要なことだと思います。

 過ちは、たとえ、それが本当のことであったとしても、それをとがめたて、責めたてることによって、決して癒されることはありません。私たちが求めなければならないことは、ゆるすことです。それがイエス・キリストの福音の本質です。

                                         (小川宏嗣)