今週のメッセージ

2018年5月20日

(先週の続き)

昨日まで私の横で生きていた夫が忽然と姿を消して影も形も無くなり、サラサラの灰の粉末になってしまったのです。温もりのあった彼の命も姿も形も無くなり、無になったのです。それはそのまま明日の私自身の姿なのだと、この時ほど強く深く自覚したことはありませんでした。しかしその当時、私の信仰は余りにも未熟で、私は「人の命は肉体の誕生で始まって肉体の死で終わり無となる」という枠組みの中でしか夫と自分自身の死をとらえることはできませんでした。故鈴木正久牧師も50年前、56歳の若さで死の床にあって自らの死と対峙している中で、「死とは無である」と言い切っています。

死とは何か、生とは何か。私は恥ずかしながら60歳を過ぎて初めて、自分の生と死と命をじっと見つめることになりました。すると当然、疑問が沸いてきます。死とは無なのか。人間の命は肉体の誕生で始まって肉体の死で終わり、無となる、本当にそれだけだろうか。私は答えを探し求めて、本を貪り読み、自分探しの長い旅に出ては世界中をさ迷い歩きました。するとそこには、若い日にイエスと出会い、救い主イエスを信じることによって命を与えられている夫と私がいました。私は私の信仰生活の原点に立ち返ったのです。

「私は蘇りである。私を信じる者は、たとえ死んでも生きる。又、生きていて私を信じる者は何時までも死なない。」(ヨハネによる福音書11:2526)。

 

故鈴木正久牧師は亡くなる3週間前、入院先の病院から教会の人たちに宛ててテープ録音した説教の中で、「まあ、肉体の死というものはあるわけですが、死の蔭の谷を歩んで主に導かれて行く、というふうに、死をも超えて生きてゆくわけです」と淡々と語っています。この言葉は、夫が天に召されていく日の夜、ちょうど死の15時間位前になりますが、一晩中片時も休むことなく、もはや視力を失ってしまった両目をキッと見開いたまま、両腕に前方に高く揚げて、私がいくら制止しようとしても、それを驚くほどの力で振り切って、暗闇の中を文字通り必死でまさぐっていた姿を思い出させます。あの時、夫も間違いなく、まさに死の陰の谷を歩いて主に導かれて行っていたのだと、今は固く信じることができます。あの時彼の肉体に残されていた全ての力を振り絞って、暗闇の中をまさぐるあの両腕の力の何と強かったことでしょう17年を経た今でも鮮明に思い出されます。

                    (諸岡邦子『メメントモリ』③)